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●『考証 ノモンハン事件』・楠裕次
●『考証 ノモンハン事件』・楠裕次  より、
 第六章 急転直下の停戦協定締結 を続けます。

 ●ノモンハンと司馬遼太郎
   
 『静かなノモンハン』(伊藤桂一著・1983年講談社刊)に、著者と司馬遼太郎の対談が載っている。司馬は「・・ぼくがノモンハンを書くとしたら、血管が破裂すると思う」また「・・死ぬまで書くことがないかもしれません。」と発言している。1994年12月6日、陸上自衛隊幹部学校での講演の中で司馬は「ノモンハンは自分の部隊がひどい目に遭ったところですから、なにかしら書き残しておく必要があると思いまして、いまから20年ほど前にずいぶん調べたことがあります。その資料は風呂敷に包まれて、いまはすっかり埃をかぶっています。あまりばかばかしくてこんなものを書いていると精神衛生上悪いと思って書きませんでした。・・」と、話している。
         (『司馬遼太郎が語る日本』週刊朝日7・10増刊号)

 また、半藤一利との対談の中では「・・参謀本部作戦部ないしは関東軍作戦課といった秀才の集まりが、統帥権という化物を利用して、いかに勝手なことをして、悲惨な戦闘で多くの人を殺し国を亡ぼしていったことか、そのいちばんいい典型がノモンハン事件であった。ということなんですね。それを調べつくした。が、調べていけばいくほど空しくなってきましたね」(後略)と話している。(『プレジデント1996年9月号)

司馬遼太郎が、ノモンハン事件を書くだろうという期待の声を各方面からきいたことがある。嘘かまことか知らないが神田の古書店から関係図書を買い占めていった云々と耳にしたものである。
 前述の通り、本人がずいぶん調べた。調べつくしたと言っているのだからまちがいないだろう。しかし、結局、書かなかった。その理由をいろいろ言っているが、私は彼が早い時点で書く気を失なったのではないかと思っている。
 
というのは、私如き素人研究者の耳にも、早々と「東久邇宮捕虜説、宮を取り戻すために慌ただしく停戦協定が結ばれた」はとびこんできている。まして司馬のような有名作家にそれが届かぬはずはない。耳にしているとみるのが自然である。

 彼は、その噂がデマであることを願ったにちがいない。そして、ことがことだけに相当、丹念に調べたと思う。しかし、デマではなかった。本当だった。噂がたんなるデマであったならば彼は徹底的にそのことを書いただろうと思う。それはおまえの独断にすぎないと言われるかもしれないが、私は、そのようにしか思えない。

 「ノモンハンの敗戦からわずか2年で太平洋戦争をやる国です。合理的なきちんと統治能力をもった国なら、そんな愚かなことをやるはずがない。これもまたこの国のかたちのひとつと言えますが、・・ 」と、言っている司馬は、ここで逃げているのである。

 学徒出陣で入隊した関東軍の戦車聯隊が、かつてノモンハンでひどい目に遭った部隊であり、彼はそこで、文字通りばかばかしい、初年兵・幹部候補生教育を受け、短時日ではあったが、下級将校の体験もしている。そうであるならば、なぜ、ただばかばかしい、こんなものを書くのは精神衛生上よくないと、投げたりしないで、とことん書くべきであったと言いたい。やはり「天皇」「大元帥」の幻影がちらつき、それにひるみ、筆を折ったのだと思いたくなる。

 戦後半世紀を経ていても、依然として「近い過去の天皇」の研究はもちろん、天皇に論及すること自体がタブーとなっている。これがこの国の形であることを、いみじくも司馬遼太郎は、ノモンハンを書かなかったことで立証したといったら言い過ぎだろうか。若しも書いていたら文化勲章はなかったにちがいない。

●畑陸相の慨嘆

 『畑俊六日誌』にしても、8月中旬以降、9月初め頃までの間の、ノモンハン関係の記載はゼロである。『沢田回想録』遺稿にある如く、天皇は満軍の動静まで下問しているのである。正に「歴史が動いた」その時(8月23日~9月初旬、独ソ不可侵条約締結、平沼内閣総辞職と阿部内閣成立、第二次世界大戦勃発、ノモンハン作戦中止と関東軍首脳部更迭)。天皇は侍従武官長はじめいわゆる側近を呼び、矢継ぎ早に種々の下問をしたにちがいない。しかし、誰もその辺の事情を書き残した形跡がない。『畑俊六日誌』に、ノモンハンの字が出てくるのは8日である。

全満州や北支から戦闘部隊が続々と集結してきて、ハイラルから将軍廟附近まで、沿道がびっしり部隊で埋まったと何人もの方から聞いたが、作戦中止命令の不可解な命令などにより、一部では依然戦闘がつづいていた一方、前述のような外交交渉に委ねる動きもあり、統帥の乱れや迷いがあったことは事実である。
 
畑俊六大将が陸相となり、その日誌の中に初めて書いたノモンハン関係の記述を次に掲載する。

 9月8日

ノモンハンに於ける第六軍の戦績は頗る不良にして、23Dは支離滅裂となり、軍旗二旗を焼却し、死傷一万を越え、未だ曾てあらざることとなれり。畢竟関東軍が敵の攻勢意図を承知しながら之が対策を放置し、此の如き結果となりたるものにして、殊に多数の死傷者を敵線内に委棄したるは大失態といわざるを得ず。
 依りて植田大将には気の毒ながら責任を執て貰ふこととし参謀本部附けに、参謀谷中将、副長矢野少将も各々参謀本部附となし、作戦主任課長も亦更迭せしめたり。甚以て心苦しき次第なるが致方なし。

「著者私見」

多数の死傷者を敵線内に遺棄したる大失態云々とあるが、畑陸相が戦場掃除さえ許さなかった大命の事実を、知らなかったのではないかと疑いたくなるくだりである。また虫の息の負傷者の存在も認めている点は重大な示唆として受取るべきである。(日誌のつづきは後章で援用)

●日本の戦史に例のない、聯隊長級の大きな犠牲

 日本の敗戦の年、約200個師団、約600万の将兵を擁した巨大な戦力集団であった日本陸軍が、その頂点に立つ大元帥・天皇の命令一下、あのように簡単に、(これに異論があったとしても・・)敵前で武装解除し(され)、米・英・ソ・中国らの軍門に降り、73年間の歴史を閉じてか
ら半世紀以上過ぎた。

 あの当時、その一員であった者で、「わが国の軍隊」が、まさかあの様なことになることを予見できた者が、果して何人いただろうか、時折そんなことをふと思うことがある。
たとえ、短時日であれ、あの軍服を着て三八式小銃をかつぎ、別世界の兵営生活なり、野戦を体験したものなら、日本陸軍の特異性(狂気じみていた)を垣間見て識っており、仲々忘れるものではないと思う。

 中隊長(中尉・大尉)は、身近な存在だったが、大隊長(大尉・少佐)ともなると、ごくたまにしか見ることはなかった。聯隊長(中佐・大佐)となると、正に雲の上の人、それこそ年間、数えるくらいしか見ることはなかった。

 兵科(歩兵・砲兵・工兵・騎兵・輺重兵・航空兵ほか)によって異るし、年代によっても違うが、何科であれ、一個の聯隊の長、その存在の〈大きさ〉は、俗にゆう皮膚体験がないと、ちょっと想像つかないかもしれない。その聯隊長クラスの高級指揮官(高級将校)が、ノモンハン事件では、僅か3ヵ月ほどの戦闘の中で、大勢、生命をおとしているのである。15年戦争、全体を通してみても、この現象は、際立っている。次にその方達を列記してみる。
  続く。

 
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