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●メモ・西田信春
●西田信春に関してのメモ。 
 


 「アカハタ」には次のようにありますが、西田の入党が★1927年となっています。
 根拠は何なのでしょうか。

 また、[★これが判明したのは戦後になってからで、★57年4月16日付「アカハタ」は「二十数年ぶりに判る―故西田信春氏虐殺当時の模様」を掲載。一緒に活動した佐伯新一氏の「細かい思いやりのある同志だった」との回想が記事中にあります。]ともあり、後刻あたってみたいと思います。

 ★上の57年4月16日付け「アカハタ」・・・は、前記<石堂清倫業績目録・略年譜>によると、[1957年5.7 同志西田信春のこと、『アカハタ』2269号]とある。

 *************

 戦争に反対し殺された西田信春って?
 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-02-10/ftpfaq12_01.html

 〈問い〉 戦前、小林多喜二と同じころ、特高に殺された西田信春という青年がいたと聞きました。どんな人ですか?(北海道・一読者)


 〈答え〉 60年前の戦前の時代、戦争反対や主権在民を言うことは、大変、勇気がいることでした。天皇制政府は「特別高等警察」(特高)という専門の警察網を敷き、戦争反対の先頭に立った日本共産党員らを残酷に迫害しました。命を落とした人は判明分だけで1690人前後にのぼります。

 小林多喜二が死んだ9日前の1933年2月11日、特高に殺された西田信春(のぶはる)も反戦平和のために生涯をささげた一人です。

 西田は1903年、北海道・新十津川村に生まれ、東大在学中に社会科学研究会に参加、卒業後、全日本鉄道従業員組合本部書記になり、★27年、日本共産党に入党。32年、党再建のために九州に行き、九州地方委員会を確立し委員長になります。翌33年2月11日「九州地方空前の共産党大検挙」(検挙者508人)と報じられた弾圧の前日、検挙され、福岡署で殺されました。30歳の若さでした。★これが判明したのは戦後になってからで、57年4月16日付「アカハタ」は「二十数年ぶりに判る―故西田信春氏虐殺当時の模様」を掲載。一緒に活動した佐伯新一氏の「細かい思いやりのある同志だった」との回想が記事中にあります。

 当時、九大医学部助手だった石橋無事氏は、氏名不詳の男の鑑定書を書いた思い出を次のように記しています。

 「それが東大新人会の共産党員西田信春の屍(しかばね)だったことは、ずっと後で知りました。…ひどい拷問をうけても黙秘をつづけ、しまいに、足を持って階段を上から下まで逆さに引きおろされ、それを四、五回くりかえされたら死んでしまった。それが夜中の午前一時ごろなのに、ぼくたちがよばれて行ったのは十五、六時間もたった午後四時ごろです」(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の機関紙「不屈」81年3月号)

 身をていして平和と民主主義の世の中をめざした思いを引き継ごうと、90年に郷里の新十津川町に「西田信春碑」が作られ、毎年2月11日、碑前祭が開かれています。

 (喜) 〔2005・2・10(木)〕
 *************

 http://www.ohtabooks.com/view/rensai_show.cgi?parent=5&index=2

老人の自殺者にはよくあることだが、この老マルクス学者(岡崎次郎)も生前、しばしば自らの「生の終え方」について口にした。
 60歳になったころから、折にふれては、
「自分の人生は自分で結末をつける」
 と、親しい知人に言い、冗談めかせながら、
「だけど、まだ女房の承諾がとれないんだ」
 と、つけ加えたりしていた。
 そんな彼、★岡崎次郎が、“なかなか承諾のとれなかった”妻のクニと二人、自宅を引き払って旅に出、杳として行方知れずになったのが1984年6月のこと。当時、岡崎79歳、クニ86歳。
 これが夫婦の自死行だったとすると、岡崎は20年近く、「いかに死ぬか」について考え続けていたことになる。
「旅に出る直前、東京・本郷にある自宅マンション(賃貸で2LDK)に、親戚や親しい学者仲間を呼んで、それとなく『最後の別れ』を告げている。

