カウンター 読書日記 ●石堂清倫・『わが異端の昭和史』
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●石堂清倫・『わが異端の昭和史』
 ●『わが異端の昭和史』 より、

 西田信春に関する記述主に、を続けていく。(「寄り道」もあるが)。


 卒業を控え、石堂には、宏徳会への借金の返済や義兄へ預けている妹たちのことなどまだ「運動」に専念することへの迷いがあった。
 *宏徳会:渡辺銀行とあかぢ銀行の頭取である渡辺勝三郎が出資者である、奨学金や学生寮を提供した。
 1927年(昭和2年)の「失言恐慌」のあの渡辺銀行である。石堂は父母を早くになくしたこともあり、多額の借金があった。
 「・・・入院費や卒業用の参考書代」「就職用の背広代」など。ー背広も当時は大変高価なもので、昭和の30年代まで、サラリーマンの背広は「オーダーメイド」を<月賦>で買ったものだ。

 ある日(1927年冬)、★佐野学のところへ行って、「労働組合で働いてみようかと思っている」と告げると、佐野は喜んでくれた。佐野自身大学を出たばかりの頃伊豆の金鉱属働者の間で働いた経験を話してくれた。
 佐野によると、労働者が一旦社会主義思想に入るとインテリの場合よりも、ずっと持続力があるものだという。

 ★佐野学については前にも藤原肇の著作等から引用して書いた(後ほどまとめる)が、

 ・・・東京帝国大学法学部卒、新人会に参加。卒業後、後藤新平の伝手で満鉄東亜経済調査局に勤務した後、早稲田大学で教鞭を取る(東海林太郎は佐野の教え子という)。1922年の日本共産党結成に参加。翌年、ソ連に亡命。1925年帰国。共産党を再建し、1927年に委員長に就任。後藤新平死去直後の1929年に中国で検挙され、治安維持法違反で無期懲役の判決を受ける。1933年、鍋山貞親とともに獄中から転向声明を出した。・・・とウイキペディアにあるが、ここでの佐野は「委員長」だったのかどうかは不明。

 1927年3月 東大卒業
 同期の卒業生は40名近くであった。
 そのうち労働組合へいったのは、★西田(鉄道従業員組合か)とわたし(石堂)のほか・・・中野や鹿地亘は文学運動へ、・・・いろいろのところへゆくことになった。
 労働運動の指導部は、直接の運動に入るものだけに配慮を与えたが、その他の学友の生涯計画については何も考えなかった。

 石堂は関東電気労働組合に勤めることになるが、「組合の約束してくれた給与では、生活さえ困難であった。」
 宏徳会への返済は当然進まない。

 「その点では★西田は気楽なようであった。」
 ★西田の全日本鉄道従業員組合は、省線浜松町駅前にあった。(石堂の勤めた)関東電気は新橋駅近くだったので、二人は京浜線沿線で低家賃の家を探し、大森駅近くの馬込に新築の一棟二軒が見つかりここへ越した。

 6・3・3畳の三室で、家賃は5円。
 石堂、西田の二人で住み始めるが、間もなく岩田義道、栗原佑、大間知篤三の3人が押しかけてきた。
 しかもこの3人が6帖を占領し、★西田は台所わき、最年少の石堂は上がり口の3帖に押し出された。

 このころは、前述のように昭和恐慌の大不況時で、彼らの生活費では切り詰めても1日2食がやっと、「栗原佑のお母さんが」送って来てくれた蜂蜜(一缶)を各人1日分の分量を決めて「しばらくのあいだ蜜を舐めてから出勤した」。
 しかし、窮迫はしていたものの皆「陽気であった。若いこと、理想をいだいいていることが生活の支えとなったのであろう。ただ本を買えないのが悩みの種」だった。
 
 ここも誰かに見張られている気配がしたが、それは、「合宿」(この谷中の家のこと)は運動上の会合には使わない申し合わせにもかかわらず岩田義道が禁を破ってここで会合を開いていたためだと後に(岩田の予審?調書で)判明した。

 いかにも「オッサンという感じ」で彼・岩田のことを理論家のように言う人あるが、「それは、間違いであろう」。
 岩田は日頃は陽気に振舞っていたが、ときに湿っぽく妻子のことを思うこともあった。
 「子供にあいたい」とかきくどくこともあった。そんなとき★西田は「そんなことを言う奴はスカザールだ」とやりこめた。

 石堂はこのころ、巣鴨駅近くの崖から若い女性がすべり落ちて電車に轢かれて死ぬ(自殺)のを目撃したりもする。

 このころ(1927年)の左翼労働組合の教育活動は福本主義を中心としていて、活動家達の「任務」は階級意識を観念的にたたかいとることで、その目的のために福本の諸著作の研究に没頭するこであった。
 組合事務所あたりで日々「不毛な討論に没頭」することとなり、当然、日常の闘争・活動はおろそかになり、組合に対する労働者の失望の声が聞こえてくるようになる。

