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●後藤新平特集  『東京人』245号
 ●閑話休題 後藤新平

 『東京人』 245号。 特集 後藤新平。
 

 昨年あたりから、「生誕150年」ということで、後藤新平に関する著作の出版が相次いでいる。(代表的なのは、藤原書店の『〈決定版〉正伝 後藤新平』)

 雑誌『東京人』でも昨年の10月号(通巻245号)で、

生誕150年 後藤新平 という【特集】を組んでいる。 

編集後記(高橋栄一編集長)には概略、こうある。

 「・・・後藤新平が静かなブームになっており、藤原書店の関連書籍出版が一部のひとにインパクトを与えたが、後藤の知名度は依然高いとは言えない。
 台湾統治の中心的官僚という経歴が疎まれたのかも知れない。

 それなのになぜ特集したのかー。
 それは、現在の東京は彼の計画の上に成立しているという事実、今日の状況の中で、後藤という政治家を再評価することが実に大切におもわれるからです。

 知名度の低さは、(雑誌の)売れ行きに大きく影響するが、これを特集しなければ、東京人のレゾンデートルがない。そう考えてこの245号を「おとどけしました。・・・」

 「今日の状況」とは何かがいまひとつはっきりしないし、「東京人のレゾンデートル」とはまた大仰なと思いつつも、遅まきながら一応チェックしておく。

 **************

 ●まず気づくのは、「特集」冒頭の【後藤新平略年譜】(編集部作成か)にも、p64~65の

 【お世話した人、された人】と題された交際録フローシート状のもの(川西崇行構成)の

 いずれにも★杉山茂丸の名を見ることが出来ないということである。

 不思議なことである。

 もっとも、直後のp70~73には、【「政界の黒幕」杉山茂丸との交友】と題した与那原恵の

 一文が配してあるが・・・。

 ************* 

 橋本五郎は「人材登用の妙 午後三時頃の人間は使わない。」(p66~69)で大杉栄と

 後藤との不思議な交際の風景を取り上げている。

 大震災直後の混乱の中で虐殺されたアナキストである。その一方で、少なくとも「虐殺側」に極めて近い人物、後の敗戦―占領期には「マツテロ・ショーリキ」とGHQにマークされた当時の警察官僚・正力松太郎との交際も描く。

 「右も左も」とだけ済ませることがらだろうか、と疑問符を呈しておいて以下引用する。

 ****************

 ・・・「ビスマルクはかく言えり、『一に金、二に金、三に金』と。我は言う、『一に人、二に人、三に人』と」。
 後藤の有名な言葉である。それを言葉だけでなく実践した姿は浜口や新渡戸だけでなく、数多く見られる。その根底には何かあったのだろうか。

 ●優れた人間ならば、右も左も、出も問わず。

 後藤の女婿の鶴見祐輔は『正伝後藤新平』第五巻で、こう指摘している。後藤には「俺なら、どんな人間でも使いこなして見せる」という自信力があった。だから、近親者に「どんな人間でも使えるようでなくては、大きい仕事はできない」と語っていたと。
 元東京都副知事の青山氏は、後藤のこうした人材登用の背景には、自分自身が占領軍である官軍によって教育を受けさせてもらったという経験があったからだ、と指摘している(藤原書店編集部編『後藤新平の「仕事」』)。当時は、優れた人間であれば、どこの出身であろうともみんなで育てていこう、という気風が横溢していたというのである。

 後藤の太っ腹と公平に人物を見る目は、無政府主義者に対しても変わることはなかった。大杉栄(★1885-1923)の金の無心に応じたエピソードは、大杉自身が『自叙伝』で明らかにしている。
大杉はあらかじめ電話し、永田町にある内務大臣公邸に会いに行った。宴会から抜け出してきた後藤と大杉との間でこんなやりとりが交わされた。

 後藤「よくおいででした。私があなたに会って、いちばんさきに聞きたいと思っていたことは、どうしてあなたが今のような思想を持つようになったかです。どうです。ざっくばらんに一つ、その話をしてくれませんか」

 大杉「え、その話もしましょう。が、実は金が少々欲しいんです。もしいただければいただきたいと思って来たのです」

 後藤「あなたは実にいい頭をもって、そしていい腕をもっているという話ですがね。どうしてそんなに困るんです」 

 大杉「政府が僕らの仕事のじゃまをするからです。政府へ無心にくるのは当然だと思ったのです。そしてあなたならそんな話はわかろうと思って来たんです」

 後藤「で、いくら欲しいんです」

 大杉「今急のところ三、四百円あればいいんです」

 無政府主義者と彼らを取り締まる立場の内務大臣が、こんな会話を交わせるとは一体どういうことなのだろう。後藤は「ようごわす、差しあげましょう」と三百円を渡した。その大杉が虐殺された時、後藤は閣議の席で顔を真っ赤に染めながら「人権蹂躙だ」と叫んだという。・・・

 ***************

 (続けて、橋本五郎は正力との交際風景をこう書く。)

 ****************

 正力松太郎(★1885-1969)への融通も心打たれる話である。警視庁警務部長だった正力は、大正12(1923)年に皇太子が狙撃された「虎ノ門事件」の責任をとって懲戒免官させられた。その正力に赤字の読売新聞を買わないかという話が持ち込まれた。ただし、すぐ10万円を揃えられるならばという条件付きだった。

 正力は伊豆長岡にいた後藤を訪ねて恩借を申し出た。後藤はしばし沈黙したあと、「よろしい。その金は引き受けた。いま手元にないが、2週間もすればできるだろう」と約束した。そして、こう付け加えた。
 「時に君、新聞経営というものは非常に難しいときいておる。もし失敗したらきれいに金は捨ててこい。 おれにその金は返さんでもいいからな」

 正力は後藤が親しくしている財界人から立て替えてもらったとばかり思っていた。ところが、後藤が亡くなって4年ほどたってから、長男から「あの金は親父が麻布の家屋敷を担保に工面したものだ」と打ち明けられた。男泣きに泣いた正力は、後藤の13回忌の際に、借りた10万円の倍である20万円を後藤の故郷岩手県水沢市に寄付した。この金で日本で最初の公民館が建てられた。

 このエピソードは、御厨貴編『時代の先覚者 後藤新平』(藤原書店)から引用した。この書には、後藤新平の魅力が余すところなく詰まっている。・・・以下略・・・

   続く 
 

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