 『これから西のほうへ行く』
 と言うのを、渡辺寛東北大経済学部教授(62)は聞いた。
 同年5月19日のことだ。
 法政大の教員時代から『尊敬の念をもって接してきた』という渡辺さんは、岡崎さんがそれ以前にも『死出の旅立ち』を何度か口にするのを聞き、思いとどまるように説得していた。このときも、
『西のほうとは、西方浄土とひっかけているんだな』
 と思ったという」(94年6月17日号『週刊朝日』・「老マルクス学者岡崎次郎夫妻の死出の旅路の果て」より)
 渡辺はこのとき、帰りぎわに岡崎から「これ、持ってけよ。こういうものもいいんだよ」と、唄の入ったカセットを二つ手渡された。
 ちあきなおみと倍賞千恵子のものだった。
 同記事によると、同じころ、岡崎と古い付き合いだった編集者、本吉久夫も、彼から次のようなぐあいにして別れを告げられている。
 本吉が出版をすすめた、岡崎の自伝『マルクスに凭れて六十年』(青土社)という、すこぶる興味深い本がある。どう興味深いかは追い追い述べていくが、この本の裏表紙に岡崎は、
「おだてて、こんな本を作らせた本吉久夫さんに、いま、ただありがとう」
 と書き込んで渡した。渡す前に岡崎は、本を開いたままにして、この言葉を傍らのクニに見せた。すると、クニの目に見る見る涙があふれたのだという。
 そして、岡崎の「死への意志」は、この本の終章「マルクスとの別れ」に、次のように言葉にされている。
「マルクスと別れた私はもはやなにもすることがない。したいこともない。いや、できることがない、と言うほうがいいかもしれない。(中略)収入は毎年減る一方である。だが、老人福祉を、などと叫ぶ気は毛頭ない。いま私が受けている老齢福祉は、毎年秋になると麗々しく区長の姓名を書いた贈り物、現金六千円と、寝巻、枕、シーツ、安い毛布など、寝たきり老人用のものばかりである。今年の秋は尿瓶でもくれるのではなかろうか。(中略)いま私にとって問題なのは、いかにして生きるかではなく、いかにしてうまく死ぬかである」
「自分で自分に始末をつけること。これはあらゆる生物のなかで人類にだけ与えられた特権ではないだろうか。この回想記を書き終って、余りにも自主的に行動することの少なかったことを痛感する。せめて最後の始末だけでも自主的につけたいものだ。なるべく他人に迷惑をかけず、自分もほとんど苦しまずに決着をつける方法の一つとして、鳴門の渦潮に飛び込むなどはどうだろうか、などと考えていたら、往年の友人対馬忠行に先を越されてしまった。同じような人間は同じようなことを考えるものだ。先年、時永淑にこんな話をしたら、どこに飛び込もうと死体の捜索などで大迷惑を蒙る人間がいるのだ、と言われた。それもそうだろうが、それもせいぜい数時間か数日のことだろうから、これから何年も世間に老害を流しているよりはましなのではなかろうか」
 と、こんな言葉で『マルクスに凭れて六十年』(以下、「自伝」と略す)は終わっているのである。

 学者、それも社会科学系の、しかも、そのほぼすべてはマルクス主義に関連した、カタいカタい文章ばかりを書いてきた人の言葉としては、いかにも破格。静かに死を決意した人ならではの、この世のシガラミだとか体面だとかを、軽々とつき放した境地が書かせたものとしか思えない。おそらく、この境地があったからこそ、岡崎から決意を告げられた何人かの人たちは、もはや止めても無駄だと心から悟り、黙って「旅立ち」を見送ったのだろう。そして、引用したような文章で終わっているこの「自伝」は、あきらかに遺書として書かれている。そう、「遺書の代りに……」ではなく、はっきり(自らの生の終りを告げるにあたって、書いておかねばならないことを綴った)遺書として。
 この本を読んで私は、岡崎が「この人のことは、ぜひ書き残しておかねば」と、執筆にひときわ力を込めた人が二人いるように思った。

