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●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
 ● 49 突如来訪せる怪紳士

    北越の逆旅紳士と漫遊し 県吏饌を供えて兄弟を慰む   
 


  下の関の逆旅に於て、兄弟図らず邂逅し、庵主が長々敷き説教に、龍造寺は両手を畳に突いて、暫らく落涙の体であったが、漸くに頭を擡げ(もたげ)、

 「狩場の雨に兄弟(はらから)が、仇を討ちにし安元の、昔を偲び諸共に、世の仇草を薙払い、天に代りて道を行(や)り、地を平げて人を矯め、曾我にも恥じぬ武士道を、研(みが)かんものと思召す、兄上様に似もやらで、徒(ただ)に利を追う市人等の、群に交わり一筋に、卑しき業を遂げなんと、急燥る(あせる)心の私を、猶お人ケ間敷く思召し、枯葉に灑ぐ(そそぐ)露かそも、ふす馬に糧の御教訓、今更尊き恩願を、仰ぎ見るさえ身に恥じて、只恐ろしくのみ思いまするが、是を克く御聴取下されまして、私一期の御願いを、御聞き済み下さりますれば、世に有りがたき事でござりまする。抑々(そもそも)御教訓の大主意は武士としての大道、人としての大義、共に違背のあるべき様なく、只恐入って御教訓に従いまするの外ござりませぬが、私志業の出発一歩に於て、已に万世の志をあやまり、失敗に次ぐに失敗を以てし、今や已に人の産を傷つけ、人の財を失うこと、積んで茲に12万余円と相成り、青年一己の負債としては、吾人共に案外に存ずる事でござりまする、若し此の事の顛末が御両親様の御耳に入らば、只さえ物堅き御心に、さぞかしのお驚きと御嘆きは、目に見るよりも恐ろしく思いまするので、斯くは途方に迷う訳でござりまする。此の故に天運万一私に尽きず、此の大難事の義務を果し敢(おお)せる時もござりましたなら、其の時こそは御教訓に従い、心機忽ちに一転致まして、左右の御膝下に侍って、武士の志業にお伴する事を万望致しますのでござりまする。其の運命の分限を、験めし試みます其の間は、不心得なる弟は、世に無き者とでも思し召しまして、私存分の活動をお赦し下さる様にとの願いでござりまする、申し上ぐるも恐れ入る事ではございますが、其の間御両親様の御定省(おみとり)と、私妻子の上の事どもは、偏えに兄上の御眷顧(けんこ)を御願い申し上げまする、其の代りに私は、今日限りに九州の事業全体を放棄致しまして、身を東北の曠野に放ち、運命の輸嬴(しゅえい)を一挙に賭して見たいと存じまする。其の期間は、今日よりどうか10年と思召されて、鴻封雁信共に断絶をして、死生の御通知さえも申し上げませぬから、運あって再び温顔を拝しますまでは、世に無き者と思召しお断念め(あきらめ)置を願い上げまする」
 と、最も堅き決心の程を申し述べたのである。庵主も現在の竜造寺が境遇にては、其の辺が彼の性質上、過当の決心だと思うたから、心から其の申し出を許し、持ち合せの金を過半龍造寺に分け与え、尚お後々の事どもまで夫是れと申し聞け、其の夜は図らずも兄弟旅の浮寝に枕を並べて語り明し、翌朝は未明より起き出で、衣服万端旅の調度をも世話して、大川丸とか云える大阪行の汽船に乗込ませ、惜むも尽きぬ兄弟(はらから)の、訳なき涙に引き分くる、袂と袖と振り分けて、海と陸との東西に、悲しき別れを為したのである。

 夫(それ)より庵主は故郷に帰り、弟嫁と甥との養育に注意し、両親には「男の子と云う者は、蓬桑四方に志を伸べて、運命を開拓せしむる、所謂可愛子には旅させよの俚諺(りげん)に因るを最も可とする」所以等を説き聞かせて、憂き年月を送ったのである。彼の秒(セコンド)は、世界の原始より終末まで、決して休止せぬものである、人類其の他の森羅万象は、各自此の秒の音に連れて、舞踊を続け、世界劇場にてダンス1頁の筋書と、歴史の劇作とに憂身を窶し(やつし)つつ暮すものである。其の秒(セコンド)は忽ちにして3150万6千の音を立てゝ1ケ年を過した又夢の間に3億1536万の音を立てて10年は経過したのである。此の間に彼龍造寺は、何な(どんな)ダンスを踊って、どんな歴史劇を演じたかは更らに分らなかった、庵主の監督に係る方の、歴史劇の報告はこうである。

