カウンター 読書日記 ●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
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●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
● 51 厄介な国事道楽者

 漁夫弾を抱いて敵国に向い 暴漢母を倒して其の財を奪う 


其の後1ケ年計り過ぎた頃、庵主が東京築地の台華社楼上に晏居の折柄、警視庁の刑事係が1名突然と来て面会を求めた、会うて見ると曰く、

 「貴殿の実弟たる、龍造寺隆邦氏が、今回或る北陸の漁民等数名と共に、漁船の親船一艘を仕立て、それに日露戦役軍夫と称して1種の徒党を組み、莫大の爆発薬と共に乗り込んで、能登の七尾港から出帆せし形跡がある為め、八方捜索の末、貴下の実弟なる事を聞き出し、何かと御存じの事情もあらば承り度しと思うて参上せり」

 云々の咄である、庵主ははっと思うた、「あの奴、新潟の鍋茶屋一夕で急造憂国家になって、又胆切れ(きもぎれ)の大胆な事を始めたな、困った事を仕出かしたなあ」とは思うたが、何様刑事の前で黙って居る訳にも行かぬから、

 「はい、龍造寺隆邦は僕の実弟に相違ありませぬ、併し此の者は幼少より商家に養子に行き、拙家へ復籍後も、主に山業に従事し、少しも対外交とか、内政上に対する政治思想とかには没交渉の男であります、僕は故郷にて一別後、数年も面会せざりしが、昨年計らず新潟にて漫遊し、一タ宿を共にして旧事を語り明かした位にて、其の際も決して談、国事などに及ばなかったのであります、今のお咄は余りに突然なのと、事柄が余り本人と懸隔がある為め、急に何等のお答えも出来ませぬが、先ず当方でも相当の捜査を仕まして、何等か事情を得ましたら、日頃懇意に致す警視総監閣下まで直ちに申し通じましょう、何れにしても事柄が国事に関する事ですから、破廉恥罪とは違い、何等隠蔽の必要もないと思いますから、御安心の上、今日は御引取りを願います」

 と云うたので、そこそこに刑事は帰ったが、扨、龍造寺奴(め)何を仕出かしたか、何様捜査の仕様もなく、取り敢えず新潟の彼の住所へ長電を打って問合せたら、翌朝返電が来た。

 「主人は不在、居所も今日は分らぬ」

 との事である、庵主も頓と行詰まり、あの龍造寺が、今不馴れの国事道楽などを初めて、首尾始末の付かぬよう事を仕出かしては困るがなあと、分けても親身は芋汁の、味は匂いの田舎武士、若い親爺の気になって、焚く焚く愚痴る愚痴る炉の炭の、起る程には心にも、怒らぬ変な気煙で、燻ぶる儘に2、3日を、暮して居たる午前2時頃、雨にも堪えぬ門の戸をこつこつ叩く者がある、風か水鶏(くいな)か電報か、番の小憎が居穢なく、気他無く、寝込んで起きぬ焦燥(もど)かしさに、自分で起きて戸締りを、開ければ、にゅーと入り来る、夜目にも夫と知らるるは、思い続けし龍造寺である、其の驚きと嬉しさ
に、云う事さえも後や先き、先ず居間へ伴いて、扨其の来意を問うて見れば、彼はにこにこ笑いを湛え(たたえ)、

