カウンター 読書日記 ●『杉山茂丸伝』ー(5)
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●『杉山茂丸伝』ー(5)
 ★第三章 膨張する視座 

●経済策士の資本主義

 第二次伊藤内閣が戦った日清戦争の勝利で、日本は新たな一歩を踏み出す。それは近代資本主義社会へ仲間入りする第一歩であった。ここにおいて杉山茂丸は早くも海外貿易で資本主義の現実を知っていたと息子の夢野久作は見ている。「その頃は支那に於ける欧米列強の国権拡張時代であった。したがって彼、杉山茂丸は、その上海や香港に於いて、東洋人の霊と肉を搾取しつつ欝積し、発酵し、糜乱(爛)し、毒化しつつ在る強烈な西洋文化のカクテルの中に、いわゆる白禍の害毒の最も惨烈なものを(父は)看取したに違いない。資本主義文化が体現する処の虚無思想、唯物思想の機構の中に血も涙もない無良心な、獣性丸出しの優勝劣敗哲学と功利道徳の行き止まり状態を発見したに違いない」(『近世快人伝』)
 同時にまた、この行き止まり状態を克服するのも近代資本主義に他ならないことを茂丸は香港で知るのだ。それは香港にいた中川恒次郎(領事)の紹介で知り合ったイギリス人商人・シーワンとの関係からはじまった。あるときシーワンが、日本の発展のためには工業立国になる必要があると説いたからだ。イギリスのように安い原料を輸入してそれを加工し、完成した製品を外国に高値で輸出すれば日本は豊かになると教えたのである。しかも日本には石炭が豊富にあることで火力エネルギーに恵まれ、川の流れも早く水力発電で電力エネルギーも得やすいので、工業発展の条件はそろっているというのである。ただし工業発展のための工業銀行や、農業育成のための農業銀行という具合に、それぞれの分野に専門銀行を作り、低利で金を借り易くすることが必要であると指摘した。

 茂丸が大蔵大臣の根方正義と銀行論争したのも、その頃である。松方が開墾拓殖のための勧業銀行を設立したいと考えていたのに対し、茂丸は工業銀行を優先させるべきと論争になったのだ。もっとも松方は既に総理大臣経験者で、一方の茂丸は無為無冠の青二才。そんな若造を相手に、松方は何時間でも真面目に相手をした。茂丸は当時のことを次のように回想している。「日本の経済の神様と称せられた松方正義候と、端なく経済上の意見を異にし、暇さえあれば経済上の意見を戦わして侯爵邸に出かけて行って、深夜まで話をしたものであった」(『俗戦国策』)

 経済策士の異名を持つ茂丸の経済的知識は、海外貿易の経験やシーワンからの教授、そしてこのときの松方との論戦によって培われた。もっとも茂丸の工業銀行設立案は松方を説得できず、松方は次の答えを返しただけだった。
 「アータの議論も、もっともとは思いますが、マア勧業銀行の方は皆が意気込んヂョリますから、先にやりますことに致します」


●第一回渡米と八幡製鉄所

 日清戦争後の第二次松方内閣当時の話である。香港貿易で工業銀行の必要性を痛感した杉山茂丸は帰国後に横浜に赴き、知人のアメリカ人、ジェームス・モールスを訪ねて香港でのシーワンとのやり取りを話した。このときモールスが、資本主義を学ぶならアメリカの工業資本を手本にすると良いと言ったことで、茂丸はアメリカ行きを決める。

 茂丸はまた、暢気倶楽部の一員で渡米経験のある金子堅太郎(農商務次官)にもそのことを伝えた。すると金子も茂丸のアメリカ行きに大賛成した。製鉄所の設置案は早くも明治24年、第一次松方内閣で第二回帝国議会に提出されており、日清戦争後に急速に現実味を帯びた話として進み始めていた。その結果、金子を委員長とする製鉄事業調査会が立ち上がり、明治29年には400万円を越える設立予算が通っていたのである。金子にしてみればアメリカの工業界の現状を茂丸に調査してきて貰いたかった。しかし毎度のことながら茂丸には渡米のための費用がなかった。そ
こで若い頃から世話になっている大阪の豪商、藤田伝三郎のもとに走るのである。

 藤田は3000円の渡航費を貸し、茂丸は横浜に戻って再びモールスと具体的な渡米計画を打ち合わせた。ニューヨーク、シカゴ、フィラディルフィア、バッファロー、そしてその西南に位置するダンカークの各地で鉄鋼会社や貿易会社を経営する社長たちにモールスが紹介状を書いてくれたのもこのときだ。しかも茂丸が関係していた朝鮮の京仁鉄道や神戸水道を敷設した手数料の名目で、滞在費2万円を援助してくれた。ところがこの2万円を茂丸は頭山や玄洋社社員たちに分配したのだ。外務省の友人から「通訳を連れて米国に行くのに、3千円位で行けるものか」と揶揄されたが、実際、滞在費用が足らなくなった。幸いにも藤田が3000円の小切手を追加で送付してくれたので、明治30年9月末に横浜からチャイナ号でアメリカ行きを果たせるのである。このとき同行の通訳がモールスの斡旋した清水林吉で、彼と二人でアメリカ中を走り回って必要書類を手に入れていく。
 もっとも視察旅行が順調だったわけではない。列車でニューヨークからバッファローに向かう途中、ハドソン川岸の崩落事故に遭遇しかけている。幸い一列車遅れたことで一命をとりとめたが、ワシントン在住の駐米大使の星亨から彼らの無事を外務省に報告する一幕もあった。ともあれ二人は11月3日に何ごともなく横浜に戻ることができたのである。

 帰国後、暢気倶楽部の会場だった「柏屋」に農商務大臣を辞めたばかりの榎本武揚を招き、日本にも近代的な製鉄所が必要であると茂丸は力説した。そしてアメリカで手に入れた資料を榎本の部下だった金子に渡した。このことで、八幡製鉄所が設立され、明治33年11月に第一炉(東田高炉)が完成する。時は流れ、既に第四次伊藤内閣のときである。
   続く。
 

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