カウンター 読書日記 ●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
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●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
 ●杉山茂丸の実弟に★龍造寺隆邦という快人物がいる。

フリー百科事典『ウィキペディアの「龍造寺氏」の項をみると、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E9%80%A0%E5%AF%BA%E6%B0%8F

最後の部分にこうある。

「・・※なお特異な幻想小説家夢野久作や、その父杉山茂丸は、龍造寺隆信の子孫である。」

茂丸・『百魔』でも43節から12節に亘りその短かすぎた生涯を追悼している。
 


 ****************

43 魔人龍造寺隆邦 (この節は敢えて全文引用する)

壮士大姓を復して志業を企て一敗大損を為して外人を苦む

庵主の実弟に龍造寺隆邦と云う者があった。幼名を乙次郎、後に五百枝(いおえ)と改名したが寅年の生れ故、庵主より二つ下で、慶応二年八月の誕生である。是が庵主としては、百魔伝中に最も特筆すべき魔人で、実弟の事ゆえ今日まで控えて居たが、今庵主は、此の実弟・隆邦が旧宅東武の郊外、中野郷に寓居する事になったから、彼が瞑目した思い出多き寒窓の下、空しく孤灯に対してしきりに昔日を偲び、考出した儘、筆の運ぶに任せて、其の記憶を書綴る事にしたのである。

ここに一寸彼が龍造寺と名乗る訳を書いて置こうと思う。庵主の姓、杉山と云うは、系図に因ると本姓ではない。即ち龍造寺と云うが本姓であって、先祖より伝わる系図の混雑は、全く普通と異なって居るのである。庵主が幼時、父は福岡藩の系図学者とも云うべき長野和平と云う長老に系図の調査を頼み、長野氏にある正系を根拠として、一直線に系図の前後を糾して貰うた事があるが、其の正系に拠ると、杉山と云うは仮りの姓である事が明白である。其の訳は古き事は省略して、近く天正の往昔より、九州に龍造寺、大友、島津の三豪族が鼎立割拠の勢をなし、互いに侵掠殺戮を事として居ったが、家運の傾く時は余儀ないもので、薩摩の伊集院の攻撃に対して、龍造寺の家老は之に内通、裏切りをなし、城に火を掛け一挙にして主家を滅亡せしめ、其の主君の後妻を納れて己が妻となし、子女を片端より殺戮せんとする傾向が見えたので、忠義の家臣等は、各自に若君を引連れて各国に逃げ隠れたが、多くは隠密刺客を以て殺し、龍造寺の枝葉を剰滅せんとしたのである。庵主の家祖は、其の長子即ち嫡男にして、龍丸と言う者であった。四方に流寓の結果、信友(しんゆう)三宅某が黒田家に重用せられ居るのを手便りて寄食し、終に藩主・長政公の御聴に達し、客分として最も手厚き保護を受けて居たが、後には藩公に其の才器を見込まれた。或時藩公は右三宅を以て子孫百世忘る可からざる懇談を賜ったのである。曰く、

「龍造寺龍丸は予に於て格別の庇護を加え居るも、何分戦乱の余殃(よおう)未だ止まず、四方より入り込む刺客隠密の処置に油断相成難く、今尚安堵の生活致させ難く思うに因て、予は一案を得た。夫(それ)は予が郷国・播州に、儒者として客分なりし杉山如庵なる者あり、此の者の祖先は、相州箱根杉山の城主杉山三郎左衛門の尉誠久(じょうのぶひさ)と言う者であって、建徳文中の頃より南朝に心を寄せたる家柄であったが、明徳の頃より家勢衰え、播州に来たりては代々予が家祖と、去り難き因縁を結んだ、如庵死後に、其の遺孤・八重と言う一女子あり、予之を扶肋せんと思うに付き、之を九州の名族・龍造寺龍丸に娶せ、暫く龍丸をして杉山の姓を名乗らせ、予が家臣の中に差加える時は、龍遠寺の跡を晦ます(くらます)に於て、屈強の便宜たらん、其の事を龍丸に汝より申聞かすべし。龍丸承引の上、産けたる中の一子を以て、杉山の家名を継がせ、時代静謐の上、再び龍造寺の家名を興さば、予に於ても満足ならん」云々、

との仰を蒙ったので、龍丸は三宅の執成(とりなし)によりて君命の忝きを奉じ、茲に杉山家を名乗る事となったのである。龍丸入家の時、君公御手ずから延寿国時(えんじゅくにとき)の御刀を下し賜わり、杉山三郎左衛門誠隆(のぶたか)と称して、御奉公を為す事となったのである。故に庵主の家には、福岡藩に沢山杉山姓を名乗る名家があるにも係わらず、往昔より一本杉と云うて、同苗も何もなき孤立の杉山姓であったのである。其の後、直方御分地のとき、杉山三郎大夫誠正(のぶまさ)と云える者、奥御用人の重職にて勤仕して居たが、御本家御継嗣の為め、直方公御本藩御直りの節、御供をして、親戚・辻某と共に御側を相勤めて居た、然るに其の後子孫に不心得出国の者があって、一旦断絶の家名となったが、旧事思召出されて、再び御奉公を許されたる次第である。故に何れの時代、何れの場合にても、龍造寺姓を名乗らんとすれば、何時にても差許される事になっては居たが、何れも只々君恩の忝けなきを回想し、代々其の事を御遠慮申上げて居たとの事であった。庵主の代になっては、叔父・信太郎も分家して杉山姓を名乗り、弟も分家して杉山姓を名乗る事となった故、庵主は何時か先祖の遺志を継ぎ、改姓をなさんと思い、或時親友頭山満氏に此の改姓の事を相談した事があった処が、頭山氏曰く、

