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●『ノモンハン 隠された戦争』
                        ノモンハン隠された真実_1_1

●『ノモンハン 隠された戦争』 鎌倉英也 NHK出版 2001.3.30

●プロローグ 「ノモンハン事件」ではなかった。

 どうして戦争のことばかり書くか、ですって?
20世紀。私たちは、戦争をしていたか、あるいは戦争の準備をしていたからです。

 スベトラーナ・アレクシエービッチ「スベトラーナ・アレクシエービッチ インタビュー記録」より)

5月ともなると、モスクワは、遮光カーテンをいっせいに開け放ったようにまぶしい。
 若い女たちは、黒々とした重苦しいコートを脱ぎ捨てて、Tシャツ1枚で街路樹の間をゆきかい、胸郭いっぱいに春の陽の光をふくらませているのがわかる。雪のように降り、風に吹かれて舞うポプラの綿毛さえ我慢すれば、1年でもっとも美しい季節がやってきた。
 カメラの三脚を肩から降ろし、通り過ぎる人々をぽうっと眺めていた。
 目の前の光景とは裏腹に、気分は晴れなかった。
 私は、60年も前の、日本と旧ソ連が関わりをもった、ある「事件」の取材のためにここにいる。しかし、その名をたずねても通じないのだ。
 「事件」とは、「ノモンハン事件」である。

連邦崩壊から8年が過ぎようとしていた。ベルリンの壁がハンマーで叩き壊されてから数えると10年になる1999年、ロシア軍事史公文書館が、それまで厳重に秘匿してきた「ノモンハン事件」関係文書を続々と解禁、公関しはじめたとの情報が入った。
 とりあえず、私は予備取材や歴史勉強をほったらかしにしたままロシアに飛び、モスクワ・マヤコフスカヤ駅近くの安アパートを借りて、7つ離れた駅にある公文書館通いを続けていた。

 文書は予想をはるかに上回る膨大な数、1万ファイルを超え、わずかな取材期間では、すてに目を通すことなどとても不可能に思われた。しかしながら、学芸員たちが目の前に山積みにしてゆくファイルの中からは、日本語で書かれた兵士の遺書、戦場で捕らえられた捕虜の名簿、さらには彼らへの尋問調書、スターリンと戦場の前線司令官が交わした電文など、興味をそそられる史料が次々とあらわれた。
 時折、学芸員たちは、史料に埋もれている私に声をかけ、お茶を運んでくれる。
 日本を旅立つ前に依頼しておいたこの極秘文書のタイトル・リスト作りは、彼女たちが引き受けてくれた。

 連邦崩壊にともなう経済自由化は国家財政を破綻させ、猛烈なインフレーションと、かつてない貧富の差を生んだ。国家公務員である彼女たちのわずかな給料も滞りがちで、そういえば1週間、着ているものに変化が見えない。彼女たちは今までほとんど誰の目にも触れることなく埃にまみれていた文書に1から目を通し、史料の日付とタイトルを確定するという気の遠くなるような作業を続けてくれたのである。その労苦は大変なものであると思われた。

 ― あなたは、「ノモンハン事件」を知っていましたか?
 つい、声をかけると、彼女たちはまず眉をひそめ、こちらの真意をはかりかねる、といった笑顔を精一杯つくってこう問いかけてくる。
 ― それは何ですか?
 どうも話が噛み合わない。そもそもこのファイルは「ノモンハン事件」文書ではないか。
 通訳のイーゴリがあわてて間に入る。そして、ロシア語でひと言ふた言。
 そのうちに彼女たちは了解とばかりにこちらに向かってうなずいた。

