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●『考証 ノモンハン事件』・楠裕次
                         ノモンハン事件 楠著作集_1


●『考証 ノモンハン事件』・楠裕次  より、

 第六章 急転直下の停戦協定締結 を続けます。★↑写真は楠氏の著作集です。

 ●日本の戦史に例のない聯隊長級の大きな犠牲
   
●東八百蔵中佐(26) 第23師団捜索隊聯隊長(5月29日 戦死 48歳)

●吉丸清武中佐(26) 戦車第3聯隊長(7月3日 戦死)

●近沢義美大佐(24) 第23師団兵器部長(7月3日 自殺)(詳細は本著179~180頁参照)
●大内 孜大佐(26) 第23師団参謀長(7月4日 戦死 46歳)

●川村質郎大佐(23) 工兵第二四聯隊長(7月7日 戦死)

●安倍克巳大佐(28) 飛行第15戦隊(偵察)長(8月2日 戦死 44歳)注・捕虜となった証言あり、〈詳細後記〉
●森田 徹大佐(23) 歩兵第71聯隊長(8月26日 戦死 49歳)

●染谷義雄中佐(26) ムーリン重砲兵聯隊長(8月26日 自決)

●梅田恭三少佐(35) 野戦重砲兵第1聯隊長代理(8月27日 自決)

●山県武光大佐(25) 歩兵第64聯隊長 (8月29日 自決 46歳)

●伊勢高秀大佐(25) 野砲兵第13聯隊長(8月29日 自決)

●東 宗治中佐(26) 歩兵第71聯隊長代理(8月30日 戦死)
                                 
●酒井美喜雄大佐(23)歩兵第72聯隊長(9月15日 自決)

●井置栄一中佐(28) 第23師団捜索隊聯隊長(9月17日 自決 45歳)

●長谷部理叡大佐(25) 第8国境守備隊第2区隊歩兵隊長(9月20日 自決)

●岡本徳三大佐(25) 第23師団参謀長(昭和15年5月13日、東京第一陸軍病院にて
 加療中、精神錯乱で入院中の米田大佐に刺殺さる 48歳)〈詳細後記〉

 尚、自決、自殺は、記録の上では(公務死)ということになっている。

 **************

★ 詳 細

●安倍克己航空兵大佐の場合 
歩兵第71聯隊第1機関銃中隊、中山一上等兵(の証言)で、第二次(1940年4月27日)捕虜交換で帰還した一人で現在、広島県在住の方が、当時中国新聞御田重宝記者のインタビューに応じた証言の中に、次の個所がある。(『ノモンハン戦―壊滅篇』 徳間当店刊)
「・・チタは刑務所の町です。そこの赤レンガの大きな2階造りの建物に私たちは入れられたのですが、監視つきですし、お互いに話す機会はなかった。何人いてどうしていたのか、実は不明です。あれは紀元二千六百年〈注・昭和15年〉を記念して全員が集まったことがありましたが、その時5、6百人はゆうにいましたね。航空大佐が一番上で少佐が1人いました。尉官は相当数いたように思います、部屋に入るともう隣はなにする人ぞ、で全くわかりません。しかし、私たちのような収容所が他にもあったことは事実ですから、捕虜の総人員は相当数にのぼると思います。」 (以下略)。

 兵科がちがっていても、上等兵の中山が大佐の階級章を見まちがうことは絶対にない。もちろん、その時、中山は安倍克己という姓名は知らなかったかもしれないが、襟章の空色(航空兵)と、大佐の階級章をしっかり見ていたのである。安倍大佐のその後の消息は聞いたことがない。
たしか少将に進級、靖国神社に祀られていることだけはまちがいない。中山一はことし、88歳、福山市内に健在。

●岡本徳三大佐の場合
本書122頁に書いたが、この歩兵第71聯隊の本籍地は岩国で大正14年3月の軍縮で廃止になり、昭和13年に15年ぶりに復活した聯隊である。編成当初からハイラル行きは決まっており、岡本大佐以下3172名がハイラルに着き、第23師団の隷下に入ったのは同年11月初旬であった。
 7月1日夜、決行したハルハ河渡河作戦に失敗、4日朝には撤退部隊を右岸で指揮していた大内師団参謀長が背中に榴散弾が当り即死、師団司令部も四散、手の下しようのない混乱におちいったという。

 渡河後、パインツアガン台地に攻撃をかけた第71聯隊主力の岡本支隊が、渡河撤退し始めたのは5日深夜であった。

 戦死した大内大佐に代り、岡本大佐が師団参謀長に就任したのは7月6日である。その岡本大佐が8月末の激戦のさなか、至近距離からの手榴弾によって右膝を爆砕された。折りよく、師団長の身近にいた師団軍医部長村上徳治軍医大佐が、土砂の降りしきる壕内で、懐中電灯を頼りに岡本大佐の右脚切断の大手術を行い一命はとりとめた。ハイラル陸軍病院に送られ、のち東京牛込若松町の第一陸軍病院へ転送されたが、同病院に精神錯乱で入院中の陸士同期生であった米岡米吉大佐の兇刃により折角とりとめた命を落したのである。

 岡本大佐の悲業の最期は、右(上)のような話が流布されてきたが、今から5年程前、拙著にしばしば登場する北海道の三輪真一さんからの便りの中に、次のくだりがあった。
「・・・戦友Aは重傷で東京第一陸軍病院に入院していたが、ある日、奥様が押す車椅子で庭を散歩している岡本徳三大佐を見かけた。その数日後、狂乱した将校に岡本大佐が殺され、憲兵の警備の中で葬儀が行なわれたのを見ている。しかし本当は、同大佐に生き長らえて真実を語られては困る軍上層部によって刺殺されたと信じている」という内容であった。

●井置栄一中佐の場合 本著213頁に若干ふれたが、官報には同中佐は将軍廟南12キロの地点で戦病死となっていた。昭和14年11月深夜、軍服姿の小松原中将が神戸の井置家を突然訪ね、いく子夫人に「井置君も一緒に東京に帰るつもりでいたが、責任感の強い男で、先きに進んで自決した」と語っている。

夫人宛の井置中佐の手紙には「・・・命令なくして戦線を離脱して帰ったことを師団長に叱られたが、私は武人として決してやましいことはしていない。帰還の暁には戦死した部下の遺族を訪ね歩いて、どんな状況下で戦死したかを報告し、お詫びしなければ戦死した者は成仏できない」
と書いてあり、自ら進んで自決することは考えられないと思うと語っている。(TⅤ西日本『ああ鶴よ、ノモンハン50年目の証言』より)

 事実はどうだったか、師団長は幕僚会議を開かせ「俺の師団が壊滅的打撃を受けたのは、井置中佐がフイ高地を捨てたからだ、無断撤退した罪で井置を処断しなければならぬが、皆の意見を聞きとりたい」と、語りかけた。9月2日付で赴任してきた同師団作戦参謀・扇広少佐(39)は、「それは余りにもむごい。万死に一生を期し得ない戦乱の中からやっと生還した部隊長に対して余りにも気の毒だ、何とか憐憫の情を・・・」と、助命嘆願したが、結局同中佐に自決勧告がなされ、停戦協定成立の当日、ついに井置中佐は自ら生命を断ったのである。
扇広は1986年夏、芙蓉書房出版から『私評ノモンハン』を出版(絶版)その中にこの真実が書かれている。
   <続く>

 

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