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●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
 『百魔』 魔人龍造寺隆邦

 ●45 11歳の少年大山師   

 巨材大河を蔽うて巨利を博し  無識教鞭を執りて郡監と争う


 当年★11歳の児童・龍造寺は、5千円と云う大金を持って、酔払いの追剥を欺いて途中で撒き、直ちに日田郡の警察に訴えて之を捕縛せしめ、夫(それ)より同地の材木問屋で有名なる★<カネ又のお六>と云う、大胆不敵な侠義な、娑婆気(しゃばけ)のある、65歳の婆さんの家に辿り着いたのである。夫から養父の病状より、母の決心の次第、手代の状態(ていたらく)まで洩れなく咄し(はなし)、夫(それ)に5千円の現金を菓子箱の底より取出して、此の金を手付金として、永の夏中の旱魃にて、川下しの出来ずして、困り抜いて居る各材木問屋の材木を買い占めらるるだけ買付けて貰いたい、其の受渡しが出来ると出来ざるとが★筑後川筋で第一の材木商、西原弥一が最後血戦として破産の戸を〆る(しめる)か〆めぬかの境であると物語ったのである。先刻より之を聞いて居たお六婆さんは、同情の念と咄の勇ましさとが婆さん日頃の気性に混じて、満身の血が湧返るようになったので、胸まで突掛ける息の苦しさを押割る如き声音にて、

「西原の坊さん、よく云いなさった。又お母さんの覚悟と、お前さんの決心が気に入った。私も女子でこそあれ、人が斯る決心をして仕事に掛るのに、一足踏込んで助けぬと云う事は出来ませぬ。私も親代々連綿と続いた此の材木問屋を後家の身で持ち続けた、此の《「 又」》(かねまた)の家業を天秤に掛けて潰すか起すかの覚悟をして、買占めて見ましょうよ。此の上は坊さん、お前さんも決して人を手便る(たよる)了簡を持ってはなりませんぞ。人間が本当の決心をした時は、神様以上の力が有るものです。神にも仏にも頼まぬ、自分の命を的に、思うた丈けの事を遣って見るのだと思いなされよ。さあ見て居なされ。伸べても狭き山間の此の日田の郷にある材木を、根太木一本も残らぬよう買い占めるのは今日と明日との両日じゃ。夫から先きは筏組み人足の有る丈けを寄せて、本流の僅かの水を手便にして、小幅の筏を流すのじゃ。運が元手の荒仕事、目の覚める丈け遣って見せます」
と云い放ったのである。夫(それ)から婆さんは、2階や納屋にごろごろとして、足の毛ばかり毟って(むしって)居た多くの番頭を呼集め一度に切って放ったので、退屈と無聊に酔うて居て酒には酔えぬ荒男共、今度の霹靂一声に、酔う程気味よき心地して、おっと叫んで八方に、蜘蛛の子を散すが如く、山なす材木を買占めたので、大抵は一山百文的の代価にて、其の翌日の昼頃までには、大概日田の郷の材木は、買占めて仕舞うたのである。一方龍造寺は、自分が1本だけ携えて来た《○一》の印入りの鉄鎚を見本に日田にある6軒の鍛冶屋に昼夜兼業で拵えさせて、出来て来た★極印入りの鉄鎚で、自分が先きに立ち、多くの人足を指揮して、約束の出来た材木の小口に、とんとんと極印を打込み、夫が済んだ分を、数百人の筏組の人足が頃合いの小筏に組んで小流れの河中に流し、夫を下へ下へと押流す人足が、また1組出来て作業をなし、9日間の出来高は、丁度筏を以て日田の郷より、2里半の川下まで材木を以て充満し、此の上はもう一組の筏も組めまでになったのである。夫からお六と龍造寺は、また手代の者共を指図して、川下の村役場や、警察署へ《「 又》と《○一》の印入りの材木が、若し川筋の田畑や作路(さくみち)に流れ込んだら、どうか大川へ突流して貰いたい、其の他の物は何分宜敷頼むと手紙を出し、又一方手代の者を子分して、各川筋の要所々々へ、酒一斗と干アゴ十把(アゴとは飛魚の干した物)を配り込んで頼んだので《「 又、○一」》の材木商は、気でも違うたのか、蚊の涙などの湿さえなき旱魃の、此の頃に材木流しの挨拶は、空徳利の酒盛に、酔狂沙汰の限りなり、と笑う人も多かったのである。

