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●『考証 ノモンハン事件』
 
  『考証・ノモンハン事件』  楠裕次

 第六章 急転直下の停戦協定締結 
より。 
 
 ************

●停戦協定に秘密工作があった・・・
 山崎倫子著『回想のハルビン』―ある女医の激動の記録(牧羊社 1993年2月25日初版発行)の28頁に次の件(くだり)がある。

 ・・・「かつて父(注・寺村銓太郎)は、ノモンハン事件の折、やはり秘密工作として、ドイツのオットー大使を介し、元・在ドイツ日本大使館駐在海軍武官・服部豊彦大佐、駐日ドイツ大使館外交官らと共にスターリンエ作をしている。ノモンハン事件の終結に大きく係わっていると、知るところでは知られていたのである。後日、三人の友よりとドイツ大使館から素晴らしく重い、純銀製のタバコ入れが送られてきた。昔のことで名前は失念したが、署名が刻みこんであった。その記録の一部は東久邇宮家に一部、服部豊彦氏宅と寺村家に各二部残されていたのが、五十年も昔のこと、寺村家のものは満州で失い、他については不明である。父はノモンハン事件停戦に一役かったことを終生誇りにしていた」(後略)。

山崎倫子は、国連総会政府代表代理、日本ユネスコ国内委員等、多くの要職につき、日本女医会会長をつとめ、現在は名誉会長である。

 先生は私信の中で「事件を休戦に導いたことで、東久邇宮様から大変感謝されていた」また、「三人の刻字が誰だったか思い出せません。お一人はオット、あと二人ははっきり覚えがありません。ひとりはリッベントロップだったかもしれません。シガレットケースは、20cmx19cm、厚さが8cmほどの大きさで重たい銀製で、煙草が四段か五段重なる程の厚さがあった。父の為に持ち帰れなくて本当に残念でした」。(後略)と書いて来られた。

 東久邇宮様とは、昭和天皇の親族、東久邇宮稔彦・陸軍大将のことである。どうして当時、皇族の中でも目立つ存在で軍事参議官の大物が、ここに登場するのか追々、推理を働かせていくことにする。

●『一皇族の戦争日記』(日本週報社 1957年12月刊)の1943(昭和18)年4月25日に、日記の主、東久邇宮稔彦は次の通り記している。
「午後三時、緒方竹虎、ハルピン国際ホテル社長、寺村詮太郎と来る。寺村はオットー駐日大使ときわめて懇意で、ドイツの内情をよく知っておりノモンハン事件の時、ドイツをしてソ連に働きかけ、日ソ休戦協定を成立せしめたことにつき、蔭で尽力したものである。」(後略)と、認めている。山崎倫子の証言と全く符号する。
 (注・猪方竹虎は当時、朝日新聞社専務(事実上トップ)、戦後、政治家・国務大臣ほか歴任、1956年没・68歳)。東久邇宮稔彦は敗戦直後、皇族として初の首相に就任し、降伏文書調印、軍隊解散等の終戦処理に当り、一億総ざんげ論を唱えたが、占領軍の民主化政策に対応できず、2ヶ月で総辞職した。47年皇族離脱、のち新興宗教の教祖に祭りあげられたり、話題をまいたが90年1月、102歳で他界した。彼の二著は史料価値が高いと評価されている。

●「攻撃中止の大命」の疑念

 既刊の夥しい数のノモンハン関係図書のどれをみても、停戦協定に秘密工作があったことなど一言も書いてない。しかし、9月初めの数日間の一連の慌ただしい動向(本著の238~244頁参照)をみると、俯に落ちない何か隠しごとが存在したのではないかと疑念を抱かせるものを痛感し、払拭できない。

 軍事的には、数個師団の増援を得て大反撃に転じようとしていた矢先、しかも軍のトップに位置する参謀次長が、関東軍司令部を訪ねている最中、突然に下った「攻撃中止の大命」。しかも車司令官以下全幕僚が揃って己れの首を懸けてまでして許諾の上奏をした〈戦場掃除〉さえも許さなかった。この「大命」を下したのは、陸軍中央の誰彼でないことはたしかである。

 それでは一体誰が・・・と考えたとき、それは大元帥、本人のほかにいないことに気づいた。もちろん、推測の域を脱しないが、前述の「停戦協定に秘密工作」の事実を含め、次に綴るいくつかの事例や証言を総括的に考察すると、その推測が成り立ち、信憑性を帯びてくるのである。

●最初、耳にした東久運営捕虜説

 約10年前甲府へ講演に来られた、元防衛庁防衛研修所第一研究室長(1973年~80年)で軍事評論家の前田寿夫氏と出会い、最初の拙著を贈呈したところ、同氏は帰りの電車の中で読了したと前書きして大変賞めてくれた。その手紙の中に、次の一節があった。 「・・・東久邇がソ連側につかまったので、日本側は急いで停戦協定に応じ、東久邇は捕虜交換で帰された・・・という噂は、その当時、小生(大学1年)ですら耳にしました。・・・世事にうとい学生にさえ聞こえた噂に、全く根拠がないとも想えないのです」と。囚みに前田氏は1919年生れ、東京商科大(現一橋大)卒である。
 ここに出てくる東久邇とは、本書201~202頁に出ている東久邇盛厚中尉であり、東久邇稔彦大将の長男である。(後段で詳述)

