カウンター 読書日記 ●石堂清倫・『わが異端の昭和史』
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●石堂清倫・『わが異端の昭和史』
●『わが異端の昭和史』 より、
 
 西田信春に関する記述を主に記していく。(「寄り道」もあるが)。
 
 1924年(大正13年) 
 関東大震災で、どこもかも焼け跡だらけで、ちょっと風が出ると埃だらけ、そのうえ大学の校舎も急遽建設中という騒然たる東京。
そんな東京へ、石堂は金沢第四高校より1924年4月に、東大文学部に入学のため上京した。
石堂が西田信春に会うのは「5月祭」のときで、西田は一高から文学部に入学、ボート部に所属していた。

 翌1925年小樽高商の軍事演習に対する抗議行動が全国の大学に起こり、東大でも11月21日に弁論部主催で軍事教育批判演説会が開かれた。演説会はこれに反対の新人会と支持の七生会との立会い演説会となる。
新人会の勢いが七生会を圧倒したが、石堂と西田は並んで新人会への声援に声を枯らす。
西田はこれを転機に新人会に加盟、石堂と活動をともにし始め、二人は「生涯の友となった」。
この年7月、石堂の父親が死亡(母親は1923年に死亡している)。

 1926年
 1月に入ると、学連第二回大会の秘密会合に出席した38名の活動家が逮捕、新人会では4名が逮捕された。そこで新人会は陳情団を組織して、検挙反対の活動をはじめた。石堂と西田は組んで、数名の教授陣を担当した。
この反対運動の最中に共同印刷争議が起こる。

 「彼(西田)は気立てがよく、行動的で、たちまちのうちに私(石堂)は無二の友人をえた思いがした。演説会への出演を頼まれても、私はたいてい逃げるのであったが、西田は不得手の演説でも引き受けていた」。
性格は対照的な二人なので、馬が合ったとしか言いようがない。
 
 1926年4月
 このころ、会員の増加もあって、新人会の借りた新しい合宿(森川町の三河屋の離れ)に移り、石堂・西田はここに同居する。
石堂の妹・千代も同居、炊事係を担当する。
 また、大学に近いため、大勢の仲間が訪ねてきたし、上京した活動家の無料宿泊所にもなった。
 この年の新学期(4月)から、石堂らは学友会・社会科学研究部=社研の部会と読書会の拡充にともない仕事が]多忙をきわめる。
 5月から西田は大衆教育同盟本部で働くことになる。

 時代は「福本イズム」の興隆期であった。
 (*「分離―結合」、少数の知識層による理論闘争(理論の深化・先鋭化)を所謂「大衆化路線」よりも緊急・優先の課題とするもの、と要約できるか。)
 5月には福本和夫の講演会を開く。

 講演する福本は、「いかにも洋行帰りのダンディーの風があって」、聴衆には若い女性が目だった。
 福本の著書『社会の構成並に変革の過程』も出版されていて、このころから福本の著書を読む人が急激にふえた。

 「秋のある日」、赤羽に行くようにという通知がきたので行くと、それは★水野成夫の家で、その後、毎週1回福本論文を中心とする「厳しい演習」であった。
 これが、所謂「水野学校」で、石堂は戦後にやっと党組織でなかったことを知る。
 参加者は、水野のほか、石堂、西田、愛甲、常見の4名であった。

 ★水野成夫: 東大卒業、1925年に日本共産党に入党した。共産党時代に所属していた産業労働調査所を赤字経営であったのを黒字に転換させるなど、後年の経営者の片鱗を見せている。1927年日本共産党代表として、コミンテルン極東政治局に派遣され、中国武漢政府樹立に参画する。1928年に帰国するが、三・一五事件で検挙され、獄中で転向を表明する。これが、獄中での★転向声明第一号で、転向理論の原型を作ったと言われ、その後の獄中での大量転向のきっかけを作ることになる。(「ウイキペディア」)
 戦後の財界での活躍は略す。
  
