カウンター 読書日記 ●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
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●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
●46 稀代の兇賊を手捕にす

   捕吏縄を飛して兇賊を縛し 昼伯冤を呑んで孤島に瞑す 


 龍造寺は其の足にて、直に福岡県庁の学務課長に面接をもとめ、以上の顛末を具申したが、初めは県官も小僧扱をして、相手にもなさざりしが、終には時の知事公の耳にまで入れる迄に運動したので、課長等も事荒立てるを不利と思うたかして、郡役所の方を取調べ、事実相違なきを確かめて、其の郡書記を譴責し、龍造寺へは寒村の学事に尽力したと云う名を以て、知事公より文章軌範一部を賞与せられ、尚お既定の卒業生は、此の賞与と共に記念の卒業生と認むと申渡された。
是と同時に学務課長は、彼が引続き小学教員の試験を受くべき事を勧誘したが、龍造寺は、自分の学歴と学力は、試験に応ずべき資格なき事を自覚し、とうとう其の勧誘を拒み、夫(それ)より遥か低級にある、巡査教習所の試験に応じて、兎に角及第し、其の科程に就く事になったが、素より気力抜群の性質故、日夜黽勉(びんべん)して、予定の通り卒業をし、やっと一個の巡査と成り了せたのである。此の間龍造寺が職務以外に興味を以て努力したのは、柔術と捕縄の修業であった。当時鹿児島出身の人で、荒巻清次郎と云う老人は、徳川時代から不思議なる捕縄の名人で、所謂早縄なる術の粋なる鍛錬を得、一時は久留米警察署で、警部まで勤務した人であったが、病気の為め職を辞して、当時福岡県の巡査教習所の教官となって居た。龍造寺は此の先生に愛護せられ、風斗(ふと)捕縄の興味を起したので、頻りに之が研究を始めた。先ず一例を挙ぐれば、此の先生が秘密の捕縄は、公定の捕縄を所持するの外に、琴の糸三筋を撚り合せたる、一丈二尺計りの物を手繰りて、左の二の腕に嵌め置き、夫を千変万化に使用して、兇漢を捕縛するのである。勿論柔術の素養はなくてならぬ事ではあるが、先ず其の縄を首にからみて、相手を引倒すと同時に、自分も仰向けに倒れ、夫から様々の仕事をするのである。

斯く敵を荒ごなして取締めた処で、規定の捕縄で正式に縛すると云う様な事である。龍造寺は其の術に於て、或る程度までの鍛錬を得て居たのである。庵主なども、或る時仕合をして、美事に縛された事があった。龍造寺は巡査を奉職すると同時に、庵主の許に来り、

 「私は巡査の小吏を以て、天下無双の事を仕て見たいと思いますが、茲に早速大事件が発生致ました。夫は明治改暦以来の兇賊とも名付べき強盗で、内山源次なる者、京阪より両肥両筑の間を股に掛け、第一、強盗、第二、殺傷、第三、放火、第四、強姦等、凡百(あらゆる)兇暴を為さざる事なく、其の被害高は本年に入りても多大なるものでございます。而して彼が一口(ひとふり)の短剣を使う事に妙を得て、一度は四五名の警官、一度は8名を相手に致したる事までありますが、何れの時も此方に多少の負傷を被りて、まんまと取逃がして居ます。夫が今回福岡県内に入り込んだとの密報を得ましたから、私は単身其の賊に向って、死生を決して見ようと思います。どうかお許しを願います」

 と云うから、庵主は、

 「其の事は御両親のお耳に入るれば、決してお許しはないと思うが、俺は至極面白い事として、衷心から同意をする。元来我日本国民は、平生に於て総て全部が国家の干城である。況(ま)して巡査なるものは尤も愉快なる職務を持ったものである。故に其の公務上に横たわる事は、難易細大となく、献身的に必ず徹底的でなければならぬ。其の公務執行の上に発したる生死は、無上の光栄である。若し左様の場合に命を惜しみ、臆病を構えて拾い得たる命は、既に命たるものの意義を失い、揚句には、牛馬に踏み殺さるゝ位が落(おち)である。公安の為に命を捨つるは、先祖に対しても無上の光栄と思うて屹度した立派な仕事を為るがよい」

