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*『 政治診断学 』 を 読む。
*「今日は将棋面貴己(シヨウギメン・タカシ)氏の近刊・『政治診断学』(2006.11.10刊・講談社選書メチエ)に学んでみようと思う。」
と記したまま、例によっての「寄り道」癖、アチコチ散歩したので、改めて上著について。

*タイトルの取っ付きにくさにも拘わらず、取り上げる話題はどれも興味深いもので、一気に読み終えた。

 <第一章 政治危機の把握はなぜ難しいのか>

 ナチ・ドイツ期、次々に亡命の道を選択する科学者・芸術家の列が続くなかで、敗戦寸前までドイツにとどまった、「ベルリン・フィルハーモニーの芸術監督」・フルトヴェングラー。(といって、ナチに迎合した活動をおこなったわけではなく、むしろナチの政治的な介入には抵抗を続けたという。)
 では、「なぜ、フルトヴェングラーに対してナチは寛容だったのであろうか。それは、ナチスがフルトヴェングラーの世界的名声の政治的意味を知悉していたからである。・・・逆に言えば、フルトヴェングラーがドイツにとどまることは、ナチ・ドイツの文化的偉大さと道徳的正当性を対外的に宣伝するのに最も有効だったのである。」
 
 そして、ナチ・ドイツ「第三帝国」の敗北・崩壊で、ナチの指導者と共に戦犯の汚名を着せられるが、最終的には無罪となる。
 しかし、これで「一件落着」・・・とはならなかった。

 戦後フルトヴェングラーが演奏活動に復帰して、シカゴ交響楽団に決まったとき、亡命した有名音楽家たちは、フルトヴェングラーとの共演をボイコットする運動をおこしたのである。

 この運動(トスカニーニ、ルービンシュタインなど)彼に相当の精神的打撃を与えたようだ。
  
 彼は先輩の名指揮者ブルーノ・ワルター(;ドイツ生まれのユダヤ人)に心情を吐露した書簡を送り、ワルターとの書簡による「討論」がおこなわれた。
 
 フルトヴェングラーの主張はこうである。・・・
「自分は、第三帝国に踏みとどまり続けて、可能な限りの抵抗をし、ユダヤ人のために力を尽くした。そしてなによりも、<真正なドイツ文化>=バッハやベートーヴェン、ブラームスを生んだドイツ民族とその文化的伝統=をナチスという非ドイツ的な集団から防衛することに努めてきた。そんな私が断罪されるのは不当であり、奇異の念を禁じ得ない!」・・・
 
 これに対するワルターの見解・主張は・・・
「われわれの道が最も分かれますのは、あなたが<真のドイツ人>について述べられるときであります。・・中略・・<真のドイツ人>とは賞賛の意味で言われておりまして、そこから響いてくるのは、かの国家主義、かの愛国心であり、これを強調し高揚するするとこりに災いが生じる」のであり、このような国家主義の克服こそが求められているし、わたしは、<ドイツ人>であるより、まず<世界市民>であろうとした。・・・(*ただし、ワルター本人はボイコット運動には参加していない。)

 以上の例を挙げて、著者(将棋面)は強烈に言い放つ!

「・・・このようにフルトヴェングラーの戦後体験は、彼の主観的意図とは裏腹に、悲惨なものであった。つまるところ、自分は不正政治の跳梁跋扈を許した国民国家もろとも連帯責任を取らされるという屈辱を味わわされたのである。真正な<ドイツ人>は、ナチスとは違うのだ、というフルトヴェングラーの主張は、冷徹な政治判断の支配する現世では通用しない。まさしく、ワルターが喝破したように、人は『現にどうあるか』ではなく、『どう見えるか』によって判断されるのである。
 右(上記)の実例は歴史的教訓を豊に蔵している。フルトヴェングラーの体験は戦時下日本において、とりわけ主要な社会的地位にあった日本人にとって他人事ではなかったであろう。しかし、ことは過去の事柄にとどまらない。目を現代に転じれば、自分が現に生を営んでいる国の政治的運命に関して、自分は政治的立場を権力当局と共にしないと言い張るだけでは、その政治が現に運営されていることに対する公的責任を回避することはできない、という恐ろしい教訓をのこしているといえないだろうか。」(p19-20)
 
 
 一読、理路整然とした文章で、説得力もある。しかし、よく読みこむとすさまじい戦後日本批判・現代日本批判の宣言であることがわかる。一体、ただいまの「日本人」のうち何人の人がこの批判に耐えられ、応答できるのであろうか?
 
 「人は『現にどうあるか』ではなく、『どう見えるか』によって判断される」のである。ーーーのであれば、退路は塞がれてしまっているようにも見える。道はどこに開かれているのだろうか?

 「戦時下日本において、とりわけ主要な社会的地位にあった日本人にとって他人事ではなかったであろう」ーーーことは、「天佑」ともいうべき「逆コース」によって、きわめて日本的な「なし崩し的結着」の遺産が今も漫然と続いているわけであるが、もしそうでなければ、「主要な社会的地位」にあった大代表者など、今頃「私の祖先は朝鮮半島からの渡来者だった」などという発言もありえなかったと解釈できる文脈である。

 では、「どう見えるか?」の「見る」主体は誰なのか?そして公平・適正な判断の基準は、一体あり得るのか?あるとすればそれは何なのか?

 著者の解答は前著『反「暴君」の思想史』(平凡社新書)に示された「公共善」(common-good)ということであろうが・・・


 以下
 第二章 政治理論の医学的モデル (1~4)

 第三章 政治診断学の構想 (1~4)

 第四章 政治体の治療学へ (1~5)

 終章  現代政治を診断する視覚   
     1.政治症侯学としての暴政理論
     2.政治診断学の懐胎
 
 と続くが、前記のブログで記したので略す。


 最後に、マックス・ヴェーバーを引きながら、著者は記す。

 「・・このように暴政の第一の症候は、一般市民社会における道徳的意識の劣化である。

 これと関連する第二点として、特に廿世紀の思想家たちが指摘することであるが、暴政の

もとにある市民はあらゆる意味で矮小化し、きわめて凡庸な存在に成り下がる傾向がある。

人間が本来可能性として持つ偉大さの芽がことごとく摘み取られてしまう、という。・・」
(p193~194)

 また、著者は「あとがき」で「・・医学を本業とされる」読者の誕生を願っているようだが、

わたしは、何よりまず有志の若者に強くお薦めしたい。 

  
     以上。


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