 ***************
 

  ここで、寄り道して、また『期待と回想』(*朝日文庫版)からの引用を少し。

 4.転向について  p201-203

 リヒヤルト・ゾルゲ(ドイツの共産主義者。日本滞在中、コミンテルンのスパイとして刑死)の資料が、そのころ出なかったものが、ソヴィエトとドイツからたくさん出はじめたんですよ。ゾルゲの同志だった尾崎秀実(ジャーナリスト。ゾルゲとともに刑死)は第一次近衛内閣の嘱託でしたし、近衛の「昭和研究会」のメンバーだったでしょ。史学として考えれば書きなおさなければならない。

 フランクフルト学派の創立者の中心に、ドイツ留学中の福本和夫(マルクス主義の理論家)がいたんです。清水多吉(思想家)が『評伝福本和夫』(思想の科学社)という本を出して明らかにしたんですが、フランクフルト大学の「社会研究所」というグループの名前も福本がつけた。一昨日、(*この対談は1993年9月25日鴨川会館で行なわれた)私の息子(鶴見太郎*因みに氏は平凡社ライブラリー版『わが異端の昭和史』の解説者である。)が写真を持ってきた。社会研究所のメンバーがズラッと並んでて、福本和夫が真ん中にいるんですよ。後ろにゾルゲが立っている。ルカーチ(ハンガリーの哲学者)もいる。息子がいうには、こんな資料をどうして戦争中の特高は使わなかったんだろう、と。あることはあったんですよ。でもそれの重さに気づいていなかったのか、ナチスも特高もそれを使わなかった。

 史学として考えれば、やりなおさなければいけない。史学はいつでも新資料が出てきますからね。新資料が出てきにくいのは中世史くらいです。古代史と現代史には次々に新しいものが出てくる。私の書いたもの(*『転向』中巻に入っている「翼賛運動の設計者」という近衛文麿論のこと)は完全に凌がれた。発表した段階ではわりにいいものだったんですが。史学としてもある程度のものだったんですが、それからもう三十数年たってますから。

<質>福本和夫については『共同研究 転向』の中でも触れられていますね。いま福本についてコメントしなおすとしたら、どういうことになりますか。

 スターリン主義はスターリンだけに責めを負わせることはできない。「福本イズム」というのは福本和夫だけに責めを負わせることはできないんです。明治末から大正にかけてできあがった東京帝国大学を頂点とする日本の知識人の養成過程があって、それが福本がいったことを「これだけが正しい」と思わせる原因になった。フランクフルト学派でいえば、ベンヤミンもアドルノもスターリンの共産主義に対しては批判的だった。もし福本が日本共産党の重要人物になっていなかったら、そういう道をひらく可能性はあったでしょうね。私はいまだったらもう少し慎重に、福本自身のいいぶん、根拠をとらえるようにしたと思います。

<質>鶴見さんの中には、転向しなかった人はえらいという感じがありますでしょう。

あります。桑原武夫さんは戦時中、獄中共産党員に対する引け目がなかったみたいですね。私にはあります。同時に、獄外にいて活動した尾崎秀実のような人に対する引け目もあります。それは桑原さんとのちがいでしょうね。
 桑原さんと松田道雄(小児科医)さんは京都一中で同じ時期に中学生だったことがあるんです。ただし三年ほど差があって、松田さんには共産党に対するコンプレックスがある。日高六郎(社会学者)と私の関係がそうです。日高さんは私より五つ上です。日高さんが中学生になったころは、まだ『日本資本主義発達史講座』が古本屋で買えた。ところが私のころにはもうなかった。大杉栄は買えたんですよ。大杉栄訳の『クロポトキン自伝』は買って読んだ。この本が偶然、アメリカヘ行く前に、私をマルクス主義に対して免疫にしたんです。アメリカで会った都留重人はある意味でマルクス主義者でした。南博もそうです。この二人から多くを教わりましたが、私の立場は動かなかった。

<質>丸山真男さんが『「文明論之概略]を読む』の中で、ちよっとした時代のずれが大きな差を生むことの例として桑原武夫さんを挙げています。「私は丸山さんとちがってマルクス主義者に対するコンプレックスがまったくない]と桑原さんがいったことに対して、丸山さんが感嘆の声を上げている。その丸山さんはまた、「共産党には戦争を防けなかったことに対する政治的自覚がない」と正面から批判を放った人でもあった。

戦後の日本共産党の最大のミステークですね。そこから回復できない。いまもむずかしいでしょう。・・・以下略・・・
   

  <続く>。
 

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