カウンター 読書日記 ●『杉山茂丸伝』ー(14)
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●『杉山茂丸伝』ー(14)
 第六章 第二維新準備

 ●暗殺された原敬

 
 東京駅の改札近くの壁面に「原首相遭難現場」と記されたパネルがあり、足もとに一つだけ濃い色のタイルがはめ込まれている。そこが大正10(1921)年11月4日に原敬が刺殺された場所だった。

 原は京都で開かれる政友会京都支部大会に出発のため改札口に向かう途中で刃渡り5寸の短刀で襲われた。その場に倒れた原は駅長室に運ばれたが既に絶命。犯人は19歳の大塚駅の転轍手である中岡艮一(こんいち)だった。
 
原は藩閥に属さない日本初の政党政治家で、原の担ぎ出しに奔走した杉山茂丸は、当然ながら原内閣の成立を喜んでいた。そんな茂丸が、3年後の原の暗殺事件にも一枚かんでいたとすれば、これほど不思議な話もない。実は、茂丸と原の確執は早くも原内閣の成立直後からはじまっていた。原は政党主義者で、自分は天皇主義者だったために意見が合わず、遂に自分の意見は原に採用されることはなかったと茂丸は『俗戦国策』で語っている。茂丸は暗殺事件の前日にも原に面会を求めたが冷たく断られていた。その日、博多湾築港を視察するために田中義一と八代六郎とともに九州へ向かう予定になっていたので、「ここで少し心意の方針を改めねば、直ちに打殺されてしまうぞ」と言い残して、茂丸は田中や八代たちと汽車で九州に旅立った。原の暗殺を知らせる訃報が届いたのは、翌日、博多の常盤館で3人で酒を飲んでいたときである[*注]。事件を予見しながら博多に来たと疑われると困るから明朝には東京に戻るうと、茂丸は2人に伝えた。

 彼らは帰途の列車内で、犯人は9月28日に起きた朝日平吾による安田善次郎の刺殺事件に影響を受けた中岡艮一であることを知った。朝日が内田良平と関係があったのと同様、中岡の背後にも頭山満や内田と関係の深い五百木良三(いおぎりょうぞう)がいた。しかし茂丸は無関係を装った。中岡の原刺殺の動機は幾つかあったが、主なものは満鉄事件と尼港問題だったといわれる。前者は原の出身母体であった政友会の幹事長、森恪が経営する満洲の炭鉱を不当高値で満鉄に売りつけ、政友会の政治資金にした事件だった。両者の売買の仲立ちをしたのが原の推挙で満鉄副社長となった中西清一(前逓信次官)だったため、中岡は原への悪感を募らせたのだ。一方、後者は大正9年3月にシベリアのニコライエフスク(尼港)で出兵中の日本軍民600名以上がソ連のパルチザンによって虐殺され、このとき原が無責任な態度を見せたことについての不満であった。おそらくホルワット政権樹立を望んでいた茂丸も、後者の出来事には憤懣やるかたない思いを感じたに違いない。それにしても興味深いのは、暗殺事件の半年以上も前(大正10年2月)に、原が自らの暗殺を予見した遺書を書いていたことである。
  
*注 頭山満と同様、茂丸も酒を飲まなかったと伝えられるが、『俗戦国策』(「寺内・原・加藤」)では「三人で酒を飲んで居た」と自ら記している。また、友人の下村海南も茂丸没後に以下のような回想文を書いている。「庵主(茂丸)はいんぎんに下座からあいさつを申し上げると、汐時を見はからってノソリノソリと床の間近くへ乗り出す。
〈オイ後藤〔田中〕 一杯もらおうか〉とばかりドッコイショとエンコして、四本半になった指先をぐっとさしだす」(『東京朝日新聞』「杉山茂丸翁〔中〕」昭和10年7月28日号)

後藤は後藤新平、田中は田中義一のことであるが、これらのことから茂丸が酒を飲めなかったのではなかったことがわかる。一方、毒殺方法を知る革命家の護身術として有名なのが酒を飲まないことであった。茂丸も、その辺りの事情から人前で飲酒しなかったのかもしれない。なお、第四章「〈凱旋釜〉の石碑」で示したように、暗殺説があった児玉源太郎の死も、飲酒後の出来事であった。

 ●暗殺された原敬 了。
 

 
  ★原敬といえば茂丸よりも山県との確執が私などには印象深い。

 <参考>までに、あまりにも有名な「原敬日記」の一節を引用しておく

 明治41年  6月23日
  ・・・尚ほ本日参内し、親しく(徳大寺)侍従長と内談せしに。同人の内話によれば、山県が陛下に社会党取締の不完全なることを奏上せしに因り、陛下に於かせられてもご心配あり。何とか特別に厳重なる取締もありたきものなりとの思召もありたり。
  ・・・徳大寺も山県の処置を非難する語気あり。徳大寺の如き温厚なる人の口より此の如き言を聞くは意外なりき。・・・
 ★ 山県の陰険なること今更驚くにも足らざれども、畢竟現内閣を動かさんと欲して成功せざるに煩悶し、この奸手段に出でたるならん。其の癖余が一日大磯に赴くとき新橋より大磯まで同車し絶えず談話をなしたるに、一言も政事談をなさず、無論社会党に言及せず、彼の性行は常に斯くの如くなり。
   
