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●西田の死、ハウスキーパー
  ★佐野学の転向について、●佐野学のおごり へ戻る。

 ・・・野田醤油の争議について石堂と西田が夜遅くまで議論した。 

 その後、西田が12月末に一年志願兵で入隊することになったので、野方の家(p133の)も解散することになった。

 西田と石堂らの共同生活も一時終わりになるので、「最後の晩餐」をやろうということになり、大間知、中野も加わり銀座アスターで別れの宴をもった。

 「浮かれたようで、何となく物悲しい別離であった」。

 西田はその5年後に福岡警察部で殺された。・・・

 **************

 ここで、この<西田の死>とそれにいたる状況を石堂と鶴見両氏の著から観てみたい。
鶴見の<観相>は前に紹介しているので、先ず石堂の著から。

 『異端の昭和史』 p179 ●西田との別れ より。 

  ・・・西田は1928年末に除隊し、29年1月に上京、高円寺の中野重治方に同居して無産者新聞・編集局(表)に入った。

 裏の編集局には木下半治、三田村四郎、岩田義道、井之口政雄らが働いていた。

 西田は3月20日付で入党し、29年4月16日に検挙されたので、党員としての活動期間は、

 1ヶ月に満たない。

 3・15事件の逮捕者もほとんど党歴は少なかった。当局は党員の活動経験が未熟なうち
に刈り取っていったともいえる。

 当時の活動・運動は結果として、空想的で無意味な冒険主義に陥っていたと言える。

 3・15事件の被告と異なり、4・16事件の被告は★「改正」治安維持法(最高刑=死刑)

 の適用を受ける。

 ********
 ★治安維持法の改正

 1925年法の規定では「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ
 又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」を主な内容とした。

 1928年改正の主な特徴としては
 「国体変革」への厳罰化 1925年法の構成要件を「国体変革」と「私有財産制度の否認」に分離し、
 前者に対して「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル
 任務ニ従事シタル者ハ★死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」として、最高刑を死刑としたこと
 ***********

 1931年11月 西田保釈で出所。

 一旦は故郷・奈良の十津川村に帰るが、すぐにでも上京したいようだった。

 石堂の反対を押し切った形で3月初めに上京、中野重治宅(上落合)に同居した。

 中野の検挙後西大久保に移る。 

 このころ、1932年4~6月のあいだ、西田は統一公判対策委員会に入って、連日のように獄内中央委員、なかでも佐野学のところに頻々と面会に出かけた。
獄外の連中がはやりたつのに対して、彼らは冷静に批判しているようであった。 
 君主制との闘争(コミンテルンのテーゼで主張・指導された)に熱中するあまり、プロレタリアートの社会主義革命の目標を軽視するな、という主張だったらしい。

 その後、石堂が公判のため7月初めに上京、西田の西大久保の宅に落ち着く。

 その借家の2階に西田はいた。2回には中野の本棚があって、中野(獄中)に差し入れる本がかなりあった。

 翌日、西田とそろって外出しようとすると階段の上がり口近くの蚊帳のなかに、ほの白く若い女性の顔が浮かんでいるので、西田に問うと、★「中野の女房だ」とのことであった。

 その後、石堂はこの家から裁判所へ通い、ひと月も住んだが、この「中野の女房」とは一度も顔を合わすことがなかった。
 ****************


 蛇足ながら、
 ★「中野の女房」というが、鶴見本には次のようにある。(『期待と回想』p217)

 ・・・そのこと(*西田は戦中ー戦後、ずっとスパイだと思われていたが、実は最後まで非転向で、拷問死したという事実)が戦後になって明らかにされた。それは西田と交渉のあった中野重治や石堂にとっては大変なショックだったんです。それでこの本(*石堂他編 『西田信春 書簡・追憶』1970刊)ができたんです。

 この本に西田の配下だった前田梅花の書簡がおさめられている。西田にはハウスキーパーがいた。北村律子というんです。・・・略・・・

 「中野の女房」とはこの西田のハウスキーパーだったのではないか、との疑問も浮かぶ。
   

 ****************

 このころの西田はグレーの明るい色の背広を新調し、毎日北九州の地図をを一枚ずつ買ってきた。地方オルグ(組織活動)に出かける計画だと石堂には分かった。

 裁判も区切りが付き、32年7月末日、石堂は故郷に帰ることになり、大久保駅の途中まで西田が送ってきて、二人で黙って手を握り合って別れた。これが二人の永の別れとなった。

 10月29日に、石堂が判決をうけるために上京したときには既に西田の姿はなく、彼への刑の言い渡しはなかった。・・・

 西田の噂はこれきり誰もするものがなかった。

 

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