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●『考証 ノモンハン事件』
●『考証 ノモンハン事件』
 
 ●はじめに(続)


1991年3月1日、『私説・あヽノモンハン 生きている「英霊」を想う・・』を自費出版し国立国会図書館はじめ、若干の公立図書館、県内各公立高校、大学図書館、主要なマスコミヘも寄贈した。最も早く反応したのは、北海道新聞であった。(後述)地元では朝日新聞甲府支局が、4月23日、「ノモンハン風化させぬ」「捕虜たちへ想い込め出版」と、〈街かど〉欄に詳しく紹介してくれた。数人の方が同著を所望してきたが反応はいまひとつだった。
 北海道新聞は、3月10日付「ほん」欄に「べ夕」記事ながら要領よく拙著の紹介記事を出してくれた。(もちろん知らなかったが)10日に、江差、小樽、札幌の人たちから電話があり、その後、郵便で拙著を欲しいと続々申込みがきたので、約20人の方に贈呈した。この14、5年の間に、この時の数人が他界されたがその後もふえて今現在、北海道だけでノモンハン参戦者3人を含め20数人の方と交友関係を保ち、いろんな情報を寄せて頂いている。

 タイミングよく、91年5月22、23両日、東京都千代田区グリーンパレスで「ノモンハンーハルハ河戦争国際学術シンポジウム」(実行委員会代表、一橋大学田中克彦教授)が開かれた。
実行委員の一人、朝日新聞社白井久也編集委員に誘われて両日、この集会に参加できたことは有益であった。この時の記録は『ノモンハン・ハルハ河戦争』として原書房から出ているので参照されたい。この集会で多くの学者、研究者、参戦者と出会えたこともたいへんプラスになった。

 第一弾の反響は殊のほか大きく続々と舞い込む書簡や資料を前に、これはこのまま埋らせるわけにはいかないと思い、第二弾『あれは何だったのか』を翌1992年4月上梓。94年9月に『あれから55年、ノモンハン事件って何だったのか』、95年11月『未完のノモンハン事件』、97年10月、最終号のつもりで『ノモンハンーそれは日本陸軍崩壊の序章であった』を何れも自費出版した。その何れも、全身全霊を傾注して制作したものであり、今もって愛着を覚える。

略10年の間に、傷痍軍人の『自分史』の制作ほか、自分史3件の手伝い、編集制作、時間をかけた郷土史関係の共著に手を貸したり、本になっていないが、木村久夫と五十嵐顕両学徒出身兵の戦争体験』(仮題)の執筆などでノモンハンに集中できなかった。

 しかし、次から次と新しい情報を入手でき、それまで疑問のままだったことが解明できたり、看過できない新事実をつかむことができたので99年秋、ノモンハン事件60周年を記念して『ノモンハンの真実』を上梓した。著名新聞社、出版社、府県立図書館へ寄贈した。『週刊金曜日』が紹介した以外、反応はゼロであった。

 それでも、数百人の読まれた方々から好意約書簡が寄せられ、00年4月、63人の方の所感集『昭和史の落丁、ノモンハンを考える』の小冊子を上梓した。この5年間にその中の草柳大蔵、石堂清倫(きよとも)、江口圭一、新井利男の諸氏ら10人が鬼籍に入ってしまわれた。
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 ところで00年11月、米国エール大学、01年6月、カナダのブリティッシュ・コロムビア大学の両図書館から、出版貿易業者を通して『ノモンハンの真実』の注文があり、私はノモンハン関係の拙著の全部を、両図書館に寄贈、郵送した。両大学図書館から丁重な礼状が届いた。

 昨04年11月12日、99歳で永眠された反戦平和運動の支柱、元長崎大学長・具島兼三郎先生から頂いた御著『奔流』の扉に書いて下さった「良心を枉げて(まげて)安きにつく者は悔を千載に残す」のおことばは、身にしみてありがたく終生の教えと心に銘記している。

 ホロンバイルの荒野で無残な死を遂げられた将兵、不幸にも虜囚となり、故国に捨てられ他囚の人にならざるを得なかった大勢の人達に、『ノモンハンの真実』を基調に、改訂補強したこの一冊を捧げる次第である。