 ★一人が西田信春、もう一人が向坂逸郎。

 向坂のことは後で述べるとして、西田は、岡崎の一高・東大(文学部哲学科)を通じての同窓生。岡崎は、自分は人にも物にも「惚れっぽくて飽きやすい」性格なのだが、「西田信春は、こんな私が惚れっ放しで飽きなかった数少ない友人の一人である」と書いている。
 無口で「偉丈夫」の西田は、ボート部に属す、意志の強い青年だったが、大学の2年ころ(すなわち大正15年)から、日本共産党に近づき、当時、同党の理論的リーダーとして鳴らしていた福本和夫を、彼が定宿にしていた本郷の菊冨士ホテルに訪ねたりするようになった。そんなころ、
「私の机上に『資本論』が開いてあるのを見て、彼は今や論議の時ではなく実践の時なのだと、言った。然らば革命はいつごろ起きる見込みかと尋ねたら、七年後くらいだろう、と答えた。私は、そんな説にどんな根拠があるとも思えなかったが、思い込んだらテコでも、という彼の性格をよく知っていたから、ただ、そうか、と言うに止めた」
 二人はともに、昭和2年に文学部を卒業し、岡崎は同大経済学部に入りなおし、西田は「交通関係の」労働運動に専念する。そして昭和4年、経済学部を出たものの、未曾有の就職難の時節とて、これといった仕事にありつくことのできないでいた岡崎は、新聞で西田が検挙されたことを知った。後にいう四・一六事件、治安当局がやおら張った、日共党員の大検挙網に引っかかったのだった。
 入獄中の西田に、岡崎は本の差入れをしてやっていたのだが、★昭和7年、保釈で出所した西田が、当時、東京郊外の保谷に住んで、翻訳の仕事で食べていた岡崎のところへやってきた。西田は、
「数人の友人と会合したいので、一日だけ室を貸してくれと言う。私は喜んで応じた。『暢気な虚無主義者』が彼にしてやれることはそのくらいしかなかった。当日は先ず彼が一人でくる。入れ替わりに私が出かける。(中略、会合を終えて“友人”たちを帰らせた後)西田は後片付けを綺麗にして私の帰りを待っていた。玄関まで送って、彼の後ろ姿を見ていると、闘士という言葉はこの男にために作られたのではないかという気がした」
「暢気な虚無主義者」とは、かつて西田が岡崎を評して貼ったレッテル。虚無主義かどうかはともかく、若い頃の岡崎は、勉強熱心である一方、ずい分よく遊んだようである。玉突き(ビリヤード)、昭和初めのころ一般に普及した麻雀、芸者買い、寄席通いなど。寄席の芸について「私が一番面白く思ったのは廓噺だったし、今でもそうなので、この点では私の趣味は江戸時代の町人趣味に通じるものがあるようだ。どうしてだかわからない。一番嫌いなのは人情噺で、これは、どんな名人だ上手だと言われる落語家がやっても嫌である。教訓は、することも、されることも、子供の時から嫌いなのである」
 といった、なかなか含蓄に富んだクダリなども本書にはある。
 そんな岡崎の家を、二、三度、秘密の会合に使った後、西田の消息はばったり途絶えた。
★「西田がそれから約半年後に福岡県で逮捕され、取調べ中の拷問で急死したことは、戦後三十三年(1958年)になってから初めて知った」
「知る」に至るいきさつは省くが、そのころ岡崎が奉職していた九州大学の法医学教室にあった「氏名不詳傷害致死被疑事件鑑定書」が、西田のものであると、ほぼ断定されたのである。なぜ「氏名不詳」なのかといえば、西田は逮捕されても名を黙秘し、警察はそれをいいことに、拷問死させた彼の遺体を(名くらい知っていたにもかかわらず)、このような扱いにしたと推定されている。
★「昭和三十四年一月末、中野重治と石堂清倫との連名で『西田信春を偲ぶ会』の案内状がきた。私は欠席を返事した。次いで石堂から追憶文執筆の依頼状がきた。これにも応じなかった。私は、大局において西田と志を同じくしながら、なにをする勇気もなかった人間であり、彼から虚無主義者の烙印を押された人間である。(中略)ただただ自己の信念から、戦わずにいられなかった西田、彼の無残な死にざまは覚悟の上のことであり、超人的に強靭な精神力をもっていた彼にふさわしい」
 と岡崎は述べている。
 書かなかった追憶文を、「遺書」ならばこそ、岡崎はここに記したのだと思う。
 ここに感じられるのは、人間の死に向けられた、人一倍のデリカシーである。そう、デリカシーは時に「非情」な様相を呈するのである。
 岡崎は、西田という人間そのものに、強いシンパシーを抱き続けてきた。そんな彼としては、「偲ぶ会」のたぐいなど、一個の人間がぎりぎりの選択で得た死を、のめのめと生き延びた人間たちが、勝手につつきまわすようなものにしか見えなかったのだろう。
 自分だって「のめのめ」組の一人には違いない。そんな生のまっただ中で、西田の死について何か言おうとしたら、「つつきまわす」以外のことなどできないのははっきりしているではないか。が、今や自分も、死を決意した人間として、生の終わりの境地において、動機に支えられて死に至った西田について、何ごとかを語ってもよかろう。
 と、とつおいつしながら、岡崎は「遺書」に向ったのだったような気がする。
 死へのデリカシーは、生きることに必然的についてまわる虚偽に敏感であることから生じる以外にない。「自伝」の、先に引用した部分に、
「少年時代の末期以来絶えず『死』という言葉につきまとわれ何度も『自殺』を考えたこともあった私には……」
 という言葉を残(遺)している岡崎は、おそらく青年期のどこかで、つきまとう「死」を、その背後で、素知らぬ顔で引き立てているのは「虚偽」に他ならないことに気づいたのだろう。そうか、生きることに虚偽がつきまとって離れず、死のうと思ってもたやすく死ねるものでないなら、あと課題は、「虚偽」とどう間合いをとるか、どんな駆け引きをやるか、これしかないわけだ。と、思い当り、西田のいう「虚無主義者」として生き延びたのだったと思われる。
 ここでは記述を省くが、やがて当局に左翼として目をつけられた岡崎が、かの大川周明をボスとする東亜経済調査局、その発展体である★満鉄調査部の一員として、敗戦まで、大陸を舞台に展開した「駆け引き」は、なかなか見事である。
 ところが戦後、春を待っていっせいに開花した趣の、マルクス諸文献の翻訳、編集の仕事に、生き甲斐をもってたずさわるようになった岡崎を、とんでもない「虚偽」が待ちかまえていた。 


