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●松浦総三の著作
 前に、<●原爆投下の謎に迫る>で
 『日本のいちばん醜い日』( 鬼塚英明 成甲書房 2007.8.5 )から
 紹介したが、度々引用されていたのがこの松浦総三の著作だった。

 そのなかの一冊『天皇裕仁と東京大空襲』(1994年3月1日 大月書店)
 からの紹介です。
 **********
 


●第五章~(4) ヤミ聖断と七三一部隊

 前々項のタイトルを「焼跡行幸は裕仁の聖断」という中見出をつけた。もうすこし「聖断」にこだわってみたい。

 松本清張は、「満州某重大事件」と二・二六事件と八・一四の聖断を「三聖断」と呼んでいる。しかし1945年3月10日朝、裕仁が一人できめた焼跡行幸をヤミ「聖断」とすれば、無数のヤミ「聖断」があったことに気がつく。

 敗戦後でいえば、裕仁がマッカーサー元帥に会いにいったのは「聖断」であり、「人間宣言」や寺崎英成からGHQのシーボルト外交部長に渡された「沖縄メッセージ」(47年)も「聖断」である。戦前・戦中にはヤミ「聖断」は沢山あったはずである。
 二・二六事件後の3月9日、広田弘毅内閣が成立した。元老西園寺公望は、近衛文麿を切札として推薦しようとしたが、近衛がこれを病気を理由に拒否したため、広田内閣ということになった。裕仁は、広田にこう言った。
「第1に、憲法の規定を遵守して政治をおこなうこと」
「第2に、外交において無理をして無用の摩擦を起すことのないように」
「第3に、財界に急激な変動を与えることのないように」
 
この3ヵ条は、歴代の首相に裕仁が与えるもの。広田にたいしては、裕仁はもう一言つけ加えた。
「第4 名門を崩すことのないように」。名門というのは維新以来の何らかの意味で天皇家や華族と関係にある人びとであろう。貧しい東北の農民を見るにしのびず決起した将校のほうをむくなということである。
 
この4ヵ条は、1936年3月ごろの裕仁が財界と「名門」を基盤としていることを物語って興味ぶかい。二・二六事件の将校たちは、この財界と「名門」を強襲して、裕仁を恐怖におとしいれたのである。広田が閣僚に吉田茂(外相)、川崎卓吉(内相)小原直(法相)、下村海南、中島知久平を入れようとすると、軍部からたちまち横槍が入った。

広田内閣がスタート。予算編成期も近いある日、広田は裕仁によばれて宮中へでかけた。
 裕仁は「大元帥としての立場からいうのだが」と前置きして、陸海軍の予算額をいって「議会で審議して決めるように」と言った。大元帥・元首裕仁の命令であった。
その結果、馬場一蔵相によって組まれた1937年度子算は、前年度予算を3割(七億円)も上まわる膨張予算(34億4000万円)とハネ上った。この巨額をまかなうために「税制史上画期的といわれた6億円の大増税と8億円の公債発行を行った。直接軍事費だけで、全歳出の43%に達したのに対して、国民生活安定費は、1.6%にすぎなかった」(林茂・『大平洋戦争』中央公論版一日本の歴史』)。林茂も筆者の世代である。

 右の裕仁の広田弘毅への命令は、入念に取材された城山三郎『落日燃ゆ』によった。馬場インフレ蔵相は国民の怨嵯の的になった。若い筆者の卒論は「馬場財政とインフレーション」だった。このインフレの元凶は裕仁だったのである。

なぜこんなことを書くのかといえば、裕仁は近衛らと対話するときは、「同族意識」をもち「君臣水魚之交」である。天機は美わしい。だが、石屋の息子にすぎない広田弘毅のような男にたいする時は、一転して冷酷な軍事専制君主の本性をあらわす。

 それだけに、裕仁と近衛で話すときは、国民にまったく知られたくない「オレとオマエ」だけの話がある。近衛上奏文には、裕仁や近衛たちが、いかに国民を軽蔑し食いものにしていたかが、よくあらわれている。

 裕仁が、広田首相に命令したのはヤミ「聖断」である。だが、話はもう一つあるのである。
 裕仁が広田首相に厖大な予算の増額を「命令」したのは、1936年春で、このときは盧溝僑事件の1年以上も前のことである。この大予算は、何に使用されたのか。
 
エドワード・ベアは、つぎのように書いている。

 1936年度の莫大な軍事予算の中には、天皇(裕仁)の命令をうけてその年に設立された、得体の知れない「関東軍防疫給水部本部にあてられたものもあった。この組織は、実際には1933年以来小規模ながら存在していたが、日中戦争-占領部隊内でのコレラの流行-を契機に完全に独立した部隊となり、最終的に海外に駐留する全部隊に班を配属させるまでになった。別名。七三一部隊として知られるこの部隊の隊員たちは、天皇の直属であることを大変誇りとしており、勅令により組織された陸軍唯一の部隊であると吹聴していた。いうまでもなく議会は。七三一部隊にあてられた巨額な予算の用途の詳細は知らなかった。この。七三一部隊は、日本の大戦直前の歴史における最も陰惨な部分であろう(中略)・・・
1985年にイギリスのTVが製作し、論議をかもしたドキュメンタリー『天皇は知っていたか」という番組で。七三一部隊の元隊員は語った。
 「石井中将はこの“細菌兵器”で日本が世界を制覇できると考えていたようです“(E・ベア『裕仁天皇』)

 E・ベアは君主制の研究者で映画「ラストエンペラー」の作者である。さて、60何年か昔、筆者は学生のとき「馬場財政とインフレーション」なる雑文を書いて、珍らしくも「優」をもらったことを覚えている。が、そのときの疑問は、まだ戦争が始っていないのに、なぜ莫大な予算を組んだかということであった。盧溝橋事件の一年以上まえのことだから、そう考えざるをえなかった。しかし、E・ベアの『裕仁天皇』は、筆者の疑問をようやく解いてくれた。

 1936年の軍事予算の莫大な増額は。七三一部隊に使われていたとすれば、裕仁は広田首相にたいして「命令」するわけである。『昭和天皇独白録』によると、8・14と二・二六事件だけが「聖断」であとは立憲君主として、通したという。しかし、この言い方は、焼跡行幸や。“七三一部隊”予算のきまり方をみるかぎり、まったくのインチキといわねばならぬ。裕仁は第七三一部隊の大陸命ヘ署名したと資料にある。もっと明白な資料はハバロフスク裁判で関東軍軍医部長・梶野隆二の証言がある。
「1939年の裕仁天皇の秘密命令により39~40年第七三一部隊の再編成がおこなわれた。しはこの軍令を40年2月頃、関東軍司令部で閲覧し、これに、捺印した」(田中尚伸『ドキュメント昭和天皇』緑風出版)。

 (4) ヤミ聖断と七三一部隊 完 
 


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