 「父は上顎下顎の歯が悉く脱落して、半禿の残毛は、銀の如く白くなった、母は拳骨位であった髷が5厘饅頭位になって、リョーマチスの為め歩行が不自由になり、眼鏡を掛けても、針の耳が通らず、僅かに日向好縁端(えんがわ)で、孫の着物のつづくり位を仕事とする様になった。庵主の妻と弟嫁の2人は各子供片手に内外の事に立ち働いては居るが、世話女房染みたのが通り越して、世話女房煮染(にしめ)位になった。併し子供の手足は反比例に、驚くばかり伸びて、甥の道之助は11歳何ケ月となって、小学校の成績は甲抜けの優等尽しであった。茲で庵主の大失策は、彼の鯉沼家再興の意思に急なるが為に此の道之肋だけを東京に呼び寄せ、彼の阿部博士に頼んで、早稲田に入学せしめた。丁度此の頃が彼の不良少年発生の初期であって、一寸の油断もなき中に、悪友の為めに損傷されて、不良少年の群に這入ったので、博士と庵主の狼狽は一通りでなかった、直に退校はさせたが、間もなく、大病を煩うたので、諸所の病院に入れて全快させ、此の儘でも済まぬから、或る田舎の園芸学校に転校させ、やっと夫を卒業させて、故郷に孤棲して居る母たる弟嫁の処に送り帰し、兎も角鯉沼家丈けは継がせる事にしたのである、以上の顚末は即ち彼の(かの)3億1536万秒劇中の抜書ではあるが一方龍造寺の方の芝居の景気は、一向に分らぬのである、甚しい事には其の居所さえ分らず、また死生さえ杳として知るべき手段がないのである。其の中起った1事件は、10数年孤閨を守って居た、貞操無比の弟嫁・増女は、天性至って孝心深き性質にて、其の里方の鯉沼家にある1人の母が老病の床に就く事となったので、庵主及親戚協和相談の上、其の病母の介抱に従事せしむる為め、新たに出来た鯉沼家の里方に復籍せしむる事としたのである。

 「此れにて龍造寺は生きて居ても死んで居ても、庵主の目的たる鯉沼家は立つわ」「女性1人前の尽すべき、半生以上の貞操は立て通したわ」「子供は生長したわ」「一時滅家に瀬した鯉沼家の再興はゆがみなりに出来たわ」、此の上は老母の看護(みとり)を終えて、孝道に欠点さえ無ければ増女の生涯は立派なものであると云う事になったのである。処で一方庵主が間断なく憂身を窶して居る天下国家、即ち世間と云う物に対しての、不平不満の低気圧は、兪々益々と濃厚を加えて来て、最早我慢も辛抱も出来ぬ事となって来た。殊に外交方面の危険と不体裁は、言語に絶する有様と成って来たので、庵主は親と妻に其の意中を明かして、予て気脈を通じ、山問僻陬(へきすう)に潜伏して居る、憂国同志の人々に事を謀るべく、意を決っして瓢然と故郷を立ち出でたのは、秋の田の面の零れ穂に、飢を囀る雀等が、食を争う頃であった。夫より、山陰地方より廻りて北陸に入り、越前、加賀、越中より越後に辿りついた時は、最早遠山が峯に雪降りて、近谷々に紅葉散る、秋の末頃であった。即ち新潟にて浦塩より密航し来る同志に面会して、また此方より同方へ密航させねばならぬ用向きに従事
したが、此等の秘密行為のために、京阪地方との通信は絶ゆるし不謹慎な事は為て居るし、路用の金には必死と行詰まると云うので、新潟の或る逆旅に空しく淹留(えんりゅう)せねばならぬ事となったのである。時雨降る日の炉辺に、或いは書を読み筆を走らして、1日の悶えを遣るを所作として居たが其の時の詩に、

