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●『期待と回想』 鶴見俊輔 
●『期待と回想』 鶴見俊輔 朝日文庫 2008.1.30
(原著は1997.8月刊 晶文社。) よりのメモ。

7。伝記のもつ意味  より。 P352ー


<問>お母さんが何をいおうと、それを無関係にする論理学は成立するのではないでしょうか
 
私がいちばん最初に書いた『アメリカ哲学』を、おふくろは1ページ、1ページ全部読むんだ(苦笑)。文字面ぐらいは読めたでしょ。ところが全部読む。無学の浄土信徒みたいなものでね。私もおふくろを愛していた。おふくろも私を愛していた。これもたしかなんですよ。だから悲劇なんですよ。もう愛情だけはこりごりなんだ。愛情だけはごめんだというのは私の原哲学。物心つくようになってから、どの女性に対しても私はナンバーワンになりたくなかったね(笑)。

批評されたのですか。

 批評なんかあるわけないでしょ。おふくろは、文字面しか読めないんだから。知的な意味でおふくろはものすごく愚かな人だった。ただ、めちゃくちゃに勇気のある人でした。
 逆にいうと、親父との関係では私は逃れられたと思う。どちらかといえば親父に対して厳しいところがあるんだが、自分の書いた伝記のどれよりも親父の書いた『後藤新平』(1937-38年刊)の方がいいと思っている。明治以後に書かれた伝記としては、おそらく指折りのものではないでしょうか。

 運もよかったんですね。親父がこの仕事を委託されたときに、大学からのアカ追放が起こっていたんです。平野義太郎(マルクス主義社会学者・法学者)は東大法学部を助教授で免官になっている。かれが資料集めなど親父の助手になるんです。それから滝川政次郎(法制史学者)は、それより早く九州帝国大学の法学部を首になっていた。日本に奴隷制度があるといって、右翼なんだけども右翼からもやられた。井ロー郎も東大新人会入会の人ですが失職していた。当時のすぐれた学者たちが資料集めと最初の原稿を書いている。学者的な文章ですから、親父がアンカーとして全部自分のスタイルでやりなおした。春秋の筆法でいえば、昭和8(1933)年の日本政府のアカ追放なくしては、『後藤新平』という四巻ものはあらわれなかったと思いますね。

 親父は後藤新平のお婿さんですが、後藤新平を聖人君子としては書いていない。後藤新平は、それこそ男女関係はたいへんに放縦な人だったし晩年は家の中にお妾さんを入れて暮らしていた。そのお妾さんとのあいだに生まれた息子と私はつきあいが生じているが、ものすごくえらい人なんだ。系図の表にいる人より裏にいる人の方が偉大になる確率はあるね。川崎武蔵という人なんだけど、いまも生きてますよ。最後のポジションはドイツ・バイエルの日本総支配人だった。

 海軍中尉として百人を率いて日本に帰ってくる途中、戦争が終わり八路軍と戦って捕まってしまった。ところが八路軍から脱出してね、鴨緑江を1人で越えたという。夜は危ないので白昼に歩いたそうなんです。鴨緑江を越え1人で朝鮮を歩くんだが、監視所にぶつかるとリンチにあった。監視所ではないところで朝鮮人に出くわすと例外なく親切だった、と話してくれたことがあった。釜山まで降りて来て帰ってきたんです。かれはすごい人ですよ。

 親父はそこまでは書けなかった。だが婿さんとしては、父のことをよく書いたと思う。後藤新平は品行方正だとは書いていないんだ。関東大震災のあとにビアード(アメリカの歴史学者)を呼んだのは後藤新平でしょ、東京市の市政顧問として。しかし最後はビアードの案を受け入れないで、東京で昭和通りだけをつくって終わった。そういうことをきちっと批判をしている。私のこれまで書いたどの伝記よりもすぐれた伝記だと思う。
 こういうふうにいま、自分の仕事を含めて親父の仕事が評価できるというのは、私が親父の宇宙の外まで出たということなんです。だけどおふくろの宇宙の外には出ていない。要するにからめとられたんだ、蜘蛛のようにね。アルゼンチンのM・プイグの『蜘蛛女のキス』(集英社文庫)だね。おふくろと親父の影響とは私に対してちがう。

 私が3、4歳から読んでいたのはおもにワイセツ文学であって、伝記なんて、その百分の一になるかならないか。和田邦坊の『女可愛や』や宮尾しげをの『軽飛軽助』は女を裸にするところがあって、「いやあ、いいなあ」と感激したのを覚えていますよ。小学生のときに『朝日の鎧』という連載小説が新聞の夕刊にあって、同級生の嶋中鵬二(出版人)と二人で校庭の隅でしゃがみこみ、前の日の感想を語りあったりね。嶋中は早熟で、そういう意味では語るに足る相手だったんです。