(註:★極印 ここでは、林産物の売渡し、調査等に際し、当該林産物に押す印のこと。 種類や、押印箇所等、各地で規定がある。)

 頃は明治丙子の秋、菊の蕾の香も薄く、酌む酒さえも黄にやけて、酔うも苦しき民草の、凋む(しぼむ)心を慰めの、宮森山の神祀り、雨乞い太鼓の音も遠く、聞き草臥れて(くたびれて)熟睡する、暁頃に時ならぬ、寒冷俄かに身に迫り、高良の山に掛まくも、神舞い下る黒雲の、間より洩れて降る雹(ひょう)は、栗の実大の物にして、間もなく奈落の地軸にも、臼を挽くなる陰雷の、轟き響く物音の、怖しなんど云うばかりないのである。あれよあれよと見るうちに、一天俄かに掻き曇り、筑豊の山河一時に裂け崩るるかと思わる程の大雷雨となったので、実る田の面に水増して、亀裂の田畑忽ち青色を復し山野悉く枯死を免るることとなり、到る処の百姓は歓呼の声を絶たず、随って筑後川筋は、数日の間大洪水となったので、予て待構えて居た《カネ又、○一》の筏は、数百千と潮に群るる鯨の如く、見るも際涯(はて)なき濁流の、水面を覆うて流れ下るので、降り続く大雨に増来る水嵩は、終にさしも莫大なる材木をひとつ残さず流し下したのである。さて、夫より《カネ 又、○一》の部下は、八方に手分けをして、其の打込んだ極印によりて、散乱した材木の聚集を始めたので、半月足らずの間に大抵、要所々々に取集める事が出来たのである。殊に目覚しかりしは、素より筏師なき筏が、放縦に勝手に水のまにまに流れ行くので、大部分は筑後川下流有明海に注ぐ、若津の港を打過ぎて、其の附近の海中に散乱した。夫が又南西の早風に煽られ、三瀦(みずま)及び佐賀地方の沼浜へ打上げ居たので、逸早く夫を纏めた手代共は、其の随所で其儘(そのまま)に商売をしたとの事である。これを要するに龍造寺が今迄為した大山師の仕事は、養母の決心とお六婆さんとの策略多きに居るとは云え、此の投機がずどんと当り、其の年の暮れまでの総計算に於て、両家は8万有余円の利益金を折半する事が出来たとの事である。夫から西原弥一の店は商運頓(とみ)に恢復し、此の川筋にては1と云うて2と下がらぬ問屋と成ったとの事である。随って養父の弥一は万死に一生を得て、永らく豊後の温泉等に養生をして、1年ばかりの後には、強健とまでにはならぬが、兎も角身の不自由はないだけに回復したのである。是より龍造寺は、17歳の年即ち明治15年までは、学びに馴るる十露盤(そろばん)の玉を命の家業ぞと、脇目も振らず働いて居たのである。

 然るに魚の性は水に享け(うけ)、人の性は天に享けると云うが如く、此の龍造寺も元々血統を武甲の家に牽いて生れた為か、物心の付く16・7歳の時より其の心理に偉大なる変化を起して来たのである。丁度其の頃庵主は、筑前旧領地の寒村に住居して、秉る(とる)にもの憂き鋤鍬の、稼の業を主として、其の合間には大エを職とし、僅かの賃に朝夕の、煙の色も絶え絶えに、育み兼ぬる麦畑の、片羽の鶉(うずら)声痩せて、辿る鄙路の起臥に、暮すも辛き時であったので、龍造寺は、己れが商う材木を、庵主の家の稲小屋に積上げ、正札を付けて売らせたのである。然るに庵主が不在の時などは、父がチョン髷に「侍い結び」の帯を〆て、材木買いのお得意に、