- あのね。こちらでは「ノモンハン事件」とはいわないんですよ。イーゴリが、地下鉄の駅に向かう帰路の途中で教えてくれる。
― 「ハルヒンゴル戦争」つまり「ハルハ河戦争」という感じですね。そう呼ぶんです。
これは、ショックだった.同じ戦いであるのに、彼我ではまったく呼び名がちがうのだ。日本では「事件」だが、こちらでは「戦争」だ。しかも戦場だと認識していた地名「ノモンハン」と「ハルハ河」では、場所までちかうではないか。この落差はいったいどうしたことだろう。不安になる・・。
イーゴリに別れを告げ、アパートにとって返すと、にわか勉強のために日本から持ってきた「ノモンハン事件」に関する書籍を開いてみた。

 1939年5月。モンゴル人民共和国(以下、モンゴル)と満州国(いずれも当時)の国境地帯で起こった凄惨な戦いを、日本では「ノモンハン事件」と呼ぶ。
 敵対したのは、モンゴル・ソビエト連合軍と満州国・日本連合軍である。
 あれから60年以上経過した現在、日本の資料書籍のほとんどは、歴史教科書ももちろん、いまだに「ノモンハン事件」と記している。しかし、この戦いの一方の当事国においては、このような呼称はまったく通用しない。彼らはそれを「ハルヒンゴル戦争」すなわち「ハルハ河戦争」と記憶しつづけているのである。
 「ノモンハン事件」と「ハルハ河戦争」の間―。
 そこには、単純な彼我の呼称の問題ではすまされない認識の隔たりが感じられる。・・・略・・・

 ・・・モンゴルと満州国の国境はハルハ河によって隔てられると主張した日本・満州国側に対し、ソビエト・モンゴル側はハルハ河より東におよそ20キロメートルの線上、つまり満州国側に食い込んだ地上に国境線があると考えていた。
 それぞれが、それぞれの国境防衛を理由に、戦闘を開始したのである。
 戦名を、その戦場面積を考慮した地名であらわすとすれば「ハルハ河」と呼ぶ方がより正確になる。

 日本で使われる地名「ノモンハン」とは、この草原に生きるモンゴルの遊牧民が信仰の対象としていた「オボー(小さな石を墓標のように積み上げた塔)」が建っていた陵(頂)、つまりある限定的な地点を指す名称に過ぎない。日本側には「ノモンハン地区」という大胆な括り方をしている資料も見られるが、これではどぅだろう、例えば、東京都全域を「新宿地区」と呼ぶに等しい。
 それではなぜ、日本軍は「ノモンハン事件」としたのか,それは、戦闘が始まって、あわてて地図を開いた参謀たちが、そこに「ノモンハン」なる地点を見つけ、現場からの報告によって「この辺らしい」と認定したからともいわれる。もっとも無理もない。豊富な地下資源があるわけでもなく、脅威を感じるような軍事施設もまったくなかった広大な草ばかりの土地が、大規模な戦闘の舞台になるとは予想もしていなかったに相違ない。その意味では、この場所は日本軍にとってノーマークであった。しかし、いったん戦火が噴き出した地点から炎は文字通り燎原の火のごとく燃え広がり、多くの兵隊たちは「ノモンハン」ではなく「ハルハ河」流域の草原で血みどろの戦闘を強いられたのである。

 もうひとつ問題となるのは、「事件」と「戦争」という言葉の落差である。

 この戦いは、日本側だけでおよそ1万8000人に及ぶ死傷者を出した、との報告がある。「事件」と呼ぶにはあまりにも多すぎる犠牲だ。
 しかし、本当に重要なのは、数字の問題ではない。

 日本が「事件」という言葉を使う背後に、実際の戦場となったモンゴルに対する視点がまったく抜け落ちていることこそ、看過できぬ問題として横たわっている。

 この戦いは、モンゴルにとっては独立以来未曾有の、祖国防衛のための「戦争」であった。
 世界で、ソビエトに次ぐ2番目の社会主義国家として歩み始めたばかりのモンゴル(モンゴル人民共和国)の悲劇は、実際の戦闘開始に先立つ戦争準備段階にもっとも顕著にあらわれる。

