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●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
 ●『百魔』 魔人龍造寺隆邦
 
 ●47 奇計を案じて恋病(こいわずらい)を癒す 

   小娘恋を知って病をなし 壮士志を立てヽ学に就く 


 庵主が其の鯉沼家の遺孤(みなしご)橘之助(きつのすけ)をして、小学中学より、専門の学科、採鉱冶金の学術を修めさせるまで、凡そ12、3年の月日であった。丁度此の橘之助17、8歳の頃、庵主が福岡市の博多、奥の堂と云う町に、或る2階を借り受け、博多に用事あって潜在する時の寝泊りを為る所として、其の留守番には彼の橘之助を置いて学校に通わせて居た。一切の賄いは、家主たる50余歳になる後家の老姆が世話をして呉れる事になって居た。此の橘之助は遺伝血統の美貌にて、膚色全く玉の如く白く、眉目飽迄秀で、身の丈け普通よりも立伸び、一眸(いっぺい)の風相は忽ちにして人を魅せんとするが如く、幼にして文を綴り数学に堪能なる事は、全く天質であろうと思われた。或る日庵主が此の寓所に立寄った時、下なる老姆は恐る恐る庵主の側に来りて徐ろに咄し出した。

 「旦那様私は」鯉沼の若旦那様の事について、少しお咄したい事がござります。夫は此の2、3ヶ月前の事でござりました。市外の住吉に住まわるる或る豪家のお袋様がお出になりまして、《お恥かしい事ながら私の娘・みちと云う、今年19歳になるのが御当家様に居らるる鯉沼の若旦那を垣間見て娘心の遣る瀬もなく、通い馴れたる裁縫の、学校にさえ行かずして、思いに悩む様子なるより、夫と共に色々と、問慰めすかせしが、思い乱るる黒髪の、解く由もなき有様故、途方に暮れて夫婦とも、泣くに泣かれぬ一人娘の、家の跡継ぐ婿がねは、已に博多の或る豪家と、婚約さえも整えある故、親族どもとも相談して、娘の心を直さんと、交る(かわる)交るの強意見も、為れば為る程弥増す思い、終には病の床に臥し、日毎に悴(やつ)れ湯茶さえも進まぬまでの痛付にて、ほとほと困(こう)じ果てたので、或る日夫婦相談して、向うの店に半日程、腰打掛けて若旦那の、お帰りを待居りしに、日足傾く夕前に、学校道具を手に提げて、お帰りなさるお姿を、見ると夫婦共あっと云う程感嘆し、娘が迷うも無理ならず、何と云う立派な凛々しい若旦那様、誰あろう御家中にて、品格高きお家柄、世が世の時であろうなら、云い寄るすべもあらがねの、地を這う町家の我々が、お側へさえも寄りかぬる、身分を忘れ今の世の、逆さま事のお願いを、お前を頼み云い出づる、心を不憫と推量して、申し探りて給われかし、養子と云うが恐れあらば、娘を嫁にさし上げるも、只だお主に任すべし》と掻き口説かれて私も、差寄り返事に困じ果て、其の夜若旦那の側に往て(いって)、事の顛末物語り、思召を伺いしに、若旦那様は膝捻じ向け、

 『女が僕にどうしたと、僕は是から勉強して、男に成る稽古を為るのじゃ。夫に女(おなご)が何に成るか』

 と、丸で石地蔵の鼻の先を、燕が飛んで往た(いった)程もお感じのないお詞(ことば)に、私もはっと行詰り、御返事さえも碌々に、出兼ます故漸々と《夫でも若様あなたにも、遅かれ早かれ奥様は、お持ちなさらにゃ成りますまい》と云えば忽ち血相かえ、

 『老姆、そんな事は、叔父様が、一度も云うて聞かせない、叔父様は逢う度に、男になれ、勉強せよ勉強せよ、此の二つの外云わないよ、僕は、叔父様の云う二つでさえ困って居るのに、老姆の云う事まで聞いて溜るものではない、老姆、飯も僕が注て(よそうて)食うから、お前は下へ降りて呉れ』

