カウンター 読書日記 ●『杉山茂丸伝』ー(12)
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●『杉山茂丸伝』ー(12)
 『杉山茂丸伝』に戻って続けます。
 
 ●韓国統監になった伊藤博文


 日露戦争に勝った日本は、ポーツマス条約に基き、第二次日韓協約を締結した。明治38(1905)年11月のことである。これにより伊藤博文が韓国統監に任じられ、以後、ハルビンで暗殺される少し前の明治42年6月まで約3年半、その職を担った。
 しかし赴任に際して、伊藤は治安の悪い半島での生活を憂慮していた。そこで浪人壮士に顔の利く杉山茂丸に相談を持ちかけたのである。この部分を「日韓合併思ひ出話」(『近世快人伝』)から読みとくと、茂丸は、「それには持ってこいの人物がおります」といって内田良平を伊藤に紹介したという。そして一方の内田には、伊藤が朝鮮に赴任するに際して同行して不平分子を抑えてくれと伝えた。もちろんそれだけで内田が納得するはずがないので、用心棒は表向きで、日頃の憂さ晴らしを朝鮮でしてくれば良いと耳打ちした。やがて伊藤の使いの栗野慎一郎(日露戦争当時の駐露公使)が内田のところに来て、随行の意志を確かめた末に内田の渡韓が決まる。明治39年2月21日に内田は東京を発ち、大阪で伊藤一行に加わり、宮島参詣と呉鎮守府の視察を終えると下関経由で釜山に渡り、3月2日に統監府のある漢城(ソウル)に着いた。

 内田がそこで目にしたのは、統監府の設置により反日運動が起きていた現実だった。そんな矢先、東学党から発展した一進会が内田に助けを求めてきた。投獄中の宋秉峻を助けてくれというのだ。宋の投獄の理由はこうだった。

 かつて金玉均を暗殺した李逸植(第二章参照)が日露戦争においてロシアに協力したものの、ロシアが日本に敗れてからは立場が急落し、政敵の宋秉峻に救済を求めたのだ。ところが意外にも宋が快く承諾したことで逆に宋自身が投獄の憂き目にあう。そこで一進会の運営に困った李容九が、内田に助けを求めてきたのだ。このとき李は、樽井藤吉の『大東合邦論』の教えに従い、一進会を通じて日韓合邦(日韓併合)に努力することを内田と約束した。

 内田は宋を助け出し、以後は一進会を指導しながら日韓合邦(日韓併合)を進めてゆく。それは大きく三段階に分かれていた。第一が日露戦争中の明治37年8月に締結された第一次日韓協約。第二が日露戦後の明治38年11月に締結され、伊藤が統監に就任することになる第二次日韓協約。そして第三が明治40年7月に締結された第三次日韓協約。

 この第三次日韓協約の直前である明治40年3月2日に釜山から戻った茂丸が、伊藤博文と芳川顕正と後藤新平を東京築地の新喜楽に招いて朝鮮問題に関する話合いを持った。釜山港の第二期埋立工事が明治39年10月から始まっていたこともあり(第三章参照)、朝鮮と日本の間を頻繁に行き来していたときである。その後も茂丸は伊藤博文や宋秉峻、寺内正毅、山県有朋、桂太郎の間を走り回り、朝鮮にいた内田とは電報や書簡で連絡を取り合いながら日韓合邦(日韓併合)の準備を進めていく。

 ●未完のアジア連邦

 陸軍が長州閥(岩国出身)の長谷川好道を通じて機密費10万円を一進会に下賜金として与えたのは明治40(1907)年5月15日のことである(『硬石五拾年譜』)。日露戦争へ協力した礼であったが、これにより資金難に苦しんでいた一進会は息を吹き返し、日韓合邦(日韓併合)は再び加速した。杉山茂丸は内田良平と情報交換をしながら日本側の山県有朋や桂太郎と、一進会側の宋秉峻や李容九を結びつける。これらの準備を進めながら11月2日に朝鮮の京城(*註)へ赴くと、日韓併合に向けて本腰を入れるよう伊藤博文に訴えた(『建白』)。

 しかしながら茂丸や内田が当初理想としていたのは日韓併合ではなく、日本と韓国が対等に合併する「日韓合邦」だった。これについて私は『李容九小伝』の著者である西尾陽太郎さん(明治45年生まれ)に質問したことがある。すると次の答えが戻ってきた。
 「当時、アメリカは合衆国、イギリスやドイツは連邦です。だから一進会の李容九も杉山茂丸も、日本と韓国を一緒にしてアメリカやヨーロッパのような集合国家にしたいと考えていたのです。その意味では非常にインターナショナルな視点で日韓合邦を考えていたわけです。日本も弱い、韓国も弱い、その弱い国同志が一緒になってドイツみたいになろうという、つまり小さな国同士が集まって西洋に対決できる強い国になるうという〈アジア連邦〉の構想ですよ」
 「その〈アジア連邦〉に中国も入れるつもりだったのでしょうか。辛亥革命では茂丸も玄洋社の連中も、かなり本気で援助していたようですが」
 「中国は大きいので、すぐには無理でしょうが、日本と韓国の合邦がうまくいった暁には、中国も加わってもらおうと考えていたはずです。李容九なども満洲への移住を考えていたわけですからね。彼らが最終目標にした〈アジア連邦〉というのは、まあ、アジア版のアメリカ合衆国みたいなものでしよう」

 実際、一進会のメンバーを一旦、間島(現在の中国吉林省東部で北朝鮮との国境近く)に移住させ、日韓両国が「合邦」した際、彼らを満洲へ移す計画があった。このため内たは桂首相に満洲移住費の150万円の下賜を懇願した程である。そして満洲に移った一進会を足掛かりに「日満連邦」を組織し、それを更に拡大した〈アジア連邦〉を作る構想があった(『日韓合邦秘史』)。にもかかわらず実際は韓国が日本に併合されて終わることで、李容九は失意の中で病に伏せる。

 ところで伊藤博文の刀剣趣味は有名であるが、伊藤が茂丸の影響を受けて愛刀家になったのも同じ時期だった。きっかけは伊藤が第三次日韓協約(明治40年7月)を締結して帰国したとき、茂丸が大磯の伊藤邸に出向いたときであった。このとき伊藤は自らの所蔵する幾つかの刀剣を茂丸に鑑定してもらい、それ以来、刀剣に興ずるようになるのである。

 合邦か併合かで揺れているとき、茂丸はその両者の間を走り回っていたのである。
     
*注 明治43年に朝鮮が日本に併合されるまで京城(ソウル)は李朝の王都として漢城の地名であったが、茂丸たちはそれ以前から京城の地名を使っていた(第三章「京釜鉄道の敷設」参照)。
    続く。
 

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