 1927年は、中国国民革命の進展と、これに対する日本の侵略態勢が確立した年であり、
奉天総領事・吉田茂らの参加した★東方会議が注目された。

 中国国内情勢も予期に反して国共合作が挫折し、複雑になっていく。

 9月に入って、弾圧に備えるために「合宿」を解散することに決定。
 西田・石堂・大間知の3名は新人会の先輩・金井満の住居が空くのでそこに移る。

 石堂は10月半ばに無産者新聞社に行くよういわれ向かった。
 主筆は佐野学、編集局の中心は是枝恭二と関根悦郎。

 そのころ日本労働総同盟の有力拠点のひとつである野田醤油(キッコーマン)で大規模なストライキがおこっていた。

 1928年1月、石堂は急に野田ゆきを命じられ、向かう。(p137-139)

 争議団本部の幹部は左翼の介入を警戒して石堂をなかなか信用しない。
 むしろ県や市の仲裁・和解案の提示を待つのみで、「左翼のもぐりこみには注意せよ」とばかり、言っていた。

 石堂はこの野田争議の模様を報告書にまとめて提出したが、1月15日の無産者新聞にほとんどそのまま記事になった。
 読者からの反応は強く、その晩は、★西田と石堂は「労働者に真実を語ることはどんなことか・・」を遅くまで議論した。

 ●野田醤油労働争議(のだしょうゆ ろうどうそうぎ)は千葉県東葛飾郡野田町(現同県野田市)にある野田醤油株式会社において、1922年から1928年にかけて連続的に発生した労働者のストライキをいう。

野田醤油株式会社内に発足した「野田醤油労働組合」は、1922年に入って、日本労働総同盟関東醸造労働組合野田支部となったが、同年、製品封入に使用する樽の加工に従事する樽工170人が樽棟梁による刎銭(いわゆる『ピンはね』である)撤廃を要求してストライキを起こした。その後焦点は刎銭問題以外にも飛び火し、賃金体系、福利設備、待遇改善を巡って経営陣と組合のトラブルが続き、ついに1923年3月、全工員1,400名が参加する大ストライキにまで発展した。

事態の軽微ならざることを憂慮した内務省は千葉県に緊急訓令を発し、知事、県内務部長らの調停によって「蛸部屋制度」の廃止などで和解させるに至った。同年4月12日、野田町笑遊劇場で労使共同円満手打式が行われて争議はここに終着したかに見えた。

しかし、つづく1927年4月の争議は「目を覆い耳を塞がしめる」と評されたほどの大騒動となった。

野田醤油社と専属契約を有する運送業者「丸三運送店」はその従業員が全員、前述の総同盟野田支部組合員であったが、野田醤油はそれを嫌い、労使関係上つながりのない同町の「丸本運送店」に貨物輸送の一部を移譲することとした。

総同盟支部側はただちにこれを組合破壊の謀略であるとして、団体協約権の承認と賃上げの実現を迫り、9月16日、全員参加無期限ストライキに突入した。

経営者は全工員の解雇、「大日本国粋会」や「大和民友会」など、労働争議や部落解放運動の弾圧でその名を知られた右翼団体の助力を受けて、刺激的対策をとり、かつ組合側でも国会への直接請願、広範囲にわたる野田醤油不買運動の展開などあったため事態は深刻化し、さらには醸造業と無関係な全国の労働組合の同情ストが頻発して、解決の見通しが立たなくなった。総同盟はこの争議を一地方の騒動に終わらせてはなるまじと決し、全国大会で情勢を喧伝したため、社会研究家など労働運動の専門家が、全国から支部を訪れて組合員を督励し、あるいは直接に指導する者もあった。大阪から大原社会問題研究所が「今般求めたる要求につき我労働階級は如何に帰着せんとするか」はるばる調査にやって来た。とうとう海を越え、スイス・ジュネーヴの国際連盟国際労働機関にまで情報が達した。

この間、警察記録に残るものだけで暴行、傷害、脅迫事件が300件以上、一説に殺人もあった。

1928年3月20日の午後1時頃、東京駅頭丸の内ビル脇で野田争議団副団長堀越梅男による天皇直訴事件が突発した。これがきっかけとなって労使双方恐懼したため急速に歩み寄り、同年4月20日「野田醤油問題解決協定」が成立。

この日までストライキ勃発から数えて216日。日本労働運動史上空前の長い解決期間を記録した野田醤油労働争議は、ここに終止符がうたれたのである。

なお、西沢隆二にこの争議に取材した、「野田へ行く」という短い作品がある。(ウイキペディア) 


 ●第二章 運動の躍進と挫折のなかで 
  <佐野学のおごり> へ 続く。 
 


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