「貴様は悪い名でも、其の位天下に売って居るから、改姓などはせずに『我は鎮西八郎にして可なり』で遣り通してはどうじゃ」
と云われたので、庵主も夫(それ)を尤もに思い、更にこう考えた。

「俺の様な碌でなしが、先祖の姓氏に復するなどは、言語道断の不心得である。俺は朝鮮を日本の治下に置く事が、畢生の志望であるから、夫が出来る時は、俺の死ぬ時だ、其の時には此の本家の杉山の家名は、俺の死と共に断絶させて遺ろう、とても俺以後には龍造寺の姓を名乗り得る者は無いと見て差支あるまい」

と、こう決心はしたが、其の後余儀なき父母の命で、遠戚より妻を迎えねばならぬ事になった時にも、自分限りで此の家名は滅せしむる事を承知して置いてくれと、里方先方に談判をした位であった。夫故に庵主の伜にも、其の事を堅く云い付けて置いたから、伜は慶応大学入学後、四十ケ寺の禅僧を集めて、得度式なるものを挙げ、ちゃんと坊主の鑑札を貰い受け、茲に俗的姓名は絶家せしむるの覚悟と準備をして居たのである、然るに日韓の事は、叡聖なる陛下の御威稜と、忠誠なる日韓志士の尽力に依りて、一滴の血を見ずして解決した故、庵主はまんまと駄死を免れ、豚命を繋がねばならぬ悲惨事に陥ったのである。其の中近戚の者の包囲攻撃によりて、家名継続の止むを得ざる事になって来たので、云わず語らずに、平々凡々として今日に至ったのである。是は余談であるが、そこで弟の杉山五百枝は、十四五年前、俄然として龍造寺隆邦と改姓改名して、之を世に発表したから如何なる無頓着の庵主でも、びっくりして早速に弟を呼び付けて曰く、

「汝は兄たる予に一応の相談もなく不肖の身を以て先祖の巨姓大名を紹いで(ついで)、之を世に公けにするとは言語道断である。抑も如何なる考で、又如何なる必要で、左様な不屈を決行したか包まず其の理由を申出よ」と、居丈け高になって詰問した処が、弟は平気な顔ですらすらと答えた、曰く、