 と、大変な権幕でいらっしゃいますから、私もほとほと閉口しましたが、去らばと云うて先方の、ご老人の御夫婦にも、お気の毒に思いますし、其のお嬢様のお身上は、どんなであろうと気が病んでなりませぬ、旦那様、何とか御工夫は有りますまいか」

 と、老いの心の一筋に、説き立てられて、庵主は夫を面白き事に思い、橘之助が返答振りの素直さと、恋の病治療法の研究とに一入の興味を持ったのである。夫から庵主は老姆に答えた。

 「老姆、色々の事情能く分った。併し、其の事は心配するな、直に其の娘を思い切らして遣るから、先方の両親にも、俺が逢うて咄すからと、安心させて置いて呉れ」

 と云えど老姆さん中々に承知せず、

 「旦那様、そんな手易い病気ではございませんよ、先方のお嬢様は、今頃は大変でございますよ」
 「いや、心配するな、恋病と云うものは、女の神経衰弱じゃから、直すのは訳はないよ、あの橘之助は一人息子で、家の名籍を興す責任のある体故、今から妻帯をさせる訳には行かぬ、双方無事に、俺が片付ける工夫をするから心配せずに居てくれよ」

 と云うて其の話は済ませたが、扨、余り永く打棄てて置く訳にも行かず、庵主は其の老姆を頼んで、其の住吉の豪家に出入りする医者を呼寄せ、事の顛末を委細咄して、一策を授けたのである、其の医者は早速に先方に行って、庵主と宿の老姆と橘之助と其の医者とを、お九日(おくんち)と云う、村祭神事の御馳走に呼ぶ事に頼んで置いて、橘之助には庵主が斯う云うたのである。
「橘之助よ、貴様はお九日の御馳走が食い度い事はないか」
「叔父様、僕は一度も腹一杯御馳走を食うた事がございませんから、どうか連れて行って下さい」
 「うむ、夫なら連れて行くが、何でも叔父さんの云う通りにせねばいかぬぞ、夫から貴様は病人にならねば連れて行かれぬぞ」
 「叔父さん、そんな真似をして居ても、御馳走はうんと食うても好いんですか」

 「夫じゃあ叔父さん、どんな病人の真似でも致しますから、どうか連れて行って下さい」

 と云う中、予て(かねて)呼んで置いた、其の医者が来たから、
 「さあ橘之助、此れから病人の拵えをするのじゃ」

 と云うて、先ず顔一面を下の老姆さんが頭髪に使う煤油(すすあぶら)の紙で薄すらと汚し、夫から左の眼の上に綿を小丸にして乗せ、頭の所々に梅干の肉を張り、其の上から医者に包帯をさせ、片目だけを出して頭半分を包み、包帯の所々から、梅干の汁を浸み出すように〆付けて、すっかり膿血(うみち)の流るる腫物が、幾ケ所にも出来たように拵え上げて、

 「さあ橘之助よ、此れで充分御馳走が喰える」
 「叔父さん、御馳走は喰えるか知りませぬが、片目計りでは、何だかぐらぐらして見当が付きませぬ」
 「其の位の事を辛棒せずして、御馳走が喰えるか、馬鹿野郎」

 と云うて叱り付け、3人連れで住吉の豪家の所に出掛けて行った、処が予て医師より其の趣が通じて有った為、豪家の人々は打揃うて歓迎をして、御馳走の限りを尽くした、其の中に橘之助は片目計りを出して、出る御馳走も喰うわ食うわ、生れて初めて、放楽で、箸を下に置く間もなく、詰め込んだのである。其の中に病人の娘は下女の咄に、思い焦がれた橘之助が来て居ると云う事を聞いたので、乳母に助けられて、次の間からソーツと其の様子を見に行った処が、見違えると云わんより、寧ろ恐ろしい形相であって、頭部頸筋の所々よりは血膿のようなものが包帯を透して浸み出して、顔色も只ならぬので、病に疲れた体には気絶せん計りに打驚き、息遣いさえ苦し気になったので、乳母も驚き、ヤッと助けて床の中に連れ込んだら、只だソッと枕に縋りて泣入る計りであった、乳母は様子を知らぬ故、胸轟かして直に来合せて居る彼の医者に通じたので、診察をなし、取り敢えず、鎮神の手当を為したので、直ぐに心気も落付いた。