「其の方共は、土百姓の分際で、品物を選り買いなど致し、或は直段を値切るなどは、言語道断じゃ、不埓を致すと許さぬぞ」

 などと云うので、田舎朴訥の百姓でも、1人も買人が来ぬ事になったので、龍造寺は心から苦々敷(しき)事に思うたかして、月の中に或は5日10日と、自家商用の隙を伺い、庵主の家に商売の伝習に来る事が多かったのである。丁度其の頃庵主の父は、病後羸弱(るいじゃく)の余暇を以て、隣村の子供等を集め、牛小屋の側に1室を設け、夜学の家塾を拵え、手近かの四書五経などの講義をして居たので、龍造寺も逗留中は、夜間の暇に任かせて、其の学生の群に入って、父の講義を聴いて居たが、天性勝気不抜の魂性ある者故、忽ちにして志学の観念を起し、見る見る間に銖しを争う十露盤(そろばん)の稼業に愛想を尽かし、何と養父母に説き入れたものか、或る日西原の養父母は打連れて庵主の家に来りて、
「タッタ一人の掛り子を、6つの歳より守り育て、家の財宝夫婦が行末、此の児に凭(よ)るを杖柱と、寝物語に繰返す、頼みの糸も今は早や、掛け易(か)え兼ねる小田巻の、節明けき願い事、素はと云えば稼業の、卑しき家に氏も名も、由緒貴き武士(もののふ)の、正しき血筋受け玉う、和子(わこ)を賜わり根継ぎを変え、身の安楽を願わん事、まことにう烏滸(おこ)の望なり、果せる哉、和子殿が、年長け生うる葉蕾の、色付く時となるに付け、芽ばえに享けし栴檀の、香り床しき志、見るさ聞くさに感に耐え、只此の上は此の和子を、賤しき業に終らさぬ、事こそ我等が勤めなれと、思いにければ今はしも、夫婦打連れ和子殿を、元の園生に植え易(か)えて、行末尊き繁昌を、見ること責めての願いなれ」
 と、いと細々との志、真心面に顕われて述べるを聞いて今更らに、庵主の父母も只管(ひたすら)感に入ったのである。

   「茜蒔く、園生も今は荒れ果てて、300年も根を延べし、悪草しきりに蔓(はびこ)れど、上下耕鋤(しょうかこうじょ)の道を怠り、偶々交る撫子の、花葉も萎えて恥かしき、姿を君が庭に植え、此の幾年を愛撫して、育み呉れし優しさは、何と礼言(いやごと)申すべき、只此の上は我許へ、呼返して1人の、教戒をも加うべし」
と、双方の間に善意の諒解を得て、弟の龍造寺は17歳の時、養家・西原家と破縁になったのである。

 夫より我家に帰り来り、最(いと)厳重なる父の教訓を受けて居たが、跤龍永く池中の物に非ずと云うも烏滸ケ間敷(おこがましい)が、とても父母の膝下にあって、さい婦の業に甘んずる者では無かった。1度学事に志しては、夫れに対する行為もまた破天荒である。

 或る時我村より北方に当る、竈門(かまど)山峡の寒村、本道寺村と云う所に、小(ささ)やかなる破れ学校がある、夫が貧村の事故(ことゆえ)、只だ1人の教員に僅かばかりの月俸をさえ給する事が出来ぬので、閉校同様となって居る事を聞き出し、自から夫(それ)に交渉して、直ちに無給教員として其の明家(空き家)の学校に住み込んだのである。夫(それ)より其の山村の児童を集め、課程の教授を開始したが、何様幼少より学問手習の業を忌み嫌うたる結果、普通の往復文さえ自由ならぬ程度の身を以て、行成(ゆきなり)に無免状の教員となって児童を教育するので、今時なら中々行わるべき事ではないが、夫(それ)が今より40年近き昔日の事故、人民の程度も低く、斯る乱暴の教員に対して、却て感謝の意を表し、先生々々々々と八方より尊敬して、米麦疏菜の類に到るまで、不自由なきまでに持運び来るより、龍造寺は先ず糊口の道に就くと同時に、尤も程度低き教科書を、第一自分に修業し、夫を其の儘に児童に教え、又一方には只管愛撫懐柔の道を尽くすので、僅かの間に其の児童等は、父母の感を以って龍造寺を慕う事になったのである。

