カウンター 読書日記 ●『杉山茂丸伝』ー(10)
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●『杉山茂丸伝』ー(10)
 ●「凱旋釜」の石碑

  東京の築地本願寺は、インドの寺院を模した異国情緒あふれる建物で、昭和45(1970)年に自衛隊で自決した三島由紀夫の葬儀が行われた寺といったほうが、あるいはわかりやすいかもしれない。その寺の正門から入り、右手に20メートルほど進んだ木立ちの間に大人の背丈ほどの石碑が建っている。正面に「凱旋釜」、右側面に「満洲軍総参謀長・陸軍大将・子爵児玉源大郎御寄進」、左側面に「明治39年7月16日 後進 杉山茂丸」と刻まれている。

 つまりこれが児玉源太郎が寺に寄進した凱旋釜を記念して杉山茂丸が建てた石碑だった。それが建てられた経緯は、月刊誌『黒白』大正7年8月号)に「凱旋釜の由来」と題して茂丸自身が説明している。

 それによると、日露戦争の戦勝記念として児玉源太郎に茂丸が贈った巨大な茶釜二個に由来していた。

 この釜が馬車に乗らないほど大きな茶釜だったので、児玉も置き場に困り、馬小屋に入れておいても邪魔になるし、桂太郎に貰ってくれと頼んでも桂が拒否するわで、どうにも始末に負えなかった。しかし戦勝祝いの縁起物なので粗末にもできず、まして茂丸から貰ったものとなると尚更いい加減な扱いはできず、結局、築地本願寺に寄進という名目で持ってきたのである。ところが不思議にも、約1週間後の23日に児玉は突然病死した。あたかも茶釜を粗末にした報いのように、である。それから暫くして、境内で赤サビにまみれて転がっていた茶釜を見つけた茂丸が、2個の釜を台に両蓋をし、「凱旋釜」と名づけて標石を建てたのだ。今、築地本願寺に残っている「凱旋釜」の石碑が、まさしくその標石だった。

 明治39年8月1日号の『防長新聞』には嗣子の児玉秀雄が父の死について談話を発表している。脳症で酒を禁じられていたにもかかわらず、祝賀会続きで酒を飲み過ぎたためであろうというのだ。

しかし児玉の死(に)は不可解な部分が残る。特に「凱旋釜」の石碑を目にしてからは、茂丸から貰った茶釜を築地本願寺に寄進して約1週間後に亡くなったことが無性に気になりはじめた。しかも児玉は政治的役目を終えたタイミングを計るように他界していた。そのうえ茂丸は、児玉に対してだけは神社まで建てて祭る力の入れようだったのである(第三章参照)<*注>

 茂丸の死生観には常人を越えた独特なものがあった。

 それは関東大震災で焼けるまで、台華社(東京にあった茂丸の事務所)の二階に多くの知人の位牌を祭ることで、死者の魂と暮らしていたことでも知られている。茂丸にとって人の命は、「ほんの偶然の出来合いで戯れに竹べらで水を叩いたら泡が出た位のものに過ぎない」(『青年訓』)ものだった。そして自らも死と対峙して生きていた魔人である。その意味で、自分の死も友人の死も常に手の届く範囲にあったのだろう。
  
  <*注>
 
 古川薫の歴史小説に児玉源太郎を描いた『天辺の椅子』がある。古川はこの小説の取材において次の疑惑を感じたという。
 「私が児玉源太郎を書いたときに、児玉源太郎の死因も非常に疑惑があるんです。やはり当時暗殺説があったわけです。私は児玉源太郎が満州経営に対して彼が一人で反対していましたから、手先になったのが後藤新平じゃあないかと思ったんです。それでだいぶ調べたのですが、やはりそんなことは出てくるわけはないんで、それをはっきりそうだとはなかなか書けないんです。結局、匂わせるような終わり方をしたんですけども、たった一つ、彼が死ぬ1ケ月ぐらい前に書いた手紙を手に入れまして、それから推測できるんですけれども、決定的資料ではないわけです」(平成7年、日本大学発行『シリーズ学祖・山田顕義研究 第六集』「座談会 ・米欧回覧岩倉使節団と山田(下)

 これについて本章「児玉源太郎と南満州鉄道」で示したように児玉の急死後、満鉄総裁を継いだのは後藤新平だった。しかもこのとき乗り気でない後藤を児玉の後釜に強引に推薦したのが茂丸だったと、鶴見祐輔が 『後藤新平 第二巻』で茂丸の電報を証拠に付けて説明している。茂丸もこれを否定しておらず、児玉没後、築地の待合「柏屋」に突然たずねて来た後藤から次の文句を聞いたとしている。
「コン畜生、打ち殺しても足る奴じゃない。トウトウ俺を、また植民地稼ぎの人足にしてしまいやがった。アノ児玉の死前に打った電報は、アレは何事じゃ」(『俗戦国策』)

 当時の茂丸が児玉を見切り後藤に乗り換えて強力にバックアップしていた様子が伺え、前出の古川の感じた疑惑と合わせると興味深いものがある。ついでながら、児玉の死の直前に打った電報で、「朝鮮モ共二併呑スルコト」と茂丸は述べている。すでに合邦という理想から現実的な合併路線に乗り換えていたか、外向き(朝鮮)と内向き(日本)用に、合邦と併合を使い分けていた様子がわかる。
   続く。
 

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