カウンター 読書日記 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 15-3
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 15-3
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 15   
   薩摩ワンワールド総長・高島鞆之助の代理人こそ杉山茂丸


 ●興業銀行設立運動に奔走し、モルガンに容易に会えた訳


 黒田藩士・金子堅太郎は嘉永六(1853)年生まれ、杉山の10歳年上である。藩校・修猷館を出て明治4年、岩倉使節団に同行した藩主・黒田長知に随行して米国に留学、ハーバード大学法学部に学び、法学士の学位と大勢の米人知友を得て、11年に帰国した。この経歴が意味するものを、諸賢はまず考えて戴きたい。帰国後の金子は、元老院・権大書記官などの後、18年に伊藤内閣の総理大臣秘書官となり、翌年には井上毅、伊東巳代治と共に明治憲法を起草した。その後、貴族院書記官長などを経て、27年1月から第二次伊藤内閣の農商務相・榎本武揚の下で次官に就いたが、30年4月、榎本の下野と同時に辞職する。首相秘書官として伊藤博文に親灸した金子は、憲法起草に加わったことからも伊藤派の官僚政治家のイメージが強いが、その一面、黒田藩による政治結社玄洋社の「隠れ総長」だったことは知られていない。

 金子農商務次官に協力して、「興業銀行」の設立に奔走したのが杉山である。

 興業銀行とは、産業振興を目的とする銀行の一般名称で、明治22年に第一次山県内閣の蔵相・松方正義が産業振興のための銀行設立を構想した時、興業銀行の仮称を用いたことに因る。
 産業分野の実状に応じて、農業、軽工業を対象とした勧業銀行と、重工業を対象とした工業銀行とがあるが、その何れを優先さすべきかが課題で、工業分野を優先すべきと考えた杉山は、農工業への融資を重んじる松方蔵相と数度にわたり論争を重ねた。松方はしかし、勧業銀行の優先を決断し、特殊銀行として日本勧業銀行が30年7月設立され翌年開業した。

 財政の神様と称され首相経験もある松方が国際金融帝国の日本側首席であったことは容易に推察できよう。その松方が、己の専門分野に関して、33歳の一浪人に耳を貸したのは、背後の声を聞いていたのである。折から近代的製鉄所の開設を期待する声が高まり、金子農商務次官は、製鉄事業調査会委員長としてアメリカ工業会の実情を知る必要があり、一方で松方首相から工業銀行の必要性をも聞いており、海外の経済事情に通じた杉山と論議することが多かった。

 問題はなぜ杉山がそこまで国際金融・経済事情に通じていたかである。諸賢もそろそろ真相を感づかれたであろう。

 金子の願望に応えて、米国工業界の実情調査のために渡米を計画した杉山は、30年9月、長州人の豪商・藤田伝三郎の経済的支援で渡米し、米国工業資本の事情を視察して11月に帰国する。そのとき米国から持ち帰った資料が後のハ幡製鉄所の開業に繋がる。翌年、重工業融資を行う興業銀行(工業銀行)設立の調査のため再び渡米する杉山に、金子はモルガン商会の法律顧問・ゼニング宛の紹介状を与え、通訳として神埼直三を随行させた。31年初頭に渡米した杉山は、米国金融王J・P・モルガンと単独面会、興業銀行設立の計画を話し、低金利外資導入の希望を述べた。モルガンは5つの条件を出す。第1は、政府保証債券を発行すること。第2は金額で、1億から1.3億ドル。第3は貸付期限で、50年。第4は貸出利息の上限を5%とすること。最後はモルガンの金利を3.5%とし、興業銀行の利鞘は1.5%以下というものであった。


 31年4月に帰国した杉山は、直ちに興業銀行の設立を討議する。米国でモルガンとのやり取りの後、タイプ打ちされた契約内容のメモを第三次伊藤内閣に提出し、これが興業銀行設立の資料となった。杉山がかくも易々とモルガンに会えた背景こそ考究すべきものであろう。
 フリー百科事典「ウィキペディア」には(ママ)「杉山の興業銀行設立運動は、伊藤博文と井上馨の支持を得たが、議会の混乱のためになかなか通過せず、明治33年になり日本興業銀行法は成立したが、モルガンからの外資導入は貴族院に否決された。同31年(1898)に第4代台湾総督に陸軍大将(ママ)児玉源太郎が就任し、民政長官に後藤新平を就けると、杉山は両人に対して製糖業の振興による台湾経済の確立を献策し、自ら製糖会社の設立に携わった。また台湾銀行の創設や台湾縦断鉄道の建設にも関与したといわれる」と解説する。

 しかし、帝国の国策および台湾政策の根幹に関わる右(上)の行動を、杉山がいかなる地歩において行ったのか、史家の説明を見たことはない。もし夫れ、本稿が「杉山は、薩摩ワンワールドの総長・高島の代理人としてそれを行った」と言えば、諸賢は否定なさるだろうか。

     
(以下次号)
 
 
 ★なお、この関連の杉山茂丸・『俗戦国策』の紹介は、1月25-26日にアップしています。
 
 

スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/463-147b9aae



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。