 処が茲(ここ)に尤も破天荒の問題は、此の頃地方官吏の所為では学校等の取締りが斯くの如き山村に対して最も不完全であって、教員などの事は一切構い付けず、春秋の試験期になると其の学生名簿にある生徒に向って、試験だけは命ずるので、まるで課業を廃したる学校故、村長より之を拒むも聞入れず、兎も角試験はして之を全部落第生とするまでも、其の手続丈(だ)けは施行するのであった。そこで龍造寺は之を憤慨し、其の秋には、命ぜらるる儘、其の試験に応ずる事にして、30人ばかりの生徒を引連れ、所定の試験場に出席した処、其の22名は卒業生を出し、其の残余の者が落第生となったのである。

 各自卒業免状を授与せられて、生徒が帰村したので、其の父兄は歓喜雀躍の声を発し、先生様のお蔭にて、屡(しばしば)廃校か休校かの悲境にあった児童が、始めて卒業免状を得たのは、無月謝無学費の結果としては、一入(ひとしお)に先生様に感謝を表せねばならぬと、誰彼相談の上、鎮守の森に宮籠りなる村宴を開き、龍造寺を招待して甘酒甘菜の馳走中、村長の某(それがし)は遽しく(あわただしく)馳せ来り、郡役所より急の御用にて、本道寺学校の教員同道にて出頭せよとの厳命であるとの事、何事ならんと龍造寺は、支度もそこそこ出頭せしに郡の学務掛りは厳かに、
「其許(そこもと)は小学校教員たる免許状を所持せずしてみだりに児童を教育する事、言語道断の所為である。故に今日限り差止むるに付、左様心得られたし」
 との事である。

 龍造寺は待構え居たる如き顔付にて、
 「委細承知致しました、然らば小生が同道して試験を受けしめたる生徒の卒業免状は、直に総てを取纏め返上したる上にて退去致すでござりましょう」
 と答えたるに学務掛りは、
 「いや、其の生徒は、本官が立会の上、学力試験の上与えたる免状故、決して其許の干渉を要せぬ」
 と答えたので、龍造寺は頑として折合わず、

 「こは無礼なる属官かな、元来あの村は、此所(ここ)に村長も立会の上聞く如く、往昔(むかし)よりの貧村にて学費賦課に耐え得ずして、教員傭聘(ようへい)の道なく、3ケ月と居付く教師なく、屡(しばしば)休校の不幸に遭遇せる生徒を見るに忍びず、小生進んで彼地に到り、幾干(いくばく)なりとも文化進展の聖恩に浴せしめんと思い、無報酬にて私に教鞭を取りしは事実なり、然るを当路の官憲として、啻(ただ)に一言感謝の意を表せざるのみならず、一片の法規を楯に、罪人同様に放逐に斉しき処置を申渡すとは不埓至極である。此の上は余は直に県庁に出頭し、貴官が余に対する処置の曲直を争わねばならぬ」
 と云放ったので、郡官は一寸閉口はしたが、
 「其許(そこもと)の意に因って法規を曲ぐる事は出来ぬ。其の他は随意にせられよ。退去の事は決して譲歩するの余地なし」
 と答えたので龍造寺は村長に向い、
 「今聞かる通りのの命令につき、小生は直に県庁に赴き、此の属官と是非を争わざるを得ぬ事となったから、其の趣を村民諸氏に伝えられたし」
 云々と云(言い)捨てて、其の儘福岡県庁へと馳向うたのである。

 此を聞いた村長は、直に山村に帰り人々を集めて此の顛末を報告したので、朴訥の村民はドッと一度に不平の声を上げ、
「此の上は先生様に負けさせる訳に行かぬから、生徒一同は卒業免状を返上して、直に学校を打破壊(うちこわ)して、此の以後再び教育などの命令を奉ぜぬ事にせねばならぬ」
 と決議をして、直に5名の委員を選び、県庁所在地に馳せ向わせ、龍造寺に加勢せしむる事と仕たのである。此の時が丁度龍造寺は数え年18歳だから、年齢の上からも、教鞭を執るのは犯則で、其の上に無鑑札のモグリ教員であったのである。さて此の悶着の末は更に次回に譲る事とする。

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