    英雄雌伏奈機「ちゅう」   北陸千山復嘯秋

    不管天時風雨悪       壷中歳月付安流

   或る日の事、突如として這入って来た紳士があった。ラッコのチョッキに山高帽子、ロングコートに長靴で、ぴたり縁側の板張に平伏して辞儀をするので、庵主の胸はどきんとした。是は何でも東京から、国事を探偵する官憲が、庵主の挙動を物色する為めに追掛けて来たものに相違ないと考えて、逸早く相当の覚悟は極めたのであった処が、徐ろに顔を上げるを見れば、壹図らんや夫が龍造寺であった。おやと庵主が意外の叫びをした時は、彼は満面充血の眼に涙さえ漂わして、声も唖りて(つまりて)云い能わざる有様である。暫くして、

 「図らざる処にて、お兄様のご無事なお顔を拝しましたのは、私今生の仕合せではござりますが、一通りならざる不孝の身を以て、押してお目通りを致ますは、身の罪を弁えざる致方でござりますが、余りのお懐かしさに、前後を忘れての推参、何卒万々の御赦免を願います。下の関でお別れ申して以来の為体(ていたらく)は、お許しを得て追々に申し上げますが、取り敢ず御両親様は御機嫌宜う居らせられますか」

 是を聞く中に庵主は、嬉しさと懐かしさの感に打たれたものか、答える声はもう疾うに(とうに)曇って居た。
 「おう御機嫌良いぞ、安心せよ、道之助も増女も達者で居る。色々変った咄しもあるが、急には出合わぬ。先ず何より貴様の健在は兄が一期の喜びである、何は兎もあれ、世に憚からる不埓の所行、少しは改むる気になったか、どうじゃ」

 「世の諺に申す如く、己の欠び(あくび)臭からずと、私の所行に就いて、其の善悪は分りませぬが、九州方面の筋悪しき債務だけは大略始末を付けましたのでございます、残る処の物は友誼若くは法制の上にやや適法の物斗り(ばかり)と相成ました次第でございますから、是からはお兄様のお咄も多少は耳にも入る筈に心得て居ります、扨、世の中と申す恐い風波に揉まれて見ますると、お兄様の御教訓が不思議にも可笑い程思い当る事ばかりでございます、只管、有難く存じまして、改めて厚くお礼を申し上ます」

 「おう、夫が分れば、千万の負債も物の数かはである、俺も貴様にこそ、講釈も為るが、俺自身の自分の所行を心すれば、背(せびら)に汗する事が度々である、併し、其の結果が善にあれ悪にあれ、俺は善意の行為である。また夫が自己でない、期する所は世間である、自外他救(じげたく)である、天下国家の事である、貴様等の目に余り、耳に余る事があっても、夫は笑って呉れるな」

 「いや、今日お兄様の御在所を知りました事に付いて、一寸申し上ますが、私の友人当県庁の警部長、久保村活三なる人は、前年福岡県の警部長を勤務して居た事のある人にて、知事は籠手田安定(こてだやすさだ)と申す人でございます、其の両氏を他用にて訪問致ました処、両人にて窃か(ひそか)に別室に私を招いて・・・

 『君の賢兄杉山君は、今当市に滞在中である、予て半洋船(あいのこぶね)の帆船に、エンジンを窃めたる密猟船にて、異籍の露領に往復せしむる行為に、杉山君が関係ありとの嫌疑で、其の事を東京より通知して来て居る、夫が各方面である、萩港、松江港、西郷港、舞鶴港、伏木港と時々変更あるが、今度は新潟港である、浦塩領事からも注意が来て居るのである、其の通知を手にしたのが今朝である、元々福岡に於て懇意なりし杉山君が、此の新潟市に滞在して居らるる事を、今知るさえ驚いたのに、其の弟君たる君が来訪せられたので、又驚いたのである、今知事公とも相談して見ると、知事公も杉山は剣道の友で、東京の山岡鉄舟先生との連絡で懇意であるとの事、旁々(かたがた)表向き官憲の手に掛ける訳にはどうして行かぬから、幸いの来訪故、君、お兄さんの処に行って、両人で心配して居ると云う事丈けを早く通じて貰いたい、もう既に所用済になって、間もなく東京へでも帰らるる模様ならば、県庁よりは最早出立後なりとの通牒をして、当庁は責めを遁(の)がるる積りである。

