カウンター 読書日記 ●『杉山茂丸伝』ー(3)
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●『杉山茂丸伝』ー(3)
 『杉山茂丸伝』 第一章 自由民権の嵐 より。

  ***************
 ●吉田磯吉と珍山尼

 代々黒田藩士だった杉山茂丸の家が、住み慣れた福岡城下を離れて芦屋に移ったのは明治2(1869)年である。幕府が終われば侍は百姓に戻るべきであると茂丸の父・三郎平が「帰農在住」を藩主の黒田長溥(ながひろ)に進言し、明治4年の廃藩置県を待たずに自ら身分をなげうった結果だった。これにより杉山家は秩録公債という失業保険さえ貰えず、芦屋で苦しい生活を送ることになる。芦屋は遠賀川が玄海灘に注ぐ北九州の鄙びた海辺だった。

 杉山一家を迎えたのが★トンコロリンの妙薬で財を成した勤皇派薬商・塩田久右衛門であった。三郎平は久右衛門の庇護のもと昼間は海で漁をし、夜は近所の子弟を集めて私塾を開いた。また、妻の紫芽(重喜)も近所の娘たちに裁縫を教えた。このような生活を久右衛門が亡くなる明治9年までの約7年間、芦屋で続けるのである。6歳から13歳までの間、今でいう小学生の時期を茂丸は芦屋で過ごしたことになる。

 この土地で茂丸の身の回りに幾つかの出来事が起きた。第一が後に仁侠政治家として名を馳せる吉田磯吉との出会いである。3歳年下の磯吉との思い出を茂丸は次のように語る。*掲載写真(=磯吉の正装写真・略)の説明にはこうある。・・吉田磯吉。子分が神戸に流れ、山口組発足のきっかけを作った。また嗣子の敬太郎が初代若松市長となった(吉田淵世氏蔵)
・・・

 「その頃が私の餓鬼大将の最も盛んな時で、敵味方に別れて戦をやる。私が采配を振って〈進め!〉というと、吉田がいつも真先に飛んでいったものだ。その後、だんだん大きくなるにつれて、私はそのようなことをいつとはなしに忘れてしまっていたが。ずっと後になって吉田が私を訪ねてきた時、少年時代の私の餓鬼大将ぶりの話をして、二人で大いに笑ったことがある」(『吉田磯吉翁伝』「餓鬼大将の時代から」)

 磯吉はその後、遠賀川で筑豊の石炭を運ぶ川ヒラタの船頭となり、喧嘩で名を上げ、川筋者の顔役となる。つまり北九州任侠界の嚆矢だが、更に花柳界、炭鉱、興行界で力をつけ、大正4年に民政党から立候補して当選、侠客議員として中央政界に進出する。政界で手腕を発揮したのが大正10年に起きた郵船会社事件たった。それは国策会社の郵船会社の利権を政友会が一人占めしようとしたことで内紛が起き、このとき山県有朋が茂丸に相談したことで茂丸が磯吉を動かしたときである。結果、磯吉が手打ちを行い、事件は無事に解決した。

 話を芦屋時代に戻すと、茂丸は母・紫芽をこの土地で失った。生活の苦労が災いしての死で、明治5年7月、茂丸8歳の時だった。これにより父・三郎平は後妻として親戚筋の林家から友(とも)を迎える。天然痘の跡が顔にあることで後に杉山家で「ジャンコ婆さん」と呼ばれる人である。ジャンコとは福岡地方の方言で顔に痘痕(あばた)かあることをいったからだが、ともあれこのときから彼女が茂丸の継母となった。

 実母を亡くした失意の時期に、茂丸はもう一人別の女性と出会っていた。女医の珍山尼である。彼女は福岡藩の侍医であった青柳家に生まれ、本名を秀子といったが、祖父と父が長州勤皇派と関係したことで切腹させられ、その後、香月恕経(かつきひろつね)の叔父である小倉の医者・半田珍山に引き取られて養女になったことで珍山尼を名乗るようになった。このとき茂丸は彼女から歌の手ほどきを受け、勤皇思想の教えを受けた。