●その他の東久邇捕虜説

 (そのI)「東久邇殿下の捕虜説は、やはり当時、私ども(幼年学校最上級でこの年昭和14年11月に繰上げ卒業して陸士に進学)の耳にも入りましたので、おそらく推測通りの事実の可能性が濃厚と思われます。・・」は、旧知(ハルピン香坊の鉄道聯隊当時の上官、陸士56期)の青柳悌彦氏
(埼玉県)の書状の一部である。

 (その二)「・・・戦線はソ連軍の思いのままの状態になり草原は日本兵の死体で埋まってしまったのである。死体のなかに隠れて生き残った兵隊もいた。又、ソ連兵は死体の時計をとり、肩章の上級将校には再度銃剣で差し止め(ママ)する。辻参謀は戦線不利となり逸早く逃走し、指揮者は次から次とかわり、残された兵隊はただ肉弾で戦うしか方法のない悲惨な結果の連続であった。
 9月15日:ノロ高地で終戦ラッパが鳴り響き、漸く終戦となったのである。当時、仄聞するところによれば、皇室関係の方が捕虜になり、驚いた日本が東郷ロシア大使にヒットラー大統領(ママ)の仲介を依頼し漸く停戦に漕ぎつけたとの情報が流れていた。国境不明の平原に、原因不明なまま玉砕を余儀なくさせられ、一体誰の責任か未だに解明されないままである。」(傍点は引用者) これは吉田博著『私の戦中記録』の中の一節である。著者の吉田氏は歩兵第71聯隊第2大隊第6中隊所属の主計下士官であった。(島根県、2003年1月、91歳で死去)

 (その三)「私たちチャムスの騎兵聯隊からも3年兵が、ノモンハンに出動しています。皇族の○○宮とかが捕虜になったので急に停戦協定ができ、戦闘しなくて済み、帰隊できたと話してました。私はシベリア抑留中、同僚がノモンハンの日本兵捕虜と会った話は何回も聞いています。」は、私とある時期、同じラーゲルにいた元曹長、伊藤鉄太郎氏(秋田県)の書状の中にあった。
 (その四)「父・森良二は○年前死去、ノモンハン参戦者。話によれば甘粕大尉に会ったそうです。彼は『国には帰らん』といったそうです。(中略)札幌月寒第25連隊の上等兵でした。(略)                 第26連隊長・須見大佐の処分とか、皇族の砲兵将校とひきかえになった兵隊はほとんど帰ってこなかったでしょう。事件の停戦の時、大隊長が撃つなと歩いてたところ、陸士出の少尉が一発、連隊砲を撃ったら、バラバラきて、この少尉を大隊長が血だらけになるまでブンなぐったそうです。(略)26連隊より25連隊の方が生存者が多いと思います。(略)」(北海道河東郡 匿名希望)

これは、篠宮喜代四著『ノモンハン1990年―空白の50年』1990年3月・にんげん社刊)の〈遺族の想いはるか〉の中にあった証言の一つである。篠宮氏は、この前年『モンゴルー1939・幻の日本兵』を上梓している。映像ジャーナリストの彼が鋭くしかも精力的に現地取材して制作した2著は、その未公開写真とともに、得がたい生々しいノモンハン記である。

●参謀次長の遺稿の中に重大証言

 『参謀次長・沢田茂回想録』(芙蓉書房:98年8月1日第一刷発行)の第二章=遺稿に、参謀次長・沢田茂上奏控〔機密〕がある。
 昭和14年10月○日
一、二、略

三、ノモンハン方面停戦実施概ネ順調二進捗中ノ件
 上: 満軍死傷者俘虜ヲ返還シ来リシヤ
 奏: 満軍投降者ハエミグラントト称シテ返還シ来リマセン 其の他ニツキマシテハ調査ノ上申シ上ケマス(中略)

10月20日
8月下旬二於ケルノモンハン付近ト戦況上奏
 上: 満軍ノ野戦軍トシテノ価値如何
 奏: 今回叛乱投降致シマシタ部隊ニハ相当短期教育ノモノカアリマシタ 今後専ラ質ヲ向上シ  数ヲ少ナク致シマスレハ 戦場二於テー部ノ任務ヲ負担シ得ルト考ヘマス
 

 (裕仁は)侍従武官長二対シ

  東久邇宮・若宮力「苦力」(クーリー)二化ケテ逃ケタト云フ噂ヲ聞キタルカ真相如何

  右二関シ10月23日侍従武官長ヲ経テ 同殿下ハ7月23日ヨリノ戦闘テ 
  勇敢二御奮戦ノノチ
  
  命令ニヨリ 8月1日飛行機ヲ以テ海拉爾二御帰還 次テ阿城砲兵隊二御帰隊
  遊ハサレタリ
 
  只7月23日以降ノ戦闘二於テ 御附属官負傷シ 海技爾病院二収容セラレタルコト
  アルモ 上意ノ如キハ 全然根拠ナキ「デマ」ナルコトヲ 上奏ス 


 ****************

 蛇足ながら、★上=裕仁、 奏=沢田茂・参謀次長です。

  (続く)。

 

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