カウンター 読書日記 ●西田信春の死と杉山泰道
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●西田信春の死と杉山泰道
●「警察は、死体を西田信春として特定できなかった」 経緯の追及 
 


 それから、かなり長い年月が過ぎた。私は転向後、思想事件関係者の保護団体である福岡同仁会に勤めるようになった。其処で、ある日まったく偶然の機会に、西田さ
んの調書を見ることができた。
当時の事件関係記録は、1人分でも相当部厚い綴りになっていた。払は盗み見るうちにその中に2、3枚綴りの1冊を見つけ、不審に思って表紙を開いて見て驚いた。
それは西田さんの調書で、福岡署で調べられた時のものであった。
中身は、ただの1枚きりだった。私ははやる胸を押えてその1枚を凝視した。その 1枚の紙片には大略こう記されていた。

「通称、伊藤又は坂本、岡。本名不詳。推定年齢30歳位・・・」行を変えて「取調中、心臓麻痺で急死」とあった。が、肝心の死亡月日や時間、さらにその後の処置に ついては何も記されていなかった。私は盗み見の危険も忘れて、2度3度読み返した。私は足ががくがくする程全身が震えた。ひと言も喋らずに冷酷無残な拷問に、死を以って答えた西田さんの烈々たる闘志と、憤懣やる方なく切歯扼腕された姿を、1枚の調書にありありと感じたのである。                 (同前)

1970年9月12日、西田信春の解剖に立ちあった鑑定人・石橋無事に石堂清倫・中野重治、原泉の三人が会ってきいたところによると・・・

昭和8(1933)年2月11日、警察で誰とも知らぬ一個の死体の解剖の準備をしている時、警察の人が検事にむかって、
 「職務熱心のあまりについこないなりまして」
 と同じことを4度か5度くりかえしながらぺこぺこ頭をさげているのを見たそうである。
解剖が終ると、私服刑事が来て、
「これね、あんまり白状しないから、しようがないから足を持ってニ階から階段を上から下まで引きおろして、下から上までぐっとやって、4、5回やったら死んじゃったんですよ」と言ったそうだ。
これらのことがわかったのは、西田信春の死後37年たったあとのことである。
検挙、裁判、転向、下獄後も、西田信春の安否をきづかい、単独で法を犯してもその虐殺の事実をつきとめた紫村一重の人柄が西田信春回顧のこの本にあらわれている。この時代に、彼の経歴を知って夢野久作は彼を秘書にした。

そのころから40年あまりすぎた、1976年、紫村は夢野久作の難解な文字を解読清書して、その日記の刊行を肋けた。

夢野久作氏は、私みたいな泥くさい人間でも、何のこだわりもなく温く抱擁することのできる人物であったということである。といって、私は甘えてばかりいたのではなく、2人で話し合って★ある計画をもち、それが実現に努力している最中に、夢のように逝かれたので計画は挫折してしまった。私にはそれがいささか心残りである。
もしも氏が健在で、その計画が実現していたならば、氏の作家活動の面にも、私の人生にも一つの転機になったであろうことはたしかである。
              (紫村一重「『夢野久作の日記』刊行によせて」
「葦書房編集室だより」7号 葦書房、1976年9月)

この時期に、玄洋社の先人を理想化して『近世快人伝』を書くのだから、夢野久作は、民族主義者であろう。しかし、彼は同じ時期に保釈中の紫村一重に心をゆるしてともに未来を構想する人でもあった。

昭和10(1935)年2月14日の記事を引く。

夕食後父上(茂丸)自ら薄茶を立てて賜ふ。淀み多く苦し。後の思ひ出とならむ。汝は俺の死後、日本無敵の赤い主義者となるやも計られずと仰せらる。全く痛み入る。中らずと雖も遠からず。修養足らざるが故に看破されたる也。

 同じ昭和10年の7月19日に、父は亡くなり、その葬式と後始末を終えた昭和11年3月11日朝、夢野久作は父の東京宅で、会計をうけもっていたアサヒビール社長・林氏の報告を聞くうちに倒れて亡くなった。前夜は午前2時ころまで秘書の紫村一重と★新しい農民道場をつくる計画(当然これが、上の「ある計画」だろう)の図引きなどしていたという。

  夢野久作としての活動は、大正15(1926)年5月から昭和11(1936)年3月までの10年で終った。

 「タイドウシス スブコイ イクモ」
 という電報を、杉山龍丸は、福岡の自宅でうけとった。父とともに東京に出ていた紫村一重が、小田原で待っていて、汽車にのりこんで、母と龍丸とに、夢野久作の死の事情をつたえた。

 紫村氏が、何度も、何度も、車中で、
 「龍丸さん、慌てしゃんな、慌てしゃんな。奥さん、しっかりして下さいよ。」
と、繰り返すので、私や母が笑いましたら、
 「ああ、これで安心した。案外、2人とも落着いて居られるので、安心した。これで
来たかいがあった。」
と嘆息しました。   (杉山龍丸 『わが父・夢野久作』)

 悲痛から哄笑にかわるこの場面転換は、さながら夢野久作の文学のひとこまである。
 ******************

ここで、第二部 杉山泰道の生涯 は終わるが、紹介していなかったいまひとつの紫村一重の回想を最後に。(以下、葦書房『夢野久作著作集』第二巻月報「茂丸翁と久作」-1977年5月 より)。

・・・昨今では、地方在住の作家も多くなったようだが、久作の時代には作家となり名を知られてくると普通は東京に出ていった。
 しかし、久作の場合は東京に親の建てた立派な家があるにもかかわらず、上京しようとはしなかった。
 理由は、「いいものさえ書けば、どこに居ようといつかは必ずみとめられる。というものだったが、要するに「両親と同居したくない」強い気持ちがあったように紫村には思われた。
 以下全文引用。
    
 「・・・(久作)氏が東京で亡くなる直前、同道していた私を連れて遠山満先生のお宅を訪れ、遠山先生に紹介してもらった。それ以前から氏は私に、
 ―おやじには会わせたくないが、遠山先生にはいつか紹介しよう。-と言われていたのが実現したわけである。おやじというのはいうまでもなく杉山茂丸翁のことであり、この時は既に他界されていたから、私は一度もお目にかかったことはなかった。

 もちろん私の方か翁(遠山)への面会を(久作に)求めたことは一度もなかったのであるが、身辺雑話の折柄、ひょいと久作氏の口から出た時、私は何故ですかと反問したところ、
 「おやじとあんたを会わせたら、おやきがあんたを食うか、あんたがおやきをとりこにするか、どっちかだ」と答えられた。

 翁と私とでは、思想的にはもちろんどだい格が違うのに、あえてそう言われたのは、性格と行動の面で、翁と私には、何か共通したものがあると見て、一種の危惧の念を持っておられたのではないかと私は思う。そればかりか作家としての久作自身が厳父の性格と行動を受容できなかった。だから両親との同居は好ましいものではなかった。そのことは厳父の気持ちも同様であっただろうと私は推測する。その外に家庭的な事情も大いにあったと思われる。・・・中略・・・

 それなのに両親に対して不満らしいことを一度も言われなかったばかりか、その態度は実に慇懃丁重であったことが日記の節々からもうかがえる。別の側面からみれば、氏の生活費の大半は、厳父に負うところがあっただけに、それがまた氏の精神的負担ともなっていたのではあるまいか。とにかく感情をあくまでも殺して理性に]生きようとされただけに、自然と内向的にならざるを得なかった。心の内向性と禅と能の世界が、久作文学の下敷きになっている、と私は思う。

 (引用終わり)。
 ****************
  <続く>
 

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