カウンター 読書日記 ●『日本の百年』(6)
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●『日本の百年』(6)
『日本の百年』 (6) 震災にゆらぐ ちくま学芸文庫

 先ず、編者・今井清一による「解説」から。

 *************

 ・・・関東大震災は、一方では古いものを破壊して大衆の時代への傾向をいっそう促進したという面をもつとともに、他方では、それが朝鮮人・社会主義者の虐殺をまねき、さらにこれへの反撃としての虎の門の摂政狙撃事件とを引き起こすことで、不安の底流を増幅している。こうした意味で、関東大震災はこの時代の人びとの記憶になまなましい大事件であると同時に、やはり一つの時代の開幕を告げる転換点としてとらえることができるだろう。
 本巻では、第一部で関東大震災とその引き起こした諸事件を扱い、第二部で大衆の時代が生んだ社会や人間の変貌を取りあげ、第三部では、さきにのべた不安の要因を、政治・社会運動・外交の分野でとらえてみた。

 序章「震災と私」では、人びとの震災体験がその後の生き方にどのような刻印をきざみ、またそれを通じて時代の歩みにどう影響したのか、という問題をとらえようとした。震災そのものへの人びとの反応とその反応にたいする個人の反省ないし対応のさまざまなタイプは、つづく三部でとりあげる問題と対応し合っている。

 第一部「大震災の波紋」では、まず第一章「死者10万損害百億」で大震災と罹災者の実態とを素描した。東京だけについて言うと、震災の被害は1945年3月9-10日の東京大空襲のそれと、地域的にも、また規模のうえからも似かよっているが、震災と戦災とのちがい、また時代のちがいがわかる。第二章「流言・戒厳令・自警団」では、震災直後の朝鮮人人虐殺と社会主義者へのテロとを取りあげた。これらの事件では、権力者の意図と民衆の条件反射的な反応とがどんなふうに交錯しているのか、また権力者はどんな手口を用いたのか、という点をつきとめようとした。★しかし調べているうちに、まだ、そしておそらくはそのまま語られない真実が少なからず伏在していることを痛感した。たとえば、★大杉事件と陸軍の薩長間の派閥抗争とは、なんらかの形で結びついてはいないだろうか。本書に取りあげたほかにもいろいろな噂がある。ごぞんじのかたは記録として残されるようお願いしたい。・・・以下略・・***********

 次に 54.大杉殺し異説 より。(p164~165)

 *************

 甘柏公判の経過からみると、大杉殺害の責任は甘粕大尉一人のものではない、だが甘粕がその罪を一身にひっかぶったのだ、こういう推測も十分に成り立つだろう。だが、さらに一歩をすすめて、大杉を殺したのは甘粕ではないという説もある。
 甘粕は千葉刑務所で服役したが、★刑期10年のところを4年後の1927年秋には仮出所となった。夫人と2年間外遊したのち、満州国の要職につき、敗戦直後には、満州映画★理事長室で毒薬自殺をとげた。彼が満州でとぶ鳥落とすほどの権勢をふるったことは、軍部が彼に無実の罪をしょわせた負い目をもっている証拠だという人もある。

 ★なお、この時代の甘粕の動静については、●佐伯祐三調査報告 にも重要な記述がある。
  左のリンクから参照していただきたい。

 (★満洲映画協会(まんしゅうえいがきょうかい)は、満州国の国策映画会社。略称満映。1937年に設立。資本金は500万円(満州国と満鉄が50%づつ出資)。
 満映は映画の制作だけでなく、配給・映写業務もおこない各地で映画館の設立、巡回映写なども行った。・・また、筆頭理事の根岸寛一によれば、『謀略の資金の多くは、彼(甘粕)の管理する満映からでていた』との証言もある。―ウイキペディアより。
 序に記しておくと、あの難波大助の縁戚で武装共産党時代の闘争に関わった大塚有章も満映で巡回映写に参加していた。) 

