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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 15-1   
 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 15  落合莞爾

 ●薩摩ワンワールド総長・高島鞆之助の代理人こそ杉山茂丸


 ●陸相官邸で杉山茂丸に児玉源太郎を紹介する

 高島鞆之助が陸相を辞任したのは、明治25年8月8日であった。そ  の10日後に欧州出張から帰朝した陸軍少将児玉源太郎は8月23日付 で陸軍次官となり、以後は陸軍省の部長・局長を兼務しながら大山巌・西郷従道・山県有朋に再び大山と、四代の陸相に仕えて日清役の戦務を果たした。予備役入りした高島は枢密顧問官たること3年有余、29年4月に新設された拓殖務省の大臣を伊藤博文から頼まれ、政界に復帰した。
これを待っていた大山は、9月18日の第二次松方内閣成立を機に陸相を辞任し、後釜に高島を据えた(拓殖務相兼任)。児玉は高島にも仕えて次官在任5年半、31年1月に名古屋第三師団長に転じた。この間、29年10月に中将に進級している。

 堀雅昭『杉山茂丸伝』によれば、明治32年頃から向島の児玉元別邸に住んで、其日庵と号した杉山茂丸は、児玉の没後邸内に児玉神社を建て、また大正7年に『児玉大将伝』を著したほどで、児玉との関係が深かったが、『九州日報』大正7年7月15日号所載の「其日庵過去帳」で、「自分に児玉を紹介したのは高島鞆之助で、場所は陸相官邸、児玉が次官の時であった」と語っている。その時期を堀は、「おそらくそれは第一次松方内閣から第二次伊藤内閣に変わる明治25年8月前後の話であろう」と推定する。「其日庵過去帳」の表現では、児玉との初会は高島と児玉が大臣・次官だった時期(29年9月~31年1月)とも取れるし、春帆楼の日清講和談判は28年3月だから前後が矛盾するが、堀の推定は正しい。つまり、25年8月8日に高島が陸相を突然辞任、その10日後に帰朝した児玉は、ほどなく高島前陸相に挨拶に行くが、その場所は、急な辞任のために高島一家の引揚げが遅れていた陸相官邸と考えられるからである。文言通り解釈すれば、児玉が次官に就任した8月23日より後となるが、そこまで正確を期すべきものでもない。ともかくニ人はこの時知り合うが、杉山が陸相官邸に居合わせたのは偶然ではなく、高島が児玉を紹介するために呼び出したものと思う。
同年秋、29歳の杉山は外相陸奥宗光に面会を求め、伊藤首相の非戦論を批判して日清の早期開戦を訴えた(堀前掲著)。

 萄も外相たるものが一浪人に会い、その言に耳を傾けた理由は杉山の背後に存在する勢力を意識していたからに他ならない。後日、春帆楼談判の時、杉山は外相宿舎の大吉楼で陸奥と同宿していた(堀前掲著)が、かかる重大時期に、外相が一民間人に同宿を許すごときは普通ではない。陸奥もまた杉山と同じ勢力に加わっていたのである。同宿の目的は、背後勢力の指令を受けて陸奥を監視し、講和条件を探るためである。果たして杉山は、遼東半島割譲要求の陸奥案に反対して談判妨害を企て、ために李鴻章暗殺未遂の黒幕との嫌疑をかけられた。「その後、日清戦争が終わって暫くしたとき、下関の春帆楼で再会して旧交を温めあうが、この頃から二人は親しくなっていく」と堀は曰うが、日清談判を見守っていた児玉少将と下関で再会し、旧交を温めたというのは、杉山のホラではない。二人は2年半前に高島から紹介されたが、その後会う機会もなく、下関に来てから「旧交を温め、この頃から二人は親しくなっていく」わけだ。児玉陸軍次官が一介の青年と親交するに至る素地を整えたのは、杉山の背後勢力で、二人を紹介した高島鞆之助も当然それに加わっていた。敢えてその名をいえばワンワールドである。

 ●第二次路線変更のためにワンワールド総長に復帰

 日清戦争後、新領土となった台湾に総督府が置かれ、明治28年5月、海軍大将樺山資紀が初代総督に補せられる。樺山は陸軍少佐だった明治5年、陸軍に上申して自ら台湾に渡り、地誌人情を調査した経験があり、台湾事情に精通していた。8月、陸軍中将高島鞆之助を副総督に迎えて土匪平定を任せた樺山は、早くも同月「南北縦貫鉄道の施設」「基隆築港」「道路開墾」の三点を政府に建議した。台湾鉄道株式会社は29年5月5日、渋沢栄一、安場保和らが発起人となり、総督府に創立を出願するが、戦後不況で株式募集は進まない。32年11月台湾総督府鉄道部が設置され、政府公債による官営鉄道として台湾縦貫鉄道が41年11月に全通する。

 台湾は世界的な樟脳の産地である。樟脳専売制による薩摩藩の巨大な利益を知っていた樺山と高島は早くも樟脳製造事業に注目し、28年10月「官有林野及樟脳製造業取締規則」を制定、樟脳製造には総督府の官許を要することとした。
29年4月、伊藤内閣は台湾総督府を監督する拓殖務省を新設し、初代大臣を高島鞆之助に嘱した。以後、樺山・高島のコンビは総督・副総督から大臣・総督に形を変えて存続する。

 以下は私見だが、25年8月に高島が予備役編入して第一線を去ったのは、前年に逝去した吉井友実の後を継ぎ、薩摩ワンワールドの総長に就くためであった。その高島が、盟友樺山総督の依頼とはいえ現役復帰して副総督に就任したのは、明らかな路線変更であった。これは薩摩ワンワールドが台湾政策の掌握を最重要視したからで、そのため高島は拓殖務相にも就き、政界へ再登場する。その後陸相を兼任するのも、松方・樺山ら薩摩ワンワールド長老の懇望による第二次路線変更であった。

 金本位制を確立した第二次松方内閣は自壊、第三次伊藤内閣に替わった31年1月、桂太郎に追われる形で陸相を辞した高島の本意は、薩摩ワンワールドの領袖川上操六を参謀総長にして陸軍の後事を託し、自らは再び薩摩ワンワールド総長に専心したのである。そこへ川上の急死で、事情を知らぬ陸軍少壮軍人の間に高島再起論が沸き起こり、高島参謀総長を実現すべく宇都宮太郎大尉らが「起高作戦」を開始したが、結局実現しなかった(後稿で述べる)。その後、大正初年の憲政擁護運動の折に、尾崎咢堂が「政友会内閣の首相に高島を」と叫んだことさえある。この間、本人が常に落莫を装い再起を促す動きに対して満更でない姿勢を示したのは実は「めくらまし」で、世間はまんまと惑わされたのである。

 

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