カウンター 読書日記 ●杉山泰道親子と頭山満
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●杉山泰道親子と頭山満
ここで、第二部 杉山泰道の生涯 は終わるが、紹介していなかったいまひとつの紫村一重の回想を最後に。(以下、葦書房『夢野久作著作集』第二巻月報「茂丸翁と久作」-1977年5月 より)。
 


 ・・・昨今では、地方在住の作家も多くなったようだが、久作の時代には作家となり名を知られてくると普通は東京に出ていった。
 しかし、久作の場合は東京に親の建てた立派な家があるにもかかわらず、上京しようとはしなかった。
 理由は、「いいものさえ書けば、どこに居ようといつかは必ずみとめられる。というものだったが、要するに「両親と同居したくない」強い気持ちがあったように紫村には思われた。
 以下全文引用。
 「・・・(久作)氏が東京で亡くなる直前、同道していた私を連れて遠山満先生のお宅を訪れ、遠山先生に紹介してもらった。それ以前から氏は私に、
 ―おやじには会わせたくないが、遠山先生にはいつか紹介しよう。-と言われていたのが実現したわけである。おやじというのはいうまでもなく杉山茂丸翁のことであり、この時は既に他界されていたから、私は一度もお目にかかったことはなかった。

 もちろん私の方か翁(遠山)への面会を(久作に)求めたことは一度もなかったのであるが、身辺雑話の折柄、ひょいと久作氏の口から出た時、私は何故ですかと反問したところ、
 「おやじとあんたを会わせたら、おやきがあんたを食うか、あんたがおやきをとりこにするか、どっちかだ」と答えられた。

 翁と私とでは、思想的にはもちろんどだい格が違うのに、あえてそう言われたのは、性格と行動の面で、翁と私には、何か共通したものがあると見て、一種の危惧の念を持っておられたのではないかと私は思う。そればかりか作家としての久作自身が厳父の性格と行動を受容できなかった。だから両親との同居は好ましいものではなかった。そのことは厳父の気持ちも同様であっただろうと私は推測する。その外に家庭的な事情も大いにあったと思われる。・・・中略・・・

 それなのに両親に対して不満らしいことを一度も言われなかったばかりか、その態度は実に慇懃丁重であったことが日記の節々からもうかがえる。別の側面からみれば、氏の生活費の大半は、厳父に負うところがあっただけに、それがまた氏の精神的負担ともなっていたのではあるまいか。とにかく感情をあくまでも殺して理性に]生きようとされただけに、自然と内向的にならざるを得なかった。心の内向性と禅と能の世界が、久作文学の下敷きになっている、と私は思う。 (引用終わり)。
 ****************

 自分の秘書を父・茂丸には紹介せず、遠山満には紹介する。その風格にふれてもらいたかったのだろう。『近世快人伝』に書いているように、頭山が、「維新後の日本が西洋文化に心酔した結果、日に月に唯物的に腐敗堕落して行く状況を見て、これではいけないぐらいの事は考えたかも知れないが」、それ以上こまかく考えたのだはないだろうと言っている。杉山泰道が頭山満と共にした思想は、この場から考えてゆこうという考え方だっただろう。・・・中略・・・

 杉山泰道と頭山満とは、おなじ民族主義的心情を抱いていただろうが、少なくとも杉山泰道の場合は国家至上主義ではなかった。
 杉山泰道をひきつけたのは、頭山がその取り巻きと違って財力・権勢・名声を求めようとしない態度であった。それは、無名の右翼浪人として死ぬ、奈良原到をはじめとするかつての「同志」たちに対しても恥ずかしいものではなかった。★

 かつての松本健一も感動的に紹介した、あの『近世快人伝』の中の奈良原翁賛歌とも言うべき杉山泰道の一文は頭山満と泰道自身の「心情の近さ」を証明する文章に見える。

 晩年の奈良原到は杉山泰道にこう語りながら、熱い涙を「ポタポタと毀れ落とした」という。何度も引かれる一節だろうが、あえて引いておく。


 「・・・ (武部小四郎の乱の)盟主武部小四郎は、追手をのがれて薩摩の国境まで来たが、少年たちがとらえられてごうもんにかけられていることをそこできいてひき返し、福岡県庁に自首した。そこで、一切が自分の一存で決定したことであり、少年たちはひとりも謀議にあずかっていないだとのべた。
ある夜、四、五人が向かいの獄舎からひきだされて広場にきたと思うと、武部らしいひとりが、天にもひびけとさけんだ。
 「行くぞオオーー  オオオ--- 」
 少年たち十六名は獄舎の床に平伏して顔をあげ得なかったという。晩年の奈良原到は語る。

 「あれが先生の声の聞き納めじゃったが、今でも骨の髄まで沁み透っていて、忘れようにも忘れられん。あの声は今日まで自分の臓腑(はらわた)の腐り止めになっている。貧乏というものは辛労い(きつい)もので、妻子が飢え死に(し)よるのを見ると、気に入らん奴の世話にでもなりとうなるものじゃ。藩閥の犬畜生にでも頭を下げに行かねば遣り切れんようになるものじゃが、そげな時に、あの月と霜に冴え渡った爽快な声を思い出すと、腸(はらわた)がグルグルグルとデングリ返って来る。何もかも要らん『行くぞォ』と言う気もちになる。
貧乏が愉快になって来る。先生・・・先生・・・と思うてなあ・・・」
と言ううちに奈良原翁の巨大な両眼から、熱い涙がポタポタと零れ落ちるのを筆者(泰道)は見た。
                                            
(夢野久作『近世快人伝』) 

 ★ この杉山泰道の頭山満「観」は、あの大川周明の自伝、『安楽の門』での評価と極めて近い。次の一文が見える。(p121)。


「 ・・・わが頭山満翁が権力によらず、黄金によらず、学問によらず、事業によらず、無為にして能く半世紀に亘る日本の泰山北斗たりしことは、身を以って人格の権威を明示した稀有の実例で、私は唯だ此の一事だけでも翁を明治・大正・昭和三代の最大の導師と仰ぐものである。」
 

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