 「今夜参りましたのは、お兄様が私の事で御心配になって居るとの事を、新潟の宅から申して参りましたから、夜中お休みの時にも拘らず、参上致しました訳でございます、扨、私の今回致ました事件は、元浦塩に在る私の友人が、いつの間にかどえらい対外交の思想と成って居まして、窃かに日本に帰ったが、一の知人も無い処から、私に手渡って(たよって)来まして、現在日本外交の拙劣と、軍事計画の手後れは、切歯扼腕に堪えぬと云う顛末を物語りまして、個人行為として敵国の鉄道・橋梁その他を破壊する考えであるが、何様肝心の爆発薬が手に入らぬからと、夜を徹しての慷慨咄しでございますから、私も日本人で、彼の一死を決した覚悟と精神を見捨てる訳にも参りませぬから、此の間より聊か手蔓を得て居りました、米国捕鯨船の所有する爆発薬を、鯨を捕るよりも余計の代価で買い入れまして、其の男に遣りました処が、此の爆発物買入れ等に使いました私の手下にある命知らずの漁民共が私に膝詰めの談判を致しますには『我々は親の代かに魚と取組合をして、命を捨てねばならぬ職業であるのが、今度は千載の一遇で、敵国人と取組合って死ねる時が来ましたから、是非あの浦塩の先生と一緒に、露国に遣って下さい、私共5人は、昨年の大暴風に、3日も海中に漂うて、敦賀の救難所で救われた者でござりますから、1年前に死んだと思うて出掛けます』と云いますので、其の友人と相談の結果、大賛成を致しまして、共に出帆させる事に致ましたが、新潟や敦賀では出帆が面倒でござりますから、船を七尾に廻し、出帆を企てました処が、屹度名前の知れた人で、戸籍の証明を出帆届に要する戦時中の取締であるとの事ですから其の浦塩の友人に、私の名前と戸籍証を使用せしめて危うくも出帆させたのでございます。
 故に若し発覚しましても、其の友人が私の名前を詐欺したと云う事になるだけで、私には法律上の罪はございませぬと思います、私も段々考えまするに、其の友人を其の儘に放って置くのも面白くありませんから、お目に掛ってお赦しを得ましたら、松花江の方に往ける手蔓がござりますのを幸、富山県の漁夫数人と、漁船に乗りて出掛け、何なりと少し計りでも敵国の物をぶち破して来ようか思い、只今其の準備中でございます、已に友人と先発の漁夫共は、敵国の鉄道橋桁を破わす(こわす)には、笊で帽子を拵え、それを頭に被り、其の中に爆裂薬を入れて、川上から夜中流れに従って立ち泳ぎをして、橋桁に到着し、夫を打ち付けて頭と共に橋桁を破わすと申して居ました。是等も新発明の破壊術とは思いますが、私は此れ等漁夫共より、今少し甘い工夫をしてみたいと思うています。どうか、人間として生れ来った世に、復(ま)た遭う事の出来ぬ千載一遇の時でございますから、私の思い立ちを御許可なさって下さいませ」

 と、ぺらぺらと喋舌るのである、庵主もしばらく沈黙して彼が云う事を聴いて居たが、徐ろに口を開いた。

 「総て意外千万の事を聞く物である、汝にして左様な対国家的思想のある者とは今まで思うて居なかった、先ず我が家の血統として、斯る奉公の考えを起した事丈は取敢えず賞するが、此の種の事業としては、汝はまだ全くの素人である、生ぶ(初心)の小児である、男子仮染めにも国事に身を委ぬる事を決する時には、其の精神と生命の消耗に、一定の覚悟がなくてはならぬ、其の時々の出来心で、巧名をのみ追うて走る者、之を糞虫士(くそむしざむらい)と云う、今天下に充満する志士は皆此の種類である、陽気の加減で、孵化て(わいて)、這い登っては落ち、這い登っては落ちて、遂に糞汁汚濁の中で溺死するのである、又千百万中其の糞虫士の解脱したのが、蒼蝿士(はいざむらい)と云うのである、徒らに権要や群衆に媚びて、迎歓の説をなし、出来るだけ説を売り問題を食うて、揚句の果は、蒼蝿(うる)さがられて、撲き(たたき)殺される位が落ちである、汝の今の出来心即ち急造志士は、以上の者よりも今一層劣等である、予は天性の頑鈍ながら、苟も予は予の対国家的出発点に於て、其の精神と生命の消耗に屹度覚悟を定めて居る、第1は皇上の御為め、第2は国土民人の為め、第3は朝鮮の始末と釣り代えである、此の三つの為なら、何時でも現在の生命を提供するが、其以外には決して死なぬ、後は其の日々々の出来事に対して、適当の智才と体力とを尽すのみである。然るに汝は予の弟として、北国の漁民と同じく、笊の帽子を頭に冠りて、爆裂薬を其の上に載せて北露の橋桁と共に頭を破わして済むと思うか、目に一丁字なく、心に理非の弁えなき漁民が、大和民族の一部として、全身の血を其の一挙に傾け尽すの決心は其の分限として賞するにも余りある事じゃが、汝は已に相当の識力と、理解力とを持ち、名家の血液を受けたる1男子である、夫が自から漁夫と選を同じうするは言語道断である、汝已に口あり声あり、誠を以て道を説くに、何の不自由がある、動くには已に手あり足あり、進退坐作何の不自由かあらん、先ず夫を試みたる結果として善悪の期決に対し、腹を屠るも宜し、頭を割るも宜し、夫は其の以後に於て何の遅き事か之あらんである、君国の干城には已に軍人あり、戦陣に命を捨つるを目的とす、之に従うの軍夫又後方の勤務を以て身命を擲つ(なげうつ)、予が友数十は、已に政府の命を奉じて通訳の官たる者多々あるのである、此等は又夫を以て身命を擲つのである、蓋し汝は又何の薀蓄あって此の企てを為すか、已に悪事業の為め人の産を傾むくる事十数、妻孥(さいど)10年、離散の苦楚に吟き、その全責任ある汝が最終の結論は、漁夫と死を共にするに帰着することは、現在の兄として決して之を許す事が出来ぬのである、速かに一心を立命の地に安んじ、中心(衷心)より人に対(こた)え、世に報ゆるの策を決し、生死を之に賭する事をなすべし、殊に兄が慨嘆措く能わざるの1事は、汝自から爆薬を米船に買うて之を友に与え、又自から快諾して己の名を其の友に名乗らせながら、法律上其の友が氏名詐称になる丈けで、自分は無罪なりと何と云う賤劣の精神なるか、人を欺くは罪にして、己れを欺くは罪に非ざるか、汝は先ず已の罪を知り、今予が与うる此の1書を携えて警視総監に面接し、事実真情残らず自訴して、自欺の大罪を改悟せずんば、決して子が弟たるを許さざるべし、決して遅疑逡巡はならぬぞ」