 面白いのは後に茂丸の盟友となる頭山満も同じ頃、福岡で興志塾(人参畑塾)を開いていた眼科女医の高場乱(たかばおさむ)を訪ね、彼女から勤皇主義を教えられていたことである。国権派の代表格となる二人が国
権思想の基礎を教わったのは、いずれも女医だった。また茂丸は水戸学派の学者だった父・三郎平から『大学』などを教わり、「民を親にするに存り」というような独特の民主的天皇観や社会観の基礎を学んだ。

 一方、書を習ったのが芦屋の海霊寺(天台宗)で、ここで和尚から法螺貝の吹き方を習ったことにより、後に「ホラ丸」の異名を持つようになったと『百魔続篇』で語っている。

●伊藤博文との出会い

「岩城山県立自然公園 伊藤公記念公園」。山口県大和町束荷(つかり)に、その公園はあった。周囲の田園風景を眺めながら坂道を上ると、二階建ての白亜の洋館が突然目の前に立ちふさがった。伊藤公記念館だ。清水組(現在の清水建設)が工事を請け負い、明治42年3月に着工したと入り口に書いてある。伊藤自らが基本設計をして、翌43年5月に完成したが、日韓併合前の同42年10月26日に彼自身は満洲国ハルビン駅頭で
安重根に暗殺された。つまり伊藤は、この洋館の完成を見ることなく死んだ。

 隣に建っていたのが生誕150年を記念して平成9年に開館した資料館で、裏手の丘に以前、伊藤神社があった。「故伊藤公爵遺跡保存会」が大正8年5月に建立した神社だが、今は跡地に椅子に座した伊藤の銅像が据えられているだけだ。これらの施設が整備されているのは、そこが伊藤の生誕地のためで、実際、敷地の片隅には茅葺平屋の生家が復元移築されていた。伊藤はここで天保12(1841)年に生まれたが、当時はまだ★林利助の名で(林家の本家は束荷村の庄屋)、14歳で萩の下級武士・伊藤家の養子に入ったのである。そして萩において吉田松陰の松下村塾で尊攘思想を学び、そこで知り合った高杉晋作らと維新運動に参画した後、文久3(1863)年に脱藩してイギリスに密航、岩倉遣外使節団参加(明治5~6年)を経て初代総理大臣に上り詰めるのだ。しかしその直前、伊藤は杉山茂丸に命を狙われた。

 それは朝鮮で起きた甲申事変の処理で李鴻章と交渉するため、天津に旅立つ矢先のことだ。明治18年2月で、伊藤は43歳、茂丸は22歳。そのときの茂丸の風貌といえば、フンドシを硬く締め上げ素肌に着物をまとい、羽織の下にタスキを掛けるという、いかにも怪しげなものだった。身の丈170センチを越える巨体ゆえ、素手で伊藤を殺せると思っていた茂丸だが、実際に伊藤に会ってみると想像とはかなり違っていた。そのときの印象を次のように語っている。
「写真で見たとは大違ひで、ソンナ堂々とした人物ではございませぬ。すこぶる貧乏らしき顔をした小男であります」(『其日庵叢書第一編』)

 それでも茂丸は激しく詰め寄った。しかし伊藤は驚いた様子もなく、子供をあやすかのように落ち着いて答えた。しかも★自分の若い頃とそっくりとまでいった。確かに伊藤も高槻藩士の宇野東桜や国学者の塙次郎を暗殺していたし、長井雅楽の暗殺未遂事件も起こしていた★元過激派だった。高杉晋作、久坂玄瑞、山田顕義たちと品川御殿山の英国公使館を焼き討ちしたこともある。攘夷から開国に転じたのは翌・文久3年に井上馨らとイギリス留学(密航)してからだ。そんな体験