   
 荒畑寒村は、大杉とも堺利彦とも懇意だった池田藤四郎という人から、「大杉は麻布の第三連隊の営庭で将校に取り囲まれて拳銃で射殺されたんだ」、という異説を聞かされた。第三連隊の中尉かなにかである池田の甥の話だというのである。
 扼殺だという甘粕の自供と、銃殺だという池田の説のどちらが正しいかは、大杉の死体をみれば一目瞭然のはずだ。そこで荒畑は、大杉の死体を引き取ってきた「日比谷洋服店」の服部浜次に聞いてみた。だが服部の話では、三つの棺を引き渡されたが、なかはすっかり腐乱したうえに石灰がつめてあり、ほんとうのことをいえば、どれが誰の死体かさえ判らなかった、扼殺だとか銃殺だとか、とても見わけがつくものではない、ということだった。(荒畑寒村「大杉栄の思い出」、『自由思想研究』第1号)
 
 
 満州時代に甘粕の部下であるとともに親友でもあった武藤富男は、甘粕が前科者のの暗さをもっていなかったとして、甘粕が真犯人ではなかろうと推測した。(★武藤富男『満州国の断面』 1956年)

 ★満映の映画制作実績が上がらなかったため、国務院は甘粕正彦を2代目理事長に据え満映の改革に乗り出したとされる。甘粕事件で服役後、渡仏。さらに満州へ渡り満州国民生部警務司長などを務め協和会幹部の傍ら謀略機関の親玉として悪名を響かせていた甘粕を起用したのは武藤富男と岸信介とされる。
両者(武藤、岸)の本心は甘粕がその功績の割に報われていない点への配慮があったとされ、武藤は、日本屈指の映画人で理事の根岸寛一を呼び出すと了解を求め、根岸は暫く考えた後に「受け入れます」とだけ答えたとされる。(ウィキペディア)

 **************

 大杉の震災前後―虐までの「日常」はこんな風だった。


 ***********

・・・それどころか、大杉は震災後は、さすがに落ちついて原稿も書けぬらしく、一日に何回となく、こどもを乳母車にのせて散歩にでかけるという、きわめてありきたりの生活を送っていた。また町内の夜警にも参加し、「社会主義者が火をつけろってから、来たらひっつら(ママ)まえてやろうと思ってる」などと、流言に皮肉な笑いさえうかべていた。

 それは、なにも魯庵だけの印象ではない。郷里、陸軍幼年学校を通して後輩だった松下芳男(1892一1983)は、ちょうど大杉が殺される前の日にたずねているが、彼の目撃した大杉一家も、平和な家庭であった。

 「大杉君は原稿書きに疲れて昼寝していたそうだが、しばらくして下りて来て、庭の籐椅子にかけた。
 『大杉さん、あなたはまだ生きていましたネ、ぼくはぽうぽうで、大杉栄の暗殺を聞きましたよ』と私が言うと、充血したような目をむき出して笑いながら、
 『ぼくはこのとおりさ、ぼくもたずねてくる人から「大杉栄の暗殺」を聞かされるけれども、どこかの大杉はやられても、この大杉はかくのごとくに健在さ、アハハハハ』
 とこともなげに言い放って、香の強い煙草を例のごとくスパスパやっていた。(略)
 そこへ野枝さんも出て来た。野枝さんは8月のはじめ長男ネストル君を産んでから、まだ1ヶ月そこそこのからだで、むろんその日まで外出はしてなかったそうで、そとの話はことに興がっていた。」

 話は、当然、そとの大杉栄論にゆきつく。松下が焼け跡のなかで聞いた話を紹介した。
 「『ぼくが7日ごろ、お茶の水付近を通った時、ぼくのうしろから鉄道省の制服をつけた2人づれの男がやってきて、鎌倉の地震のときの惨状を話していましたが、その1人がこんなことを言ってましたっけ。「なにしろ鎌倉には大杉栄という社会主義の親分か住んでいたので、乾分2、30人を指揮して、ずいぶんあばれたそうだよ」と。たくさん放火したと伝えらるるのも、たいがいはこんな類じゃないですかね』
 みんないっしょに供笑した。」(松下芳男「殺さるる前日の大杉君夫妻」、『改造』1923年11月)