 と、説き聞かせたのである。

 いと長き、夜半の苧環(おだまき)口尽きて、窓枠漏るる東雲の、茜さすまで繰り返し、解くも語るも口繁き、軒端の雀啼き交わし、榊売る声朗かに、隣の親爺も起出でて、拍手叩く頃となった、夫より龍造寺は、庵主の手紙を携えて警視総監の官舎を訪問れ、事件の顛末漏れもなく自首した処が、段々調査の結果、其の相手たる浦塩の友人を捕縛して対照せざる限りは、矢張龍造寺が初めに信じた通り片言の自首にして、龍造寺を其の儘罪に処する事も出来ぬので、自然其の友人が龍造寺の名を詐称して、七尾を出帆したと云う事に見倣さざるを得ぬ事と成ったそうである。

 夫から龍造寺は新潟を引揚げ、東京の住居となって、永く麻布三河台の近くに居住して居たが、其の砌(みぎり)、庵主が洋行の留守中、又小説的俳優じみた1奇事を仕出かしたとの事である、夫は或る春の日に龍造寺が千住河原へ道楽の魚釣りに往って居たら頻りに眠気を催して来たので、日当り良きとある藁小積(わらこづみ)の蔭に居眠りを仕てぐっすりと眠り込んでる中に、其の藁小積の後の里道の辺で、年頃50計りの老姐の泣き叫ぶ声がするので、ふと目を覚まして窺い見るに、30格好の頑丈の若者が、その老姐の背負うて居る荷物と、首に掛けて居る財布まで剥取らんと強迫して居るので、猶じっと見て居ると、立ち上がり様、老姐を一蹴りに蹴倒した、其の老姐は真っ逆様に横の殼溝(からどぶ)に陥り、大怪我を仕たらしいので、龍造寺は余りの乱暴を見兼ねて予て巡査も奉職していたし、捕り縄の名人ではあるし、持ち合わせた魚籠(びく)の僅かのお縄を引き解きて夫を携え一声掛けて、不意に其の曲者に飛び付いた、其の曲者も声に応じて驚いた時には、もう右手と頸に縄が掛って居て、ばた付く所を眸腹を蹴って弱わらせ、遥かの野良に居る百姓を呼んで、老姐の介抱をさせ、やっと人家まで連れて来て、直ちに千住警察署に人を遣り、自分の身許から、事件の顛末までを陳述して引渡したのである。

