カウンター 読書日記 ●『杉山茂丸伝』ー(6)
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●『杉山茂丸伝』ー(6)
 ★第三章 膨張する視座
 

 ●第二回渡米とJ・P・モルガン

 明治30(1897)年11月に第一回目の渡米を終えた杉山茂丸は盲腸炎にかかり、翌31年1月まで赤十字病院に入院していた。第二回目の渡米を果たすのは盲腸炎が治った3月のことである。それは当初からの目的であった工業発展のための銀行設立の調査で、交渉相手はアメリカ一の金融王ジョン・ピアポント・モルガン(J・P・モルガン)だった。彼は1893(明治26)年の金融不安を解消し、以後はアメリカ最大の鉄道グループを従えた大実業家である。そのためモルガン商会の法律顧問フレディック・ゼニング宛てに金子堅太郎が書いてくれた紹介状を携え、金子が用意した通訳の神崎直三を随行させての大がかりの旅となる。

 一方、第二次松方正義内閣で農商務省次官を務めた金子は、在任中に工業銀行の必要性を首相の松方から聞いていた。かつて茂丸との銀行論争で議論にあがったものだが、渡米経験のある金子はニュー∃―クの銀行が低利で資金を融通していることでアメリカ経済が発達した実際を知っていた。そこで明治30年春に農商務大臣の榎本武揚が辞表を出したことで一緒に下野したのを機に、茂丸を呼んで製鉄所の建設案(前述)や工業銀行の創設案を話し合っていたのだ。

 茂丸と神崎がニューヨークで泊まったのは、五番街を挟んでマジソンスクゥエアガーデンの向かいに建つフィフスアベニューホテルだった。そこに金子から連絡を受けていたゼニングが迎えに来たので、二人は馬車でモルガン商会へ赴いた。茂丸は部屋に待っていたモルガンに、日本をはじめとするアジアの現状を片言の英語で説明し、モルガン商会によるアジア開発の代理を務めたいと口にした。そのために低金利で外資を導入した銀行を立ち上げたいとヽ申し出たのである。モルガンは次の五つの条件を満たすなら融資は可能と答えた。

一、工業開発会社を設立し、債権を発行して日本政府が保証すること。
二、貸出願は一億ドルから一倍三千万ドルまで。
三、貸出年限は五〇年。
四、利息が高いと事業利益が減るので五パーセント以上の利息は取らないこと。
五、モルガン商会への支払利息は三・五パ-セントで、工業開発会社への
マージンは1.5パーセント(『俗戦国策』)。
 『其日庵叢書第一篇』の「借金譚」で自ら語るよう、茂丸の一生は借金の連続だった。そしてついにニューヨークでモルガンから一億三千万ドルの借入れを約束するに至るのだ。実に日本の近代資本主義の第一歩は、経済策士の杉山茂丸の借金によってもたらされたことになる。このとき茂丸はモルガンに覚書が欲しいと申し出た。モルガンは傍らのタイピストに契約内容をタイプ打ちを命じたが、そのメモ書きこそが明治31年、第三次伊藤内閣で伊藤博文と井上馨に提出された工業発展を目的とする銀行設立のための基礎資料となるのである。茂丸たちが二度目の渡米から帰国したのは明治31年4月頃だった。

●ニューヨーク

 ニューヨークのフィフスアベニューホテルに星一(はじめ)が訪ねてきた。
 SF作家星新一の父で、後に星製薬の社長となる人物だが、このときは教会の無料宿舎暮らしをしながらコロンビア大学で学ぶ苦学生だった。そのため日本の新聞や雑誌を英訳してアメリカの新聞社に売り込むアルバイトをしていたのである。異郷での貧乏生活を物語るように星の靴はボロボロで、それを目にした茂丸が丈夫な編み上げ靴を10足買って与えたのがこのときだった。全部履き破るまで仕事と勉強に励めという意味があった。
 星新一の『明治・父・アメリカ』によると、アメリカ留学を考えていた星一が神田の英語塾に通っているとき、同じ塾で学んでいた同世代の安田作也という人物から茂丸を紹介されたということである。その頃、茂丸は芝佐久間町の信濃屋という宿屋を下宿兼事務所に使っており、星はそこで茂丸と初対面を果たすのだ。日清戦争がはじまる前の明治26年の話で、その翌年、屋は勉学のために自費で渡米した。

 茂丸が靴10足をプレゼントしたのは、異郷で再会した星に懐かしさを感じたからだ。その励ましが通じたのか、翌明治32年に星はニューヨークで永続した最初の邦字新聞『日米週報』を発行し、更に翌々年の明治34年にブロードウエーのビルに事務所を構えて月刊英文誌『Japan & America』の創刊に漕ぎつく。