 (***以下は、今はよく知られる向坂逸郎の「思い出」で、略すべきだろうが、あえて。) 

 というところで、登場するのが向坂逸郎である。
 岡崎は戦前、向坂と知り合い、深く心酔していた。昭和3年、「思想問題」で九大教授を辞めた向坂は、文筆業に転身したが、戦時色が濃くなるにつれ、「いっさいの執筆活動を禁じられ」た。それでもマルクス主義者としての節を曲げなかった彼を、高く評価し、もちろん尊敬してもいたのだった。
 大陸から引き揚げて来て間もない岡崎に、向坂は「資本論」翻訳の共同作業をもちかけた。版元の岩波書店とは、文庫版として出すことで、すでに話はついており、第一分冊の翻訳は自分の手でできている。よって「名義はずっと向坂訳とする。しかし第二分冊以下は向坂と岡崎とが代わる代わる適当な分量をやることにし、どちらがどこをどれだけやっても印税は折半する」というのが向坂の出した条件だった。
 岡崎は一も二もなく承諾し、張り切って仕事に取りかかった。訳出した原稿は、ずい分長い間、向坂のもとに留めおかれたが、ともあれ昭和23年初冬、第二分冊が発刊された。
「その訳者あとがきを読んで私は驚いた。そこには大要次のような一節が書かれていた。『この第二分冊の第三篇からは岡崎次郎氏に下訳をしてもらうことにした。同君の訳はそのままで公刊できるくらい良いものだったが、私はそれを自分の思うままに直した』」
 岡崎は自分の訳した部分を読んでみたが、ほとんど何も「直って」などいない。実質は共訳であるものを「下訳」にみせかけるための、向坂の方便としか思えなかった。何なのだこれは、と腹を立てながらも、岡崎は向坂に文句ひとつ言えなかった。ひとつは生活のため、もうひとつは引き揚げこの方、気分が「卑屈になっていた」ためだったと、岡崎は述べている。そして、それをいいことに(としか言いようもないが)、向坂は第三分冊から第五分冊までの、ほぼ全訳を岡崎にまかせた。「共訳」はおろか、「代わる代わる」訳すという当初の約束も、なし崩し的に反故にされたのである。印税折半の件は、さすがに守られたが、これにしたって、向坂が「労働」に重きをおくイデオロギーの鼓吹者であるのなら、多少の配慮を示してもよさそうに思われる。そう、自分は何も「働いて」いないのだから。
「私もついに我慢ができなくなって……」、岡崎は仕事をおりると向坂に申し出た。他に適当な人がいないから、続けてやってくれというのが向坂の答えだった。向坂は、岡崎の語学力、マルクス独特の用語や言いまわしについての理解力については、自分の「下訳者」を上に、つまり高く評価していたのである。では、訳者の名義を私にしてください、という岡崎の要求に、やおら返ってきたのが、
「そういうことはできない、(中略)君が自分の名でやりたいなら君がもっと偉くなることだ」
 という、ありがたい教訓。
「これには参った。じっさい私は少しも偉くなかったからだ」
 と、“教訓ぎらいの”岡崎は書いている。そして向坂は「じっさい偉く」なっていた。日共の「獄中18年」組が戦後、世に盛名をはせたのと同じ理屈で、節を曲げなかった向坂には、とくに青年インテリゲンチャ、労働者の熱く、また厚い支持が集まり、やがては社会主義協会という(社会党左派と関係の深い)政治組織のリーダーとして、理論家として、押しも押されぬ「地位」を占めるのである。
 岡崎は、この「偉い人」に、それならせめてと、印税半々の是正を要求する。すると、
「それは改める必要はない、上と下がいっしょに仕事をするときにはだいたい下のほうがたくさん仕事をするのが普通なのだ」
 とのこと。そして、岡崎は、
「自分では下訳をやっているとは思っていない、そういうことなら話はこれまで、とさよならすれば、恰好もついたのだが、なんたる情けないこと、私はこのえげつない言い草をそのまま呑んでしまったのだ」
 呑んだというより、向坂の大物ぶりにきっと「呑まれて」しまったのだろう。
 その後、岡崎は向坂の口ききで九大教養学部教授に就任。向坂率いる、いわゆる協会派学者グループの“客分”のような形で昭和25年から30年まで勤め、次いで法政大学経済学部教授に。この間の31年、“向坂訳”の岩波文庫版は第十二分冊をもって完結した。
 この経緯から察せられるように、岡崎が向坂に「呑まれ」ざるをえなかったのは、「生活」という理由もあった。もちろん、もうひとつ、彼のマルクス研究、文献紹介への情熱や義務感が、この大物との訣別を押し止めなかったはずはないが、「自伝」では、そうした類いの心情吐露は、ほぼ一切なされていない。
 死の側に身をおいて生を眺めた人にふさわしく、述懐はあくまで淡々と、なぜか向坂に対しては「駆け引き」が失速状態になってしまう自分を戯画化するふうになされている。
 そんな岡崎の筆致に、やや激した調子が交じるのが、昭和41年(1996)年、図らずもやってきた向坂との第2ラウンドを述べたくだりである。
 この初夏、岡崎のもとへ岩波書店から『資本論』第何分冊かの印税支払通知が届いたのだが、肝心の送金が、いっこうにこない。
 同社の経理部に電話すると、編集部の方から支払いを差し止められたといい、編集部によると「向坂先生がひどく怒られて」、岡崎への「支払いをやめるように、と言われ、先生にはいずれ向坂先生から話をするから、ということだった」が、まだお話はありませんか、とのこと。
まだお話はなかった。
 向坂からの指示は文書でなされているというので、それを見に、岡崎は岩波本社へ出かけていった。向坂の怒りの理由は簡明といえば簡明だった。
 岡崎が、今度こそは自分の名で『資本論』の新訳を大月書店から出したのが怪しからんという次第。岡崎は、同書店から依頼を受け、60年代始めから、新たな翻訳による『資本論』を、全集版、国民文庫版併走の形で出し続けていた。より完全な、より平明な日本語による『資本論』を、というモチーフで取りかかった仕事であり、発刊されてみると、読み易さが受けてよく売れた。新訳で出すにあたって、岡崎は(本人の言では生来の無精から)、改めて向坂にあいさつはしなかったが、発刊された本は逐次送っていた。それに対して向坂からとくに反応はなかったから、内心はどうであるにせよ、先方は自分の仕事を了承してくれているものと思っていた。
ところが、
★「向坂の書面を見て私はあっと驚いた。向坂の見幕は大変なもので、自分の下訳をさせてやった岡崎が無断で大同小異の訳本を他社から出すとは天人共に許さざる重大な裏切り行為だとし、それから罵詈ざんぼうの限りを尽くして私を非難し、岡崎にはいずれ二人の弁護士を代理人として差し向け厳重に糾明するが、取り敢えず岡崎への印税支払を停止せよ、というものだった。(中略)事態がどうであれ、これが一流知識人をもって自認する人物の文章だとは到底想像もできないような物凄いものだった」
 子どものころはケンカに明け暮れ、長じて後は、おそらくは知的抑制が働いて温和になったものの、ときには相手の理不尽に鉄拳を振るうこともあった岡崎の心中に、ここで闘志が頭をもたげなかったはずはないが、何と彼はここでも、怒り狂った「日本マルクス学界の大御所」の要求を受け入れ、印税受領権を放棄してしまうのである。
「こういうときの私の決断は早い。いや、早すぎると言うほうがよいかもしれない。私は今後の紛糾の煩わしさを避けるためには、自分が譲るよりない、と心に決めた。私は、向坂がこの書面にあるいっさいの罵詈雑言を取り消して、あらためて運動資金援助の意味で著作権放棄を要請するならば、適当に配慮してもよいが、弁護士などをよこして談判するというのなら、そんなことには絶対に応じられない、と些か恰好よすぎることを言ってしまった」
 その後、仲に立つ人があって(といっても向坂配下の一人物だが)、岡崎は一度、向坂と会い、印税受領権を正式に放棄する。その間の双方のやり取りや、岡崎自身の心境は
「自伝」から、必ずしもクリアに伝わってこないが、察するに「ケチのついた印税」のことなど、もうどうでもよくなり、マルクス研究についてやり残している仕事に専念しようと思ったのだろう。
 あるいは、どうでもよくなったのは、「印税」だけではなく、この世で生きることにまつわる「何か」だったのかも知れない。
 岡崎が「自分の人生は自分で結末をつける」と口にするようになったのは、本文冒頭の記述から計算してもらえれば分かるように、ちょうど、この出来ごとの前後と考えられるのである。
 このときの向坂との会見について、岡崎は次のように書いている。
「十年振りの再会だった。会ってみれば懐かしさのほうが先に立ち、食事中はまるで何事もなかったかのように歓談が続いた。最後のお茶になったとき、やっと向坂は一言だけ懸案に触れた。先日来の件だが、あなたの気持ちもよくわかった(どうわかったのかわからなかったが、川口―仲介者・引用者注―が適当に報告したのだろう)、いろいろ物入りがかさむので一つ宜しく頼みます、と彼は言った。彼の笑顔と、頼みますの一言は、私にはあの悪罵より遥かに効き目があった。(中略)この日の会見に関するかぎり、私にとって後味は悪くなかった」
 向坂は例の罵詈雑言を取り消したわけでもないようなのに、このあたりの岡崎の心意はもうひとつよく分からない。読む方としては、もうちょっと言葉を費してもらいたいところだが、まぁ、二人の間には、第三者には計り知れない関係の機微が介在していたとでも考えるしかあるまい。
 ここまでは、岡崎に、向坂に対する敬愛の念は少しは残っていた。
 だが、しばらく後のある朝、ある全国紙五段ぶちぬきの大広告を目にして、それも完全に吹っ飛んだ。
「マルクス『資本論』百年記念、向坂逸郎訳『資本論』全四冊、五十年にわたる研究の成果、畢生の訳業ここに完成」
 こうした出版計画があることを、岡崎は岩波の編集者から、ほのめかされてはいたが、向坂の口から一言も聞いていなかった。
★「この誇大な広告を見るに及んで、忘れかけていたあの不愉快な事件がまざまざと蘇り、文字どおり頭に血が上るのを覚えた。(中略)向坂から贈られた献本は献辞のついたまま即日古本屋を呼んで売り払ってしまった。だが、こんなことで溜飲をさげようとする自分の浅ましさをかんじないわけではなかった。憎悪も無念の思いも損得勘定も潔く捨て去ったはずだのに、言うべきときにはなにも言わずにこの期に及んで怨念の虜になるとは、なんという思い切りの悪さ、なんという女々しさ、私はそれから数日のあいだ自己嫌悪の念に堪えられなかった」
 古本屋はさぞ喜んだことだろう。
 一方、岡崎の方は、これでさっぱりするつもりだったのに、かえって自分の「女々しい感情」を自分にみせつけるような結果を招いてしまった。人間の感情というのは、このように、いかに自己の意志でコントロールしようとしても(出来たかにみえたとしても)、関係のめぐり合わせいかんによって、制御不能の、みえない怪物のようなものに変ずるのである。「言うべきときに何も言わなかった」から、こんなことになった、というのは岡崎の述懐するとおりだが、筆者の感じでは、岡崎は「言うべきときに」、彼にいかに勇気があったとしても、結局「言えなかった」、それしか選択の余地はなかったような気がする。
 歴史は進歩する、という気運がマルクス主義への信奉を醸成した戦後の社会にあっては、岡崎は、(かつての大陸時代のように)西田のいう「虚無主義者」たりえなかった、すなわち、人間の意志や思わくや願望を超えて人間をつき動かす「関係のめぐりあわせ」と適当に間合いを取り、相対化し、ときにそれを斜めにみて生きるポジションになど立ちえなかったと思うからである。すなわち「言えない」めぐりあわせを脱することなど不可能だったと。
 このめぐりあわせを、めぐりあわせとして確認する作業が、岡崎の「遺書」執筆であり、めぐりあわせからの最終的な脱出が、妻を伴った自死行だったはずである。

 84年6月5日、岡崎夫妻は、東京・品川の高輪プリンスホテルで、長姉の家族と中華料理で会食(夫妻には子どもはいなかった)。席上、岡崎は「西の方へ旅行する。寛(長姉の息子)のところを連絡先にするから、よろしく頼む」と切り出し、一同は、それがどのような「旅行」であるかを、ほぼ察したが、何もいわなかった。
「本人の気のすむようにさせてあげよう」
 というのが、彼らの一致した意向だった。
 翌6日から始まった旅。二人の足どりは、ホテルの支払いにJCBカードが使われたことなどから、ある程度、判明している。
 6月中旬、伊豆大仁温泉、同下旬、浜松、7月3日、京都、同上旬、岡山。岡山から山陰へ出て荻へ、荻から広島を経て、大阪・ミナミのホリディイン・南海に宿泊したのが、その年ももはや秋の9月30日。
 老夫妻の足取りを辿れるのはここまで。
 岡崎が生前口にしていた「鳴門の渦潮」に近いといえば近い場所ではあるのだが、果たして……二人は見事にこの世から、めぐりあわせから姿を消し、遺体は現在にいたるまで、どこからも発見されていない。
 84年9月。戦後社会を彩ったマルクス主義イデオロギーは潮が引くように彼方に去り、「ポスト構造主義」「ポストモダン」の風潮が全盛の頃だった。
 なお、文中の自伝の引用に「マルクスと別れた私は……」という文言があるのだが、これは彼が抱懐し続けてきたマルクス主義への信奉を捨てたという意味ではない。マルクス研究について自分にできることは、もはやここまで、と見きわめをつけたことが、こう表現されているのである。

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