★影響を受けた本

<問>自分でお母さんからの出口を探すということで、他人の伝記を読む、明かりの方向を探すことはなかったのですか。

『共同研究 転向』下巻の増補版に略伝というのがあるんです。共同研究で取り上げることはできなかったが重要な問題をもつ人たちの伝記なんですね。たいへんに重要な資料なんです。いまはもう解禁になっているので話してもいいと思いますが、総理府から役人が2人、係長と課長が私のところにやって来たことがあるんです。『共同研究 転向』上巻が出たのは1959年ですから、そのあとでした。新橋駅の近くのてんぷら屋で会ったんです。

 「追放申請の書類が、自分のところに眠っている。せっかくなんだから、役立ててもらいたい」
 私はその人たちに迷惑をかけると思ったのですが、「出所を明記しなければ大丈夫だ」という。

 そのときに自発性をもっていたのが志垣民郎という人でした。彼は北海道にある緑の村小学校のことを話した。彼の親父さんは志垣寛といって生活綴方運動の指導者の一人で、理想とする学校を北海道につくり経営した人なんです。『回想の芦田忠之助』という生活綴方運動の回想記の中に書いてます。私も会ったことがあるんですけど、とても話のうまい立派な人だった。芦田恵之助(国語教育者)の日本全国にわたるおもな弟子の1人。大正デモクラシーをもっていた人なんですよ。その息子の志垣民郎はそのようにして、私たちの前に出てきた。「こんなにあるんですよ」といって両手を広げましたね。

 私がその資料を引き受けて読む会をやった。メンバーは見田宗介(社会学者)、しまねきよし、横山貞子と私の4人で、手分けして読んだ。出典を明記しないでその一部を『共同研究 転向』下巻の増補版の資料に使った。追放された当人が自筆で書いた自己証言が多いんです。

 その後になって私は吉田満とつきあいが生じることになるんです。何度も会っているわけじゃないんですが、最後に話をしたのは文芸春秋社の『諸君!』なんです。吉田満さんに指名されたことをたいへん名誉と思っています。1978年の8月号、「戦後が失ったもの」という対談として残っています。前にも一度、話したのですが、吉田満は日本銀行の監事でした。対談が終わったあと、かれが話したのは、「日米戦争のときに成人に達していた者は、一人残らず自分が何をしたのか、どう思ってやってたのか。それをカードに書いて出す義務がある。それを全部寄せ集める仕事をしなくちゃいけない」。日銀の歴史を書く役を与えられたこともうれしいといった。かれは日銀の金銭の出し入れから全部を書こうと思っていたんです。

 遠くから見ると、吉田満は東大法学部を出て戦艦大和に乗り士官をやっていた。生き残ったあとは、戦後日本の中で戦艦大和に当たる日本銀行に入り監事になって・・・、そう見えそうなんだけど、そうじゃないんですよ。吉田満はその場での自分の責任をのちの時代に残そうと思っていたんです。戦艦大和と日本銀行のね。

 私は吉田満に対して、われらの世代の最良の人だとはっきりした印象をもっている。かれは大東亜戦争のときに正気をたもとうとしていた。実際さめていたんです。だからこそ戦艦大和が出撃したあと、豊後水道のあたりで自由な議論が艦内で起こり、海外出身で吉田満より半年ほど若い白淵磐という大尉が、おれたちのやっていることはダメであるということを教える。それで一同を黙らせちゃうんですよ。このことを吉田満ははっきりと記憶にのこし、戦争が終わったあとに書きとどめた。この場面は『戦艦大和ノ最期』のハイライトでしょ。その後、白淵大尉の家まで行って妹とお父さんから聞き書きを取り、『白淵大尉の場合』という伝記を書いている。

 あの戦争の末期にかれはさめていて、それを書き残した。日本が経済大国に向かうプロセスの中でも戦争記録を残し、次の時代にバトンを渡そうとした。ふつう、戦争のときだけはさめていても、あとはもう経済大国になってグズグズになってしまう人が多いんだが、吉田満はそういう人間ではなかったんだ。おどろくべき人物だと思いますね。

 その人物が死ぬ前に、どうして私を対談の相手に指名したのか。吉田満の年譜を調べてみましたら、東京高校に入ったときの親友として志垣民郎を挙げていた。志垣民郎が1959年にいった「役立ててもらいたい」と、吉田満が1978年にいったこととはつながるんですよ。

 転向研究は、エセ左翼は追放しろ、われらは真のマルクス主義に生きるというような、そういう思想じゃないんだ。私はマルクス主義者そのものでさえない。だけど私はマルクスはえらい人だと思っていますし、刺激を受けたいと思っている。それだけなんです。私の意見を率直にいえば、あの『共同研究 転向』三巻は誤用されていますね。厚くて重い本ですから、人の頭をひっぱたくのに適切なんでしょ。しかし、その中には志垣寛も志垣民郎も吉田満も生きている。そのようなものとして、われわれは書いたんです。この意味は未来に属すると思います。どういうふうに使われるかは未来に属する。

 

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