 「兄上が左様の思召に違いたるは、今更誠に恐くに耐えませぬが、私には一円お叱りのお趣意が判りませぬ、先祖が巨姓大名と仰せらるれば、私も正さに巨姓大名の子に相違ござりませぬ、仮令(たとい)私共が不肖であっても、正さに巨姓大名の先祖の血統を享けたる、不肖の子孫に相違はござりませぬ、大日本帝国の武士は、世界に抽出して血統を貴び、先祖の名姓は屹度其の子孫が継ぐ事を以て、君民上下共に動かざる掟と致して居ります。決して其の正当の子孫が、馬鹿でも痴漢でも、どんな不肖の子孫であっても、先祖に謙遜して他の苗字に改姓改名を致した者は一人も無いと思います。先ず夫は夫と致しても、私は先祖・龍造寺に比較して、決して謙遜を致さねばならぬ、家名を継ぐ事までも遠慮せねばならぬ程の不埒者ではないと存じます。其の訳は先祖・龍造寺隆信は其の立身の初めに於て、其の妻の里方なる肥前蓮池の城主、蓮池肥前守・重光を妻と共に攻落して其の城を領有して居ります。当時戦国の習い、血族戟を交え、姻戚鎬を削る事は珍らしからぬ事ではござりますが、其の事は屹度あった事には相違ござりませぬ。秋は其の正当の子孫として、斯る明治の泰平に生れ、斯る聖天子の制を忝のうしたお蔭には、未だ斯る先祖の如き大罪を犯した事はござりませぬ。夫で今日まで決して巨姓大名の子孫なりと威張った事もござりませぬ。又先祖・龍造寺隆信は、身微賤より起りて、両筑両肥の豪族殆んど全部を攻亡ぼし、其の領地を併有して威を四方に張ったに相違ござりませぬが、其の正当の子孫の私は、未だ他の領土を侵掠し、人の所有物を奪略した事も決してござりませぬ。多額の借金こそ有ますが、一つとして、貸主の承諾を得、正当の証文を入れて借らざるものはござりませぬ。左すれば聖代の民としては、先祖より私の方の人格が生れ優って居るのでござります、若し先祖の龍造寺や、島津や大友のように、互いに掠奪殺戮を事とする者が、此の明治の聖世に居りましたならば、夫こそ幾百十犯の重罪人であって、巡傑の死刑は決して免かれぬのでござります。其の重罪人の家名を紹いで遣る子孫の私には、先祖の方で一応の礼を云うか、恥入るかせねばならぬと思います、また、兄上に御相談なしに家名を継ぎましたのは甚不屈(ふとどき)の様でござりますが、是も一通りお聞取を願います。元来兄上は、先祖の龍造寺を名誉徳望を兼備したる名家と思召て居らっしゃるから、御謙遜のお心より、此の家名を断絶してまでも汚すまいとお考えになって、已に絶家の御決心にて御放棄になったのでござります。謂わば公然とお捨になったのでござります、夫を正当の子孫の私が、拾うて相続致たのでござりますが、夫も非情的に窃取したのではござりませぬ。私の友人で佐藤平太郎と申す福岡市の市長が居ますから、夫に系図を持ち出しまして相談致しました上、最も正当の手続を経て、改姓改名を致たのでござりますから、決して人に爪弾きを受けるような後暗い事は致して居ませぬ。又、何の必要あって改姓改名致したかとのお尋に対しましてぱ、包まず申し上ますが、私も武士の家に生れまして、或る生存の意義を立てたいと思いまして、身を立て家を興し、終には家国民人の為にも尽したい考えを持って居ますから、八方に奔走をして、営々と事業に努力を致ましたが今日までは全部失敗に了りましたから、
最後の一案と存じまして、或る外国の宣教師と棒組になり鹿児島県下に金山を発見しまして、共々に一生懸命に働きましたが、とうとう夫も失敗に了り、其の負債が十二万円余となりましたが、茲に気の毒なのは其の宣教師で、其の負債の割前の為めに、自分の受持って居る長崎市の寺を、債鬼の為めに取られる事になりました、私も日本男子たる者が、外国人と合同をした為めに其の宣教師の坊主が寺を取られて、生きながら地獄に落ちるような事を見て居っては、一分が相立たぬと心得まして、段々債主とも相談致ました処が、債主が申しますには、

『山海万里を出稼に来て居る外国の旅人、一文なしの坊主を剥ぐには、国際上相当の手続きも必要だし、殊に人が地獄に落ちぬよう世話をする坊主を、自分が夫を地獄に突落しては、金貸冥利も如何と思い、同じ一文なしなら、日本人のお前丈けを相手として置く方が、順当かも知れぬ、併しお前の今聞くような、世に知られた由緒ある家柄の人で、改姓改名を容易く出来るのなら、一番茲で其の龍造寺姓に改姓して、十二万円の証文に判を押してぱどうじゃ、鉱山で損をした人は、煎じても煙も出ぬ物じゃ、夫と同時に鉱山師に貸した金の取っぱぐれは、捨てても、跡に祟りの来る物じやと云う位の物故、私は其の龍造寺某と云う公正証書の借用証文を、後生大事にドル箱に入れて、一先ず此の貸借問題の段落を著けようじゃないか』と、荒木を切って出すような債主の談でございましたから、義を見て為ざると銭を見て借らざるとは勇なきなりと存じましたから、早速に福岡に馳せ付けて、改姓改名の手続を致したのでございます、私は乱暴狼藉な先祖の名前、即ち兄上が放棄して顧みなかった名前を、大枚十二万円と云う大金に成しました手柄者でございます。否や夫で日本人の私処でなく外国人をも助けました。人を天国に導くと云う事業の人、即ち宣教師を地獄から救い出しました。私の改姓改名の必要と申すのは斯な(こんな)理由でございます。今日の法律から申せば泥棒半分の処行をした、先祖の名前でござりますが、其の正当の子孫の私は、此れ丈の手柄を立ましたのでございますから、どうか叱らずに一つお誉を願い度のでございます」

と、ぺらぺらと饒舌立てられたので、法螺丸の綽名ある庵主もぐっと閉口して仕舞い、
「此奴め、一寸一二枚人間が俺よりも上じゃわい」
と斯う思うたから、直ちに心機を一転して、庵主はぽんと膝を敲いた。

「いや、理由を聞いて安心した、克く改姓した。克く先祖の名を借金に使用した、克く外国人を助けた、此の後とても益益先祖の名を、善用でも悪用でも何でも構わぬ、どしどしと汝の思う存分の事を遣って見よ。爾後汝の為めに及ぶ丈けの助力こそすれ、決して汝の事業を掣肘するような事はせぬから、安心してどしどし進めよ」

と云うて兄弟共々膳羞(食事))を分って其の夜は別れた。

斯る顛末で、龍造寺姓を名乗った弟は、幼少より抜群の奇事奇行を遺した者であった。是からぽつぼつと思い出した事を書くであろう。

 **************

  < 続く> 
 

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