●ノモンハン事件戦没者遺骨収集団に参加して
          松井たかお(フリージャーナリスト・写真家)
★戦争の残酷さ痛感
 はるか地平線まで続く草洋、ゆったりと上空を舞うトビの鳴き声のほか聞こえるものは雑草の上を渡る風の音だけ。まさに静謐のノモンハン。ここで血で血を洗う戦闘があったとは信じがたい。
 今夏、ノモンハン事件から65年を経過して初めて行われた厚生労働省の遺骨収集に参加した。遺骨収集団は、厚労省職員はじめ私が所属するノモンハン事件遺族の会(東京)の島田嘉明代表=旭川市出身=ら総勢6人である。
1939年(昭和14年)5月、満州(現中国東北部)とモンゴル国境付近で起きた「ノモンハン事件」で戦死傷した旧日本軍の将兵は2万余人。戦死者は8千人といわれている。同年9月の停戦直後に4千3百86人分の遺体は回収されたが、残り約3千5百人分の戦死者が草むす屍として異境の地に放置されたままという。

 南方の戦地やシベリア等では遺骨収集が比較的順調に実施されてきたのに対し、ノモンハン事件では遺体を掘り返すことに現地の抵抗が強いなど風習の違いもありモンゴル側の合意が得られないなどの理由があった。
 しかし、遺族の要望を受け、2002年5月、衆議院厚生労働委員会で同事件の遺骨問題が取り上げられた。これを契機に同年7月、国は調査団を送り、遺骨がまだ残されていることを確認。モンゴル側の了解も得られ、収集団派遣となった。

★あばら骨に戦車弾

 7月28日から8月11日までの日程で現地を訪れた私たちが発掘したのは、バルシャガル高地。旧日本軍の野戦重砲兵第一連隊がいたところで、旧ソ連軍戦車の猛攻撃を受けている。以前の調査で、旧日本軍将兵の遺骨が地表に現れていたことから発掘地点に選ばれた。

発掘を始めて1時間後、深さ40~50センチの地中から白骨化した遺体が出た。皆骸骨に鉄かぶとを被り、軍靴を履いている。狙撃され絶叫し絶命したのだろうか、口は耳元まで大きく裂け鬼気迫る。今も悲痛な叫び声が聞こえてくるようだった。遺骨と一緒に出た中身の入ったクレオソートの瓶や朽ちたキャラメルの箱から、若い兵士の戦場での日常がしのばれ涙を禁じ得なかった。同時に戦争の残酷さを思い知らされ、すべての遺骨を収容し故国への帰還が完了するまでノモンハン事件は終わらないのだと痛感した。

 また、あばら骨に旧ソ連装戦車砲弾を抱えた遺骨があった。その遺骨の鉄かぶとから1時20分で止まったままの腕時計や万年筆、「岩崎」と姓が判読できる柘植(つげ)の印鑑などの遺品が出た。戦死後の所在を家族に知らせたいとの一念から貴重品をとっさに鉄かぶとの中にしまい込んだのだろう。極限状況でも夫・父として自覚を待ち続けたことに驚いた。

 首都ウランバートルから約9百キロ離れた国境地帯での遺骨収集のため移動に時間がかかり、さらに雨のため、正味4日間の作業。それでも発掘した約30メートル四方の区域の中で、収集した遺骨は16柱に及んだ。

 ★胸のつかえおりた

 帰国後、私は「岩崎」という印鑑を手がかりに遣骨の身元を割り出せないかと考えた。当時の野戦重砲兵第一連隊の戦死者名簿の持ち主を捜し当て、同連隊に「岩崎」姓は岩崎久次郎上等兵一人しかいないことが分かった。千葉県に息子の昭久さん(69)が健在で「長年の胸のつかえがおりた。早く墓に入れてやりたい」と話した。早期のDNA鑑定を切望する。

 同事件研究者の楠裕次さんを介して岩崎さんの元上官、石原正一郎さん(88)=東京在住=にも会うことができた。「岩崎上等兵のことはよく覚えている。通信兵だった。戦死は誠に無念というほかない。野戦重砲兵第一連隊は三島義一郎連隊長が重傷で交代し全弾撃ち尽くして隊は全滅。代理の梅田恭三中佐は責任をとり自決した。小隊長の私は奇跡的に命拾いし、仏壇に向かい戦友や部下たちを弔う日々です。あのようなバカな戦争は絶対に起こしてはならない」と語気を強めた。
  北海道新聞(2004年10月19日 夕刊・文化欄に掲載)

<補記> 2004年9月15日(水)
TBSTV・筑紫哲也NEWS23で「ノモンハン事件65年後の“再会”」の タイトルで放映された。
  <完>
 

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