 暫くして娘は医者に向い、
 「先生、今日は大変気分も好いようですから、今次の間から、神事のお客様を覗きに往きましたが、端に居るあの書生さんの、相好の恐ろしさと云うたら、今尚魂も消失せんばかりで、未だに動悸が止まぬ位でございます」

 と物語りて、余所事(よそごと)に橘之肋の事を問い掛けた故、医者は此の時こそと思うて、予て庵主に含められた通りを答えたのである。
 
  「お嬢さん、あの書生さんはね、あの上席に居る杉山氏の甥子さんに当る鯉沼橘之助と云う方で有りますが、若い時に慎むべきは身持ちござります、あヽ天然の美貌が身の仇となって、あの様な業病に取付かれたのでござります、先月頃から風斗(ふと)あんな腫物が出来初めましたので、私はあの杉山氏に頼まれて治療をして居りますが、あれは世にも恐ろしい悪性の梅毒でござりまして、頭部から顔、夫から全身の節々まで、潰瘍(おでき)を吹き出しまして、とうとう左の眼の球を犯しまして、今では兎ても左の眼だけは取止めが付かぬ事になりて居ります、今日の医術では、如何な名医の手に掛けましても、彼の全身の毒を抜く事は出来ぬ事に極まって仕舞いました、杉山氏も是にはほとほと困り果てて、居らるる模様でござります、貴嬢(あなた)の御両親は、杉山氏とは予て御懇意で居らっしゃ処に、今日計らずも
九日(くんち)祭りで杉山氏が此の近所の御親類に、あの橘之助様を連れてお出に成って居たのに御出会なさったので、御家にお立寄りを薦められたので、一寸御寄りになって居るのですが、アノ甥子さんを御同道なさったのには御両親もお困りの様子でござりますよ」

 と、誠しやかに物語ったので、娘は倒れん計りに打ち驚いたのである。
 「あの温順そうな甥子さんが、どうしてそんなお身持を為さるでしょうね」
 と云うて打臥したのである。医者は一入詞を和らげ、
 「青年の時に一番慎むべきは誘惑の一事でございます、行末栄ゆる一生を、見す見す縮めて非業の最期を早めるは、あの鯉沼の若旦那が好い手本でござりますよ、併し御病中に掛り構いもない余所事を気にして、神経を痛めてはいけません、もう大概は全快に近づいた貴嬢(あなた)故、此の際一層薬を精出して召上り、予て申し上げた冷水の全身摩擦を、一入烈敷く(はげしく)して早く御全快なさいませ」
 と云い労りて立去ったのである。此の報告を聞いて庵主は別間に両親の人々を招き、

 「此の際、早く婚約ある婿がねを呼び入れて家事を任せ、娘子の介抱にも一入心を付けて、慣れ親しませるが肝要であります。年頃の娘子を雅気と計り見誤り、終(つい)には生涯取返しの付かぬ疵物となし、 一生涙で暮させる事は、是皆親達の無念でありますぞ。能々(よくよく)忘れぬようにせられよ」

と深く云い戒めて、橘之助を引連れ暇を告げて帰って来たのである。是より庵主は、1ケ月計りの後、種々の事情があって、とうとう東京住居をする事となった故、橘之助も引連れて、則ち専門の学校に通わせる事とはなったのである。

 夫から3年程過ぎて、庵主が郷里に帰った時は、其の豪家の娘子は、滞りなく結婚を済ませ、最(いと)可愛らしき1子を産(もう)けて、老夫婦は初孫の顔を見て、目も明かぬ程の喜びに耽りつヽあるとの事を、かの宿の老姆から聞いたのである。