 ************

 その他、メモ。(何れもウイキペディアより)

 山縣自身は生涯「自分は松陰先生門下である」と称し誇りにしていたが、現存する資料から山縣の在塾期間が極めて短かったことが判明しており、実際に松陰からどの程度の薫陶を受けたかは不明である。なお、松陰の文章における山縣の初出は、安政4年(1857年)9月26日付の岸御園宛書簡である。同書簡中、「有朋の如何なる人たるかを知らず」とその人物を岸に照会していることからも、来塾前の山縣が松陰と一面識もなかったことを知ることが出来る。

 その死に際しては、当時、新聞記者だった石橋湛山(後の首相)は山縣の死を「死もまた、社会奉仕」と評した。また、別の新聞では「民抜きの国葬」と揶揄された。

 皇室でも不人気だったらしく、明治天皇は山縣に「キリギリス」というあだ名をつけていた。明治天皇は、陰険な山縣よりも、明朗快活で冷静であった伊藤博文を信頼していた。また、大正天皇は、山縣が宮中に参内したとの知らせを聞くと、側近達に「何か、山縣にくれてやるものはないか?」と、尋ねることがしばしばであったという。言うまでもなく、何か参内の記念になるものをやって、さっさと帰らせようとしたのである。

 また山縣がもつ異常なほどの権力への執心、★勲章好きについて原敬は「あれは足軽だからだ」という一言で述べ、軽蔑の意を込めていた。

 加えて長州閥の代表格であったことから、戊辰戦争で敵対した旧幕諸藩の出身者からも評判が悪かった。明治期を通じて会津藩や南部藩出身者などを「朝敵風情が」と見下し、会津松平家出身の秩父宮勢津子妃の婚姻に反対するなど様々な妨害工作を行った。理不尽な仕打ちを受けた事による薩長閥への恨みは、負の遺産となって会津若松市民の山口県出身者へのわだかまりとして現在も残ってしまっている。

  第六章 第二維新の準備

 ●大杉栄と伊藤野枝


 佐賀県との県境近く、福岡市早良区内野の山間部に浄土真宗の西光寺がある。この寺には鐘楼の前に大杉栄と伊藤野枝の墓石が据えられていたが、二人の娘の伊藤ルイさんが人目につかない所に移し、既にルイさんも他界し、墓石がどこに移ったか不明となった。

 関東大震災は当時の新聞が伝えたように日露戦争を上回る死者を出した。それには震災直後に広まった朝鮮人暴動を煽動した咎で殺害された大杉栄と愛人の伊藤野枝まで含まれていた。アナーキストの大杉は大正12(1923)年9月16日の夜、麹町憲兵隊長の甘粕正彦大尉によって野枝と甥の橘宗一と共に殺害された。しかしそれより一週間前の9月9日に、東京から戻った久留米市議の岡本三郎が記者に対して大杉が日暮里駅で暗殺されたと語っていた。もちろん誤報だが、このエピソードは大杉暗殺の噂が事前に流れていたことを意味していた。しかも殺される直前まで、杉山茂丸と奇妙な行き来を大杉はくり返した。
 
 『大杉栄自叙伝』(「お化けを見た話」)が語るところでは、大正5年10月初旬頃に野枝が遠緑筋にあたる頭山満の所へ借金の申し込みに出向いたとき、頭山が玄洋社の金庫番の茂丸を紹介したことに二人の出会いは始まったということだ。彼女は茂丸のいる台華社に赴くが、話を聞くうちに茂丸は大杉本人に会いたくなり、大杉を呼び出す。そして参上した大杉に向かって、国家社会主義者になれば金は出してやるといった。樽井藤吉や山路愛山のようになれば良いと思っていたようだが、大杉は無視して台華社を出ると、会話中に茂丸が口にしていた後藤新平のところを訪ね、政府が自分たちを迫害するから金が無いとまくし立て、資金援助を仰いだ。大杉が要求したのは3、4、百円程で、後藤は要求をのみ、二人だけの秘密事項と釘を刺して金を出す。この金は今でいうところの機密費で、後藤からいえばアナーキストたちの地下情報を機密費で買ったことを意味した。

 一方、陸軍士官学校出身の末松太平(明治38年生まれ、2・26事件に連座入獄)は、茂丸の書生から戦後になって興味深い話を聞いたそうだ。茂丸主催の朝食会に大杉が度々顔を出し、フランス語の堪能な大杉からフランスの情報を入手し、それを茂丸が軍部の中枢に流していたというのである(「対談・右翼と左翼のあいだ」『第三文明』1977年8月号)。

 茂丸は震災直後に『黒白』をガリ版刷りで復刊した(12月号)が、その中でも甘粕の大杉殺害の行為について、誰も非難できないと遠回しに擁護している。同時にまた、「黒白評論」と題する本文では、街が破壊されたのを良いことに、新たな都市構想計画を提唱している。実際、震災から2カ月を経た11月22日に、茂丸はハワイホノルル在住のデリングハムの代理人C・F・クライと「東京湾築港契約」を結んだ。全部で10条からなる契約書で、末尾に茂丸とクライのサインが入っている正式な書類である
 大杉栄と伊藤野枝 了。 


 以上で『杉山茂丸伝』の紹介を終わります。
 

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