 9月20日に福田戒厳司令官の更迭が発表されたことは、大杉殺害のうわさば事実らしいと思わせた。大杉の殺されたことが事実と判明すると、魯庵ははげしい怒りに燃えた。

当時美術学校に在学中だった長男の内田巌(1900-53)は、あとになって、その日の内田家の表情を、つぎのようにスケッチしている。

 「安成が報告にきてまもなく、魔子(大杉の娘)があそびにきた。魔子の姿をみると、母は走りよって魔子をだきかかえて『マコちゃんマコちゃん』と言って泣くのだった。魔子はあっけにとられていた。翌日、大杉虐殺の事件は新聞紙上に堂々と発表された。魔子が裏木戸からはいってきた。『お父ちゃんも母ちゃんも、宗ちゃんも殺されてしまったの』と言った。父は新聞をみながらぼろぼろと涙をこぼしたが、じっと耐えているようにみえた。母は泣いていた。そのうちに父は声をあげて泣きだした。そして二階へかけあがった。みな泣いていた。7歳の恵美子は自分のもっている千代紙や人形を不幸な友だち魔子にやってしまった。その翌晩母はチョコレートとビスケットをもって大杉家をおとずれた。しかし大杉の家を一歩出るとたんに刑事にひっぱられてしまった。『こどもさんが可哀想だからお菓子をもっていったのがどうして悪いのです』母は刑事にくってかかった。

 大杉のお通夜が村木源次郎以下の労働運動社の連中でもよおされた。山本実彦、小牧近江、安成二郎と父魯庵が同志外から参列した。数年前、山本実彦に会ったとき『大杉のお通夜のときの魯庵の姿ほど立派な姿を私は知らない』と彼は私に語った。山本実彦はじめ文化人は連名して当局に抗議した。父は文化にたいする兇暴なる弾圧にたいして、雑誌新聞に熱烈な文章をかかげた。淀橋署の特高が3日にあげずやってきた。(中略)

 私は、美術学校の教室でみなに『大杉殺害事件』について話した。私はラジカルになった。私ばかりではない。一時ではあったが、父も母もみなラジカルになった。」  (内田巌『絵画青春記』 1948年)

 魯庵がガマンならなかったのは、大杉への親近感からでもあったが、それ以上に、甘粕とそれをとりまく軍の態度だった。陸軍当局は、事件の発表当初から、事件は甘粕個人が起こしたもので、軍が関係していないことをしきりに強調し、甘粕を語るのに「古武士の風格がある」とか「模範的武人」とか「一点の非難のない人格者」とかと、最大級のホメ言葉をならべていた。だが実際は、どうか。
 
 「大杉の動静を偵察するに部下の兵を使役し、これがために3日間も公務をさいておる。かつ身みすから軍装をした憲兵大尉として部下の兵をともない、憲兵本部の名をもって大杉を拉致し、憲兵隊の自動車に乗せて憲兵本部まで連行し、本部の署内にて殺害して本部の構内に埋め、死骸を処理し遺物を焼葉するにまた部下の兵を使役しておる。個人として敢行したツモリであろうが、徹頭徹尾<官物>を利用し、官権を行使して、シカモ夜中とはいえ共謀者以外にかならず職員がいたろうと思われる公署の中で最後の処理までをおおぴらに遂行した。」

 これで果たして、甘粕個人のしわざといえるか。また甘粕が古武士のような男だったら、もっとちがったやり方があるはずではないか。・・・略・・・。(内田魯庵『大正大震火災誌』)

  続く。 
 

スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/465-1dea9338



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。