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●西田の死
 ●西田信春の<「転向」~死>に、いま少し拘ってみる。 (石堂本 p184)

 「・・・西田の噂はこれきり誰もするものがなかった。

 何の連絡もないのは、どこかで消されたのではあるまいか。戦前はそれを調べることそのものが危険であった。明らかになったのは戦後のことである。

 戦後にそれを調べはじめると、党本部でも北九州の組織でも、まるで西田がスパイででもあったように、協力するどころか、妙な目で見るような空気があった。私が調べたところでは、1933年2月11日に福岡で殺されていた。

 福岡の見警察部が取調べ中に殺害し、氏名不詳者として屍体を九大法医学教室にまわした。当時法医学教室に勤務し、解剖の結果を文書化した石橋無事博士にめぐりあうことができて、一切が判明したのである。

 そうなると、昨日まであらぬ疑いをかけていた連中が揃って西田をほめだした。・・・略・・・」

 ***************

 鶴見の『夢野久作 迷宮の住人』によれば、次のようである。

 以下、第二部 杉山泰道の生涯 の後半部より引用・紹介していく

 **************

 昭和10(1935)年、夢野久作(杉山泰道)は、故郷の牧歌的な環境のなかで、身体に悪いと知りながらも好きな紅茶やお菓子をほおばりながら『ドグラマグラ』の改稿の構想を考えたりしていた。
 夜、子供達が寝入った後に、妻のクラを相手に、書きあがった原稿を読み聞かせたりして、それなりに落ち着いた家庭生活がそこにはあった。

こんな暮らしの中に紫村一重が登場する。・・・

以下引用する。(文庫版 p138より)

 
 ・・・ともに新年を迎えた紫村一重は、杉山龍丸の註によれば、鞍手郡直方感田の人。17歳の時、炭鉱の鉱害への農民の抗議にくわわり、農民運動に入った。杉山茂丸の従弟・青木熊太郎の長男・青木甚三郎が連隊でおなじ中隊に属していたことから、夢野久作に紹介され、兵役がおわったあと夢野久作のところに寄食し、後に秘書となった。
「3月17日 日曜 紫村君。長崎で公判受けに夜10時出発」とあるように、夢野久作は、紫村の状況を知って、彼を秘書としていた。杉山龍丸の註によれば、この時の長崎での公判とは、昭和2年以来の共産党弾圧で逮捕されてとりしらべられ、地方裁判所から高等裁判所に上告していた、その判決をうけに長崎に行ったのである。これまで夢野久作の家にいたあいだは保釈中だった。

 紫村一重がとらえられたのは昭和8年2月11日だが、それはながく伏せられており、記事解禁となったのは昭和10年6月14日である。その翌日6月15日の『福岡日日新聞』特別号外には、「九州地方空前の共産党大検挙」という大見出しで、農村へ喰いる広汎・深刻の極左組織、いわゆる「2.11事件」(昭和8年)の全貌がつたえられている。福岡、長崎、佐賀、熊本、大分、鹿見島の6県でとらえられた人は508人に及んだ。福岡県下の被起訴者一覧という一面かこみ記事に、
 懲役1年6ヶ月 本籍直方市・・・住所佐賀県鳥栖町・・・ 学歴高小卒 職業農 氏名紫村一重 年齢28歳 と出ている。

 紫村一重自身が書いた文章によると、彼は昭和6(1931)年2月、福岡歩兵二十四聯隊に入隊中、松本三益のすすめで入党した。当時の帝国陸軍の内部で共産党に入党するというのは、今からふりかえって歴史を考えるものには、想像しにくいが、それが事実なのだろう。除隊後は、全農全会派に属して、共産党員の同志としては松本三益だけが顔見知りで、その指導のもとにもっぱら合法面の農民運動にしたがった。

 翌年の昭和7年12月の末に、福岡県八女郡船小屋温泉の会議に、松本三益に言われて出席し、それは5、6人のあつまりだったが、あいつぐ弾圧で苦しい立場にたたされた共産党の九州地方委員会を確立するための会合だった。当時、紫村一重は24歳だった。

 船小屋会議は、1日目は深夜に及び、2日目は午過ぎには終ったように思う。この日の会議で、党九州他方委員会は確立され、各専門部も設置され、その責任者も決定された。
 西田(信春)さんは会議を閉じるに当り、党九州地方委員会の確立したことを宣言するや、大きな手を私(紫村)に差しのべ、その手に私の掌を包みこむようにしてがっしりと握りしめ、低い声だが底の方からしぼり出すように、ゆっくり一語一語句切りながら、「労農提携万歳」と言って会議を結んだ。
 あれから30数年も経っているのに、私は感激した当時の自分を思い起すと共に、西田さんの大きな手とそのぬくもりを、今も忘れることができない。
 この時の会議の冒頭に、私に斎藤と名付けてくれたのも西田さんだった。その頃、もっぱら合法面で働き、地下運動の経験がなく、しかも百姓臭い私が、よほど忘れっぼい人間に見えたのだろう。そんな私を思いやり、覚え易い名前がよかろうと言うことで、時の首相・斎藤実と同じ斎藤とつけてくれた。西田さんはわれわれの会合の席では伊藤と言っていたように思う。
   (紫村一重「たよりになるオヤジ西田信春さん」、石堂清倫・中野重治・原泉編
    『西田信春書簡・追憶 土筆社、1970年)

 当時の共産党員はなるべくおたがいに会わないように自戒していた。紫村が西田に2度目にあったのは昭和8年2月10日で、この日は2人でふたつの会議にともに出席し、深夜にわかれてから生涯会うことがなかった。紫村が自分のかくれ家にかえってねると(ママ)、2月11日未明の午前4時に警察の一隊が土足で家の中にふみこみ、検挙された。

  以来、拷問に明け暮れた警察のブク箱生活から、長い未決、既決生活の間、私の脳裡を離れなかったのは西田さんのことである。オヤジはどうしているだろうか。大丈夫だっただろうかと。・・・
 

 ************
 逮捕以後、獄中でも紫村は西田の「安否」を尋ね続けるが不明だった。

 かなり長い間尋ね続けても行方不明の状態で、党の仲間のうちには西田をスパイ視する者さえあったが、もちろん紫村はそんな見方には組しない。

 このとき、すでに西田は死んで(殺されて)いたのだが、奈良に住む紫村の家族も、警察さえも知らなかった。警察は、死体を西田とは特定できなかったからだという。

  <続> 

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