 ソビエトは、モンゴル民族悲願の独立国家建設の承認をちらつかせつつ、モンゴルをアジアにおける対日本の防波堤・衛星国家に仕立て上げる極東戦略を組み立てていた。そのため、モンゴルは、モスクワにいるスターリンの徹底的な国内政治介入(というよりも支配)によって、強力にソビエト化を推進させられた。モスクワ指導部がいったん反ソ親日分子だと認定した者は、同じモンゴル人の手によって殺害・粛清されていった。その数は、今回の取材によって得た文書によれば、およそ2万6000人、実に当時のモンゴル国民の30人に1人の割合に及んでいる。それでも、モンゴルの人々は、ようやく成し遂げた民族独立国家実現の夢を途絶されることを恐れ、ソビエトの力の前に、日本側と戦うことを余儀なくされたのである。

 民族独立といっても、ことは単純ではなかった。
 ソビエト、中国、日本という大国の狭間で、モンゴル民族はそれぞれの勢力下に分断されていた。日本軍支配下の満州国に組み込まれてしまったモンゴル人たちは、モンゴル人民共和国(外蒙古)として独立した同族を敵として戦うことになった。
 モンゴルの人々にとって、この戦いが「事件」ではすまされない重みを持っていることは明らかである。

「ノモンハン事件」―実態をともなわないこの名称。
「事件」という言葉が『出来事』に過ぎず、「戦争」が『国家間で、互いに自国の意志を相手国に強制するために、武力を用いて争うこと』(岩波書店「国語辞典」)であるとするならば、これは「事件」などではなく、まさしく「戦争」であった。

 ロシア軍事史公文書館での取材を皮切りに、ロシア人やモンゴル人の退役軍人や当時の住民たちへの聞き取り調査(インタビュー)が進められた。そして、それを重ねるたびに、私は幾度となく、同じ過ちをくりかえすことになった。
―「ノモンハン事件」あ、いえ違いましたね、「ハルハ河戦争」についてお聞きしたいのですが・・・。
 いつの間にか自分の中に組み込まれてしまっている「ノモンハン事件」という言葉が、私をあわてさせる。
 「事件」などではない、と理解したつもりでも、言葉として出してしまう自分に苛立つ。
 たかが言葉の問題と軽視することはできないからだ。
 「敗走」を「転進」といい、「敗戦」を「終戦」と呼び、「占領」を「進駐」と言い換えるなかで、私たちはこれまでに、どれだけ現実を直視する思考回路を遮断されてきたことだろう。

苦々しい思いを抱きつつ、取材は続けられた。そして、それは最後まで変わることがなかった。この戦いの呼び方ひとつとっても明らかな日本の虚飾の体質が、取材ノートのページ数に比例して増えてゆくように思われた。
 2000年。ロシアでは、国家の威信回復をうたい「国民が胸を張って誇れる強い国家の再建」を掲げるプーチン大統領が誕生してから、再び、過去の軍事機密文書は重い鉄扉の向こうに閉じられつつあると聞いた。

 わずかな取材期間ではあったが、扉が開かれた一瞬、私たちが垣間見た文書から「ハルハ河戦争」の隠された断片を拾い出して書き留め、ここにつなぎとめておきたいと思う。

 敵味方を問わず、実際の戦場・前線で死んでいった夥しい数の兵隊たちがいる。
 ひとりの人間としての「生」と未来。そして今、直面している自分の「死」の意味すら考えることを断ち切られた戦場での不条理が、彼らの心の内でぶつかりあい発火した時は確実にあったはずである。しかし、国家はその名のもとに、その葛藤すら暴力的に押し潰していった。
 戦争と大量殺戮の世紀、20世紀が終わった、といわれる。
 しかし、その長くおぞましい歴史が残した宿題は、2001年、新世紀を迎えた現在もなお、依然として私たちの目の前に山積みのままである。

 *************

 第一章 断筆 司馬遼太郎のノモンハン へ<続く>。

 

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