 夫から其の老姐の身上を聞けば、生まれは埼玉県安達在の者なりしが、1人の息子が放蕩者にて、酒と博打に身を持ち崩し、とうとう其の母は故郷にも居堪えず千住に出て来て、人仕事の傍ら小店を出して微に暮して居たが、其の亭主が日清戦争中、田庄台にて戦歿せる功に依り下賜せられた金合計2百円丈けを某銀行に預け置きしに、一時其の銀行が破産に瀕した時、村の誰れ彼の世話にて、夫(それ)を受取って貰うて、以来は銀行と云うものは只々恐い物と思い込み、夫の遺物(おっとのかたみ)の財布に其の金を収め、是は夫の命の代の金故、息子の性根が直らねば決して遣らぬと、頑張って、日夜肌身に着けて離さぬ故、其の息子は常に其の母を付け廻し隙を窺うので、母も薄気味悪く、とうとう故郷の家を息子の居ぬ中に畳んで、千住に引移ったは1年半も前との事、然るに其の日どうしてか其の息子が母の居処を突止め、闖入して来て恐喝したので、母は程能く云い宥めて(なだめて)、自分の重立った手廻りの品を風呂敷に包み、王子の親類方へ逃亡せんと企たのを、其の息子が見付けて、先きの顛末に及んだとの事、の始終の咄を聞いた龍造寺は、自分が一日も父母に孝養せずして死に別れたのを、常に心の底に持って不安の念に責められて居た処故、此の事件が甚く龍造寺の頭を刺戟したものと見え、老姐を其の住所に連れ返すと共に、直ちに千住警察署に馳せ付け、彼の罪人には種々の事情があるのを聞いた故、此の儘に自分に下げ渡して呉れと懇々頼んだ所が、もう警察は一応の訊問も済み、罪状も分明なる上、前科も数犯の者故、折角の御申し込みながら、下渡しの事は不可能であると承知してくれ、又貴下が此の罪人の捕縛に対する御尽力は、其の筋へ委敷く(くわしく)報告して置いたからとの事で、止むを得ずすごすごと引き取って来たが、彼が悔恨の心は火のようになって、どうかして其の者を自分と一処に悔悟させ、母に孝養がさせて見たくて、其の当分は全く抜け殼のようになって考込んで居たが、不図其の罪人が明日浦和の裁判所に送らるるとの事を聞き出し、直ちに龍造寺は一種の大奇行を企てたのである、夫は其の日の午後4時頃、浦和街道の人里離れた所を見澄し、不意に護衛巡査に当身をして、其の罪人を連れて大塚村の或る在家に一夕を潜伏し、夜を徹して其の男に人道の説諭をなし、彼が十分悔悟の心あるを見て、龍造じそ其の罪人の衣服を全部脱がせて自分が着、又其の罪人には自分の着て居たモウニング服を全部着せ、嫌がるを無理に金を与えて、其の家より追出した後、其の家主を説得し、金を与えて大塚の警察に告訴させた、

 「私の内に是々の罪人が飛込んで来ました」と云うので直ちに大塚警察から捕縛に来て拘引され、夫(それ)から5日計り(ばか)獄舎に入ったのである。其の中に千住警察へ大塚署から照会があって、引渡された。全くの化けの皮が現われたので、改め龍造寺は自分の意思と非行とを自訴した。千住でも困って、龍造寺を警視庁の方に廻したのである。当時の総監は随分磊落な人であった為め、龍造寺はとうとう罰金で放免となった。

 此れに関聯した事を書けば、まだ面白い事が沢山あるが此処には省く。此の顛末の為め龍造寺は其の当身を呉れた巡査を辞職させて、北海道の事業の支配人となし、其の親不孝の男は、麻布の谷町辺に家を持たせ、庵主が帰朝の後、龍造寺が連れて来たから、殊更に説諭もした事があるが、悪に強ければ善にも強く、其の後は別人の加く母に孝養を尽し、是も龍造寺が世話で、其の母の死後、森岡移民会社とかの募集にじて、南米に出稼ぎをする事になったのである。龍造寺は俳児気(やくしゃぎ)の為め、生れて始めて牢獄と云う物に入られたのである。

 ● 51  了。 
 

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