 夫より間もなく橘之助は、無事に学校を卒業した故、庵主の友人・巨智部忠承(こちべちゅうしょう)と云う高徳の博士に頼み、博士の監理せらるる農商務省の地質調査局と云う役所に橘之助を出勤させて、博士の引立に依って、格外の俸給をも戴き、只管職務に勉励して居るから、或る人の世話によりて妻帯をなさしめ、久敷(ひさしく)滅家同様となって居た鯉沼の家名を興して、小かかなる一家を設け、丁度親戚たる安部磯雄と云う博士が、早稲田大学の教授であるを幸いに、其の人の世話にて牛込の早稲田附近に、初めて鯉沼橘之助の表札を掲ぐる事となったのである。居る事1年にして此の新夫婦の中には愛らしき1女児を産け、茲に初めて家庭の彩色を増し、流れに登る鯉沼の、末の栄を松影の、旭に翳す(かざす)心地して、庵主も此の上なく喜んで居たのである。

 然るに人間の運命と云うものは、有る人数の夫々に、奇しき筋道辿り行く、いと果てしなき因果こそ、神の御座に繰る枠の、廻る程なお解きかぬる、罪恐ろしき物なるか、此の鯉沼の家名こそ、善こそ積め、悪に泥(なず)まぬ誉れある、家系に誇りて有りながら、風斗(ふと)祖父・源右衛門の代よりして、端なく贋札の災禍にかかり、祖父は島死し父は水歿し、其の子の橘之助は幼少より、餓も果つべき艱難の、侘しき中に人となり、焙烙に咲く豆花に、斉しき命を繋ぎたる、其の夢消えて漸漸と人波々に家の名を、起す汀(みぎわ)に渦巻の、淵恐ろしき悪霊が、此の橘之助の身の上に覆い掛って来たのである。夫は或る夏の初めつかた、橘之助は役所より帰宅して、聊か心地悪しとて、碌々に食事もせず、先に床を取って寝に就き、暫らくは寝ながら子供などをあやなして、妻女と咄などもしていたが、間もなくよく眠りに就いたので、妻女は側に床を取って、寝に就きしは夜の10時過ぎであったが、11時頃起上りて厠に行き、

 「烈しき下痢をした故、懐炉にて下腹を温めん」

 と云うより妻女は、其の通りにして遣ったら、又快よく眠ったので、妻女も共に安神して床に入りしが、昼の草臥(くたびれ)一時に襲うて、ぐっすりと寝込んで仕舞うて目の覚めしは、朝の5時頃であった。橘之助はと覗き見しに、よく熟睡してるから、妻女は徐ろに起出て、
朝餉の仕度等を調え居りしが、毎朝6時頃には目覚す橘之助が、今朝は更に其の様子なきより、濡れたる手先を前掛けにて拭き拭き枕元に来て、静かに揺り起し試みしに、こはそも加何に、橘之助は何時の頃に死に果てたか、全身氷の如くに冷えて、四肢も疾(とう)に硬直して居る有様なので、妻女は只だ叫ばん計りに打ち驚き、直に近所の車屋を呼んで、医者を迎えて診察をさせたが、何でも午前の1,2時前後に、激烈なる大下痢を数回なし、全身の水分を一時に排泄したので、暫時にして心臓麻痺を起して死亡したものに相違ないとの事である。其の中、誰彼れの人々も駆けつけて来て、何様変死同様の次第故、警察医の検視をも受けたが、何れも同様の見立にて、今更となっては何の手当も甲斐なき事と成果てたのである。

 丁度牛込より馳せ来る車屋の使の知らせにて駈け付けたのは、庵主の店員・多田豊吉と云う者であったが、庵主は生憎(あいにく)他行中で此の報を聞くと其の儘、橘之助の宅に馳せ付けて見たのは、何でも其の日の11時半頃であった。

 夫より親戚・阿部博士の親切なる世話によりて、何かと取片付けをなし、年若き妻女と嬰児とを伴うて、見るも悲しき野の果の、荼毘の煙に愛惜の儚き影を焼捨てしは、其の日の夕暮時の事であった、此れより7日7日の問い弔いも済んだので、其の若後家は、幼なき女児を抱き、阿部氏の世話にて故郷の筑前にすごすごと帰ったのである、此の有様を目撃したる庵主こそは、彼の釈迦が、彼岸の病兎に無常を悟りし思いして、更に一閃解脱の光明に近づいたと、又一層の勇を起こし、此の鯉沼家の再興を殊更に高叫したのであった。是より又龍造寺の咄に移るのである。

 ●47  了。
 

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