カウンター 読書日記 ●『考証 ノモンハン事件』
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●『考証 ノモンハン事件』
 第六章 急転直下の停戦協定締結 を続けます。

 ●私(著者:楠)の考察

 『参謀次長沢田茂回想録』の編者・森松俊夫は、「第二章の遺稿は、史料として正確を期するため、原文のままとした。」(後略)また、同著の序に、沢田茂自身が次のように書いている。
 「・・手元にある資料としては「上奏控」と「仏印進駐記」とがあるだけである。前者は私自身が上奏申し上げた後に、ちょっとメモしておいたもので、全体を網羅していない。」(後略)つまり史料価値は高い。充分信頼に足るものであるといってよいだろう。

 さて、東久邇若宮とは、本著201~202頁記載の東久邇宮盛厚中尉のことで、東久邇宮稔彦大将の長男である。この時、24歳、天皇の長女、照宮成子と婚約しており、当時は直宮(じきみや)といって天皇の子息並みの扱いであった。

 金枝玉葉(天子の一門、親族)の若宮が、こともあろうに苦力(クーリー)つまり最下層の中国人労働者に化けて逃げたという噂を、天皇は誰から聞いたのだろうか。侍従武官長が答えた通り、本当に全くのデマだったのだろうか。私はそうは思えない。

 当時、陸軍の最高の地位にあった沢田参謀次長が、このような重大なことを態々、書き遺したのには、何か深い理由があったに相違ないと思うのが自然である。前述の通り史料的価値は大きいといえる。

 唯、沢田茂が、その一部始終を書いていないし、蓮沼侍従武官長が、デマですと上奏したのに対し、天皇が納得したのかどうか全く不明である。しかし、停戦協定に秘密工作があり、東久邇宮様から大変感謝されていた云々の、山崎倫子の記述は何を意味するか、逐一書く必要のない真実がそこには語られているとみてよいと思う。

 戦場掃除さえ許さなかった「大命」。関東軍上層ぶはこの大命に対して正に悲憤慷慨し、切歯扼腕したにちがいない。しかも、その背景に右の様な事情が存在していたことは察知していたと思われる。唯、事情が事情だけに絶対に秘密を漏らすことは許されず、手も足も出せないままの状況下で、更迭、転属ということになったのではないだろうか。

 <参考>

 ★無形戦力思想関係資料第五号★

 関東軍二対スル「ソ」聯邦ノ思想謀略及其ノ影響
 昭和十五年九月 大本営陸軍部研究班
       (『日本車思想・検閲関係資料』より)
 第三「ソ」聯ノ思想謀略ガ我ガ将兵ノ思想二及セル影響 二の(3)捕虜二及セル影響
 のなかに九項目がある。
 その四番・六番目の記述に注目したい。 


 ★ ○○○ノ生キテヰル間ハ我々モ死ヌ必要ナク生還ヲ恥ズル要ナシ
   我々ヲ楯トシ身ヲ以テ逃レタノハ彼ダ

 ★ ○○○ハ海拉爾二逃避セシトノコトナルガ多数ノ部下ヲ殺シテオイテ
   オメオメ生キテ居ラレナイダロウ(ほかの七項目は別に掲載する) 


 右(上)の○○○は同一人物か否か判らない。前者の○○○は、東久邇か東中尉か。何れにせよ私(著者)は捕虜となって捕虜交換で帰還してきた多分将校の言であることを勘案したとき、○○○は東久邇を指しているのでないかと思う。後者も東久邇かも知れない。

 ●東久邇宮中隊が落す影・・・
 A・D・クックスの『ノモンハン(下)』刊末に、ノモンハン事件主要参加部隊幹部一覧がある。初見以来、野戦重砲兵第一聯隊の幹部一覧に若干、訝しく思えることがあった。それは第一大隊第二中隊には、中隊長山崎昌来大尉、同(代)窪田次郎少尉、小隊長芦浦一少尉、同木村貫一少尉の四名があり、皆、戦死の×が付いている。ところが第一中隊には、中隊長 中尉 東久邇宮盛厚王(49)8.1転出 第一中隊長 大尉 上屋正一(47)のみで、それ以外の小隊長・幹部名が記述されていないことが気になっていた。

 数年前、同聯隊下級将校だった方から、同聯隊(三島部隊)戦役者名簿をいただき、謎の一端が解けた。前著の幹部一覧では、戦没した将校は前述の4名を含めて9名(うち1名不明)であるが名簿には、そのほかに、中佐、少佐、大尉各一名、中尉5名、少尉7名、計15名が掲戟されていた。7名の少尉は多分、准尉及び見習士官で戦死後、少尉に進級したものと思われ、前出の窪田、芦浦、木村の3少尉は名簿では中尉になっている。

 それはともかく、A・D・クックス博士が野戦重砲兵第一聯隊関係者を取材していることは彼の本をみれば判るが、前述の様な幹部の存在を掌握できなかったことは、何かわからないがそれなりの理由があってのことだったろうと察知がつく。例えば東久邇中尉の後任者、土屋正一大尉から引出した証言も、なぜか歯切れがわるく要領を得ない記述になっていることを指摘できる。

 推測の域を脱しないが、野重一の第一中隊に関して言えば、その全貌を知っている人物が存在しないのかもしれないし、或いは存在していたとしても、65年も前の事件であり、悽惨な場面や口が裂けても口外できないようなある秘密を胸中に抱えこんでいるのではないかと思われる。それはあたかもフランキー堺の『私は貝になりたい』を彷彿させるものを感じとることができるからである。

     続く。

 

スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/422-9f314040



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。