 ところで茂丸の方は、この頃、ニューヨークで何を見、何を感じたのか。
 オランダ人移民の街(*ニューアムステルダム)として始まったニューヨークは、その後イギリス人の街として拡大し、19世紀には多民族都市の様相を見せていった。特に1881(明治14)年からロシアでユダヤ人大虐殺が始まると、排斥されたユダヤ人たちが詰めかけ、欧州の貧民層や迫害者の受入先となった。この頃からニューヨークは活気に満ちはじめる。1875(明治8)年に10階建てのウェスタン・ユニオン本部が設置されたのを皮切りに、高層ビルの建設ラッシュに突入し、人と物と情報の集積地となった。大経済国への道は、亡命ユダヤ人たちの経済活動の結果であり、それを象徴する場所がニューヨークだった。

 だが茂丸の滞在と重なる1898(明治31)年にアメリカは新しい局面を迎えていた。米西戦争でスペインに勝利したことでアメリカはフィリピン諸島、グアム島、プエルトリコ島をスペインから奪い取り、更にハワイ諸島を併合する。海外膨脹主義や帝国主義の熱気がニューヨークには漲っていた。ヨーロッパの移民から始まった国が、世界帝国の第一歩を歩き始めたときだ。その何とも形容しがたい熱風の中に、茂丸は近代日本のモデルを発見したのであろう。

●日本興業銀行

 東京駅丸ノ内界隈は巨大ビルの乱立地帯だが、中でも圧巻は大理石に覆われた絢爛豪華な日本興業銀行である。明治31年初頭に杉山茂丸が第2回目の渡米をし、J・P・モルガンと交渉した結果が、この銀行になるのだが、設立までには紆余曲折があった。
 2度目の渡米から帰国した茂丸の動向は経済界の注目を集めていた。そのことは明治31年6月7日付けの『東京日日新聞』の記事によってわかる。6月4日の九州倶楽部に茂丸が招かれ、経済記者懇話今月訳合の席上で「帝国工業銀行」の設置について講演しているからだ。もとより彼が「帝国工業銀行」の設置を訴えたのは、第三次伊藤内閣において提出したモルガンとの契約に、首相の伊藤博文と大蔵大臣の井上馨が難色を示したことにある。低利で金を貸す銀行が出現すれば、国内の銀行が大打撃を受けるというのが政府側の見解だった。

 そもそも第三次伊藤内閣が成立したのは、第二次松方内閣が台湾経営に行き詰まって倒れたからだ。日本国内の経済界は危機的で、これを克服するために伊藤は挙国一致体制の政府を考えた。自由党の大隈重信と板垣退助らの入閣を求めたのものそのためだ。一方、大蔵大臣の井上は増税で経済的苦境を乗り切ろうと考え、これに対して茂丸も当初は同意したが、それは外資導入をした「帝国工業銀行」を設立するという条件との引き替えだった。ところがその後、外資導入案が日本銀行と大勢の銀行家の反対で提出できなくなったと伊藤が告げたことで茂丸が怒り、京釜鉄道の敷設で共に行動していた小美田隆義と組んで井上の増税案へ攻撃を始める。結果は5月19日から開会した第12回帝国議会で早くも表面化した。茂丸の引導による自由進歩両党の攻撃でヽ政府の増税案が満場一致で否決されたからだ。これにより6月には第三次伊藤内閣が終わる。続いて大隅と板垣を中心とした隅板内閣が立ち上がるが、両者を結びつけたのが玄洋社の平岡浩太郎だった。

 先に『東京日日新聞』で見た九州倶楽部での茂丸の講演は、そんな時期に行われたものだ。金子堅太郎が述べるところでは、「日本興業銀行」と命名したのは茂丸との話合いの結果とのことで、この頃、外資を導入した銀行案には全国の工業家が賛成し、藤田伝三郎や由利公正(明治初年の太政官札の発行者の一人)も強力な賛成者だったそうだ。もっとも隅板内閣も同年11月には幕を閉じ、続いて第二次山県内閣が誕生した。茂丸は「興業銀行設立の法案」の草案を書き、「興業銀行条例」を作って日本興業銀行の創立に向けた挑戦を第二次山県内閣でも続けるが、大蔵大臣の松方正義が反対して法案が通らず、結局、モルガンから融資を受けない従来どおりの高利貸しの銀行として、日本興業銀行の設立が決まるのであった。
     続く。
 

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