カウンター 読書日記 ●『杉山茂丸伝』ー(9)
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●『杉山茂丸伝』ー(9)

 ●機密情報の漏洩

 日露戦争で満洲の奉天が陥落した頃、つまり明治38(1905)年3月のことであるが、第一回目の渡米時(明治30年)のスポンサーになって以来交友を深めていたモールスが、ニューヨークタイムスの秘密通信員を名乗るナップという人物を連れて杉山茂丸のところにやって来た。最近会ったオランダ人とドイツ人から日本軍の機密情報がドイツに流れているとナップが聞いたというのだ。

 驚いた茂丸は、あまりのショックから鼻血を流しながら聞いたばかりの談話を満洲軍・総参謀長の児玉源太郎に向けて暗号電文で送った。軍事情報が洩れているので、講和に持ち込むべきである、と。更に真夜中ではあったが山県有朋のところへ走ると、山県も別のルートで軍事機密の漏洩をつかんでいた。
「ネー杉山、この種の事を、もらすような奴が、日本の軍人中に、出て来るような事があってはもういくさは止めじゃぞ」
 口にすると山県は桂太郎に連絡を入れた。翌日、茂丸は桂邸を訪ね、ナツプから間いた一部始終を伝えると、早く講和を行うべきであると忠告した。「どこに講和を申し込むのじゃ」と桂が聞くので、「米国に申し込むのでございます」と答えると、「ドウして米国に申し込むのじゃ」と桂は首をかしげた。茂丸は友人の金子堅太郎を通せば、アメリカが有利な形で仲介役を果たしてくれると考えていた。金子は7年間の留学でハーバード大学を卒業し、第26代大統鎖のセオドア・ルーズベルトと大学の同窓になっていたからだ。しかも開戦当時、アメリカがロシア寄りに傾いた時、金子がワシントンで旧友ルーズベルトと会ったことでアメリカが日本に味方する発言を早くも引き出していた。

 このような状況においても日本側はどうにか勝ち続け、5月27、8日の日本海海戦の勝利でいよいよ講和に向けて動き出す。結果、茂丸のいうとおりルーズベルト大統領が日露両国間の講和で必要なら自分が仲介役になると日本政府に申し出だのが6月10日だった。そして7月3日に日本側の全権委員として小村寿太郎(外務大臣)と高平小五郎(駐米公使)が任命され、ロシア側はウイッテ(枢密顧問官)とローゼン(駐米大使)が決まる。

 一方、山県が奉天の視察のために東京を発ったのが7月14日であるが、このとき山県の副官だった堀内文次郎が茂丸と初対面を果たした。

 その出会いも尋常な形では行われなかった。堀内に茂見を紹介したのは山県だが、茂見が途中で船に乗り込んでくるのでよろしく頼むと手紙で伝えていたのである。
 そして実際、奉天に向かう山県らの乗った河内丸が門司沖に差しかかったとき、追いかけてきた水上艇から茂丸が飛び乗って来たという。茂丸は山県と連絡を取り合い、戦後処理のために一緒に奉天へ向かうことにしていたのである。

●児玉源太郎と南満洲鉄道

河内丸に乗り込んで大連に到着した茂丸は、明治38年7月21日に大連から夜汽車に乗り、翌2日の午後に奉天の停車場に到着した。その後は満洲軍総参謀長の児玉源太郎の部屋に閉じこもり、児玉の副官だった田中義一を交えて南満洲鉄道株式会社の経営案を練る。日露戦争の勝利により帝政ロシアが敷設した東清鉄道(ハルビンー旅順間)と支線及び付随利権を日本は手に入れるが、その鉄道を日本側が経営することを前提として南満洲鉄道(以下、満鉄と略す)と命名したのである。今、門司のレトロ地区に赤レンガ壁の外観を誇る「国際友好記念図書館」が建っているが、これは大連にあった東清鉄道のオフィスを平成6年に北九州市が復元して建てたものである。

 堀内文次郎によれば、関東州に軍政を敷いて、その地を租借して日本的な自治をしたのも、更には満鉄経営の計画を立てたのも、すべて茂丸だったということである。そのこと1つとっても茂丸の功績は計り知れない。

 児玉や後藤新平を通じて台湾統治に成功していたので、満洲も同じテキストで統治できるという確信を茂丸は持っていた。ところが満鉄経営に暗い影を落とす問題が起きた。軍事的な危険を避けるため、井上馨と渋沢栄一がユダヤ系アメリカ人資本家のハリマンに満鉄の売却を計画したのであるが、これに対して小村寿太郎が猛反対したのだ。山座円次郎がポーツマスから帰国して小村に鉄道売却の動きを伝えたところ、激怒して待ったをかけたのである。もとより日露戦争はユダヤ人の助けで成功した戦争だったにもかかわらず、その恩を忘れてハリマンを疎外したことで、日米関係に対決の火種を残すことになる。

 小村の進言により、明治39年5月22日の閣議で満鉄を日本側が独立経営をする会社組織にすることが決まった。イギリスの東インド会社をモデルにした行政権をはじめとした権限を与えられた国策会社としたのである。茂丸と児玉は台湾にいた後藤新平を満鉄総裁に推したが、後藤は即答を避けた。しかし7月に児玉が急死したことで後藤が満鉄総裁を引き受けることになった。

 一方、前述のようにハリマンを排除したことでアメリカ国内の反日感情が高まり、対日戦争計画である「オレンジ・プラン」が輪郭を露にし、それが後に日本側が「大東亜戦争」と呼ぶ日米戦争を引き起こす。昭和になって松岡洋右が口にした、「平面的の欧州文明に対立して居る立体的の東洋文明」としての満洲は、早くも満鉄経営のスタート時に芽生えていたのだ。
     続く。
 
 

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