「うむ、最早嗅ぎ付けたか、夫は尤もである、大分日数も永くなったから、俺はもう用事は疾うに済んで居れ共、不見不知(みずしらず)の旅で、金が1文も無くなったが、大びらに東京との通信も出来ぬのは、今度は東京から直行して此処に来たのではない、九州から山陰、北陸を経て、此処に来たのであるから、東京の関係者との連絡が取ってない、故に万止むを得ず、全く方角違いの東京の子分の奴に、偽名の手紙を出したが、先方が不在の為め延引して、やっと先刻30円の為替手形が到着して居るが、今日の日曜では夫を受取る訳にも行かぬから、此の手形と印判とを宿に託して、明日早朝に新潟を出立する積りである。夫故に知事や警部長に、徒らに心配をさせるでもないから、貴様是から直ぐに行って、明早朝に立つから今度は失礼すると、よく礼を云うて断って来てくれ、夫から今夜は又共々に寝て夜と共に積る咄をして、明朝別るる事に仕よう」と茲に此の問題は打合せ済みとなった。

 其の龍造寺が出て往ったと摺(すれ)違いに、庵主の身に大難事が突発した、夫は数日前、彼の秘密用の為めに、日本船と偽って、一寸寄港した密猟船が、出帆以来強烈な北の台風に吹き蹙(しじ)められて、船に損所を生じ、何とも凌ぎの道なく、直江津港は平灘にて寄港出来ず、伏木までの航海に船が堪えず、万止むを得ず新潟に吹き付けられ、港口に近づかんとする時、怒濤に巻かれて船を粉砕され、船員は破片と共に散乱し、米人にして加奈陀籍のリードと云える者と、密行の庵主の友1人1人が、破れたるボートに縋り付いた儘、浜辺に打上げられ、万死に一生を得て、庵主の宿に濡れ鼠のようになって飛び込んで来た一事である、庵主は驚愕と喜びと当惑が一時に襲来したが、万策尽きて居る時故、手短かに事情を咄して、直ちに2台の車を呼んで、濡れ衣服の上に庵主の外套と、和服のコートとを羽織らせ、幸いに肌付きの金は、両人とも持って居るから、兎も角も新潟市を離れたら、適宜の方法によりて、管轄違いの長野市善光寺の某所に宿泊して、庵主を待つべしと申し含め追い立てたのである。

 間もなく龍造寺も帰って来て、何れも首尾好き報を齎(もた)らして来たから、久し振りにて共々に食事をして、打寛ろぎて有りし往事を物語ったのである。

深雪(みゆき)降る夜の友垣は、薪に勝る炭々の、憂き嬉しさを様々と、互み交り(かたみがわり)に語(あ)げつろう、炉に増して温き、情けあふるる兄弟の、邂逅(めぐりあい)たる楽しさは拙き筆には書かれぬのである、其の夜はとうとう諸ともに眠りもやらず、遠里の鶏の声を聞くに至ったのである、然るに翌朝になって見ると、昨夜来の風雨にて、信濃川の水嵩幾丈を増したとかにて、附近市町村の騒動大方ならず、殊に北陸無比の長橋と称せられた、信濃川橋はあわや洪水にて押流されんばかりの有様で、1人の渡橋者をも厳禁としたとの事である、為めに其の日は空しく龍造寺と共に宿にて暮らして居たが、薄暮頃に突然龍造寺に1封の手紙が来た。
 

 夫は警部長・久保村活三氏からである。披き(ひらき)見れば、

 「御相宿の高知県の林矩一君と同道にて料理店・鍋茶屋まで御枉駕を願う」と、林矩一とは庵主が久敷き以前からの偽名である。夫を書いて送ったは変ではあるが、夫が警部長丈に面白いのである。


 「好し面白い、往て見よう」
 と、龍造寺と共に出掛けて往ったが、久方振りに旧友久保村、籠手田(こてだ)の両氏に面会して、又如何なる物語りがあるか夫は次回に譲る事としよう。

 ● 49  了。

 
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