 と云うて帰した処が、其の後彼は署長の允許を受けて、2週間計り不在となった。何れの方面に旅行をしたか、誰も知る者はなかった。折柄或る日、久留米郊外の豪農・某の家に強盗が這入り、有金3百有余円、他の物品を45百円計りを持ち出したとの風説が立った。其の3日後の事である。福岡市外の住吉河原の広場に、1人の男が笠を冠り、側に釣竿を立てその下に籠を置いて、何か物勘定をして居る様子である、夫が昼の1時頃でめる。其処へ又1人の若者が、釣竿を肩にして通り掛かり、

 「叔父さん、鮎が釣れたかい」

 と咄し掛けたので、其の男は少なからず驚いて、直ぐに立上る処を、ピタリ組付いて、其の右の手先を取った。何を小癪なと其の手を懐に入れて、引出したのが短刀であった。其の刀光を見ると同時に、其の若者はひらりと身を飛退くと共に、其の男は真伏(まっぷせ)に引倒された。即ち其の右手を握った時に、若者の二の腕にあった琴糸の捕縄は、彼の男の手首にすべり落ちて、疾(とう)に掛って居た。夫を強く引いたから、不意に引倒されたのである。其の男の倒るヽのを見るが早いか、若者は飛鳥の如く飛掛って、其の縄が其の男の首に引掛けられた。夫を又強く引いたから、短刀を待った右手は、ぐいと背部を伝うて左の頸際まで引付けられた。又何をとひと刎ねに寝返りを打った時は、其の首の縄は本式に二重になって、首に掛って居た。夫を引締め釣り上げて、やっと左の二の腕に引掛けて絞ったから、彼は難なく捕縛されて仕舞うた。其の男が彼の兇賊・内山源次であって、其の捕縛した若者が、龍造寺巡査であり、夫が丁度奉職して2ケ月半の時である。龍造寺は兇賊・内山が柔道家で、蹴の名人なる事を聞いて居たから、尤も大事を取りて、足先きまで縛り上げ附近の人を呼んで人力車に乗せ、警察署へ持ち込んで来たので、新米小僧の巡査が、さしも世間で恐をなして居た兇賊・源次を手取にして来たと云うて非常に称讃を受けたが、所持金670余円と、上等の金時計等は、調査の上被害者に下(さげ)渡され、龍造寺には賞状と金5円の褒美とを下賜せられたのであった。

 夫から又龍造寺巡査が、夜警巡廻中、夜明けの3時頃、博多の商会という所の旅人宿の裏手の、黒板塀を乗越えて、賊の忍び入るのを遠目に見たので、忍足で抜け道を辿り、近寄りて見た処、1人の見張りらしき男が立て居る故、其の盗賊のまんまと忍び入った後を見済まし、見る間に投げ縄を以て其の一人を縛り上げ、半丁計りの露路の中に投げ入れ置き、其の盗賊の忍び入った塀の向う店の縁下に身を潜めて待って居ると、其の盗賊は一の風呂敷包みを、縄にて町中に釣り下げ、自分は元の足掛りによりて下る処を、右の足先に縄を掛け、一息に引落し、折り重なりて例の縄を首に掛けて引絞ったので、盗賊は絶息せん計りに苦しむのを、其の縄を以て左右の両腕共引絞りて縛り上げたのである。盗賊は足を伸ばせば咽喉が絞まる故、出来得るだけ足を縮める故、万に一つも逃がるる道なく蠢めいて居る中に、龍造寺は附近の交番に馳せ行き引渡した。詰まり1人にてまんまと2人の盗賊を縛り上げた事もあった。此の時も何か御褒美を頂戴したようであった。 其の後、福岡市の近郷・須恵村(すえむら)と云う所に、駐在巡査が必要となった。夫は其の年が凶作で、様々の小泥棒が入込み、被害者が多いより、或る事情にて望まれて、駐在巡査となったのである。此の時も1度の仕損じもなく、数人の泥棒を取押えたが、田舎の事であるから、或る了解の為めに、私(ひそかに)に大分放免して遺ったそうである。後には是が職務上の手落ちとなって、巡査を罷めねばならぬ事となったのである。此の駐在所詰めの頃、親戚の者共の勧めもありて、龍造寺に妻帯せしむる事となった。其の妻と選ばれた一婦人は、同藩中の士族、鯉沼源右衛門なる人の孫娘・増女と云う者であった。此の鰹沼家の事に付き、又一場の物語りがある。

 此の鯉沼源右衛門なる人は、庵主の為めには大叔父、父の為めには叔父さんである。即ち父の実家の出にて、庵主の祖父の弟である。此の人は立派な知行を領する福岡藩の絵師の家に、養嗣子として入夫したので、狩野派の画を描き、夫(それ)を以て家業として食禄を頂戴して居たのである。庵主は小供(ママ)心に覚えて居るが、其の叔父さんは大兵にして、膚色飽まで白く、夫れに銀の針の加き白髪を後ろにてプツリと切り下げて撫で付け、雪よりも白き長大なる眉は、盛上げたように濃く、所謂眉目口鼻尤も秀麗で一見して明るい思いをするような顔であった。其の娘が又一藩を圧する程の美人である。夫に源太郎と呼ぶ養子婿を取って、3人の子供が出来た。其の2女が即ち龍造寺の妻となったのである。なぜ斯る遠縁の家の娘を貰うたかと云えば、親戚も庵主の父母も、庵主も夫に同情を表したのである。其の訳は此の鯉沼家が世にも不幸の重なりたる家にて、如何にもして家運を恢復して遣りたいと云う心からであった。


 人世には衰運と云う事もあり、また物の祟りなどと云う事もあるが、此の鯉沼家は、代々嘉因善行を積んだ家で、殊に祖父・源右衛門に至っては、専ら画家を以て甘んずる世外超術の人なるに、一度(ひとたび)禍雲其の家を覆いてより、人力を以て恢復し難い悪運が取捲いたのである。風荒(すさ)む世は刈菰(かりこも)と、乱れ来し天保弘化の頃よりして、幕府の綱紀、荐(しき)りに弛み、各藩治国の要を失い、士心随って常軌を逸し、異言喧囂(いげんけんごう)として王幕の制を論じ、年毎に派を立て党を設けて、政道に牴牾(ていご)するより、各藩の国用忽ちに窮乏を加えて来た。夫は丁度幕府も同じ事にて、誅求に得たる苛斂は、用度法を失いたる惰吏(だり)の為に浪費し、其の極、遂に不換無償の金札なるものを印刷して、其の欠陥を補わんと企てたのである。化膿の悪腫物一度中枢に発して、四支いかでか其の毒素に感ぜざるを得んや、忽ちにして全国の各藩其の策に風靡し、国用の困難を救うは金札の発行に如くものなしと絶叫した、併し各藩には、紙幣発行の特権がないので、一度は躊躇もしたが、大勢の向う所は、終に一隅の制を逸して、茲に幕府の金札に模倣する贋札論なるものが湧起し、各藩競うて幕制同様の金札を発行する事となったのである。福岡藩も其の一類に洩れず、藩命によりて、庵主の大叔父・源右衛門も、其の画家と云う名の下に、其の金札の版下になる、雨龍の部分丈けを、役所にて筆を執らせらるゝ事になったのである。夫よりして一藩の経済は、恰も濁流の膨逸するが如く紊乱して底止する処を知らぬ事となった。斯る有様が各藩に行われて来たので、幕府の狼狽大方ならず、直に官を八方に派遣して、之が取り調べに着手して見た処が、何れの藩に入っても、只々驚愕絶倒する計りの惨状である。そこで幕府も忽ちにして大評議を起し、兎も角、幕府の允許を得ずして、幕府同様の紙幣を私に発行したるは、素より罪重刑に当るに付、各藩主共其の分に応じて屠腹謝罪等の実を挙げさせ、峻厳少しも仮借せずして、幕府の哀願を恢復すべし大評決したので、尤も腰強く或程度までは、兵備までして問罪の使を各藩に向けたのである。之を聞いた各藩の士は、蜂の如く起り、抑も贋幣の涌は幕府先ず之を作りながら、何を以て他を責むるの威信あらんやとまでは論じたが強弱衡を失い、衆寡敵し難きの数に漏れず、とうとう泣く泣く幕命に伏する事となったのである。是に於て各藩贋札の事、素より藩主の知る処に非ず、家老席、勘定奉行等が、単独の専意に出たるものに付、御取調の上、相当に御処分仰ぎ奉ると上書したので、幕吏の方でも追究却て自創を披るの虞れを抱くより、各藩士をその分に応じ、打首、斬首、切腹等の処分にして事落着に及んだのである。此の時、彼の鯉沼源右衛門老は、版下執筆の重罪にて、死一等を減じ、同藩地を西北に距る、玄海洋上の一孤島・和呂の島に流罪に処せられ、居る事6年、波浪残月に咽び風光一層冷かなりの感に打たれて、憂き年月を送ったのである。此の時は此の和呂の島は、全く無人の孤島であった。独居孤棲の徒然には、草の根を筆とし、島渓の赤土を汁に溶かして、木皮を編んだ布に描いた、水鏡の自像は、白髪伸びて踵に達し、白眉耳に及び、輦馨共に垂れて膝を蔽うに至ったのである。
            
今日こそはこと伝てまつれ荒津浪
       
 君にぬかずく人のまことを

 昔気質の老画伯、鯉沼源右衛門は、満身忠誠の心を抱き、藩公の御座所の方を拝しながら、69歳を一期(いおちご)として、此の一首の和歌を残して、此の絶海の孤島に絶命したのである。死後数ケ月の後、避難の漁船が其の死体を発見した時は、光と潮に干し堅められて鬚髪(しゅはつ)無垢の骸骨は襤褸(つづれ)に包まれたるまま、洞窟の前に横わって居たとの事である。洞窟中の遺物は其の後知友の手に因って、藩公の台覧に入れたが、扨(さて)明治維新の前後に伴う、幕政藩治の瓦解は、幾多志士の惨劇を産出した。其の中に此の鯉沼翁の死等は、聞く者の脳裡を離れ得ぬ一惨事であった。夫から嗣子・源太郎は、家名を相続して間なく、勤王佐幕の論四方に起り、雷霆(らいてい)に伴う沛雨(はいう)の加く、士心の洪流となって来たので、源太郎は直ちに身を勤王の群れに投じ、血気の迸る処、身を顧みるの遑(いとま)なく、八方に飛来をほしいまゝにしたので、忽に幕吏の注目する所となり、捕吏の追及日夜に甚敷、或は山間に潜んで難を免れ、或は雇傭となって城下に入込み等して居たが、或る日捕吏に其の寓居を襲われ、直ちに一刀を手挟んで裏より脱走し、城下を西に距(さる)1里余の、室見川と云う長橋に差掛りたるに、橋上には数人の歩哨あることを知って、川下に逃れたが、跡より数人の捕吏の追究が余りに急なるより、裸体となって長刀を背に負うと其の儘、身を躍らして中流に飛込んだのである。折節五月雨の頃にて、降続く大雨は濁流となって堤防に溢れ、逆巻渦は群象の暴るるが如き時故、数人の捕吏はあれよあれよと云う中に、終に源太郎の影を見失うて行衛(ゆくえ)も知れずなったである。夫より星月数十年、室見の逝水は浴々として変わらざれども、其の人の姿はまた永久に見えぬのである。扨、跡に残りし若後家と、男女3人の子供は、落命に背いたる亡夫の遺跡、人目に掛るを厭うより、博多の浜辺に小やかなる裏屋を借り、手内職にて3人の子供を養育して、11ヵ年がその間、其の未亡人は外出を絶対にせなかったとの事である。其の中に子供も段々成長して、長女は20歳、次女は18歳、長男が123歳になった時、庵主は初めて之に面会をしたが、其の長男を庵主の家に連れて来て、昼食を振舞いしに、

 「叔父さんの家の御飯は、なぜこんなに堅いの、私はこんな御飯を食べればお腹が痛くなるよ。
 私はお箸で挟まるる御飯は厭じゃ」

 と、何心なく云うた時には、庵主の父母は申すに及ばず、座にあるものは皆顔見合せて、覚えず傍詑たる涙を禁じ得なかったのである。庵主が此の子を養育して、成長させるにつき、又一場の物語があるが、夫は次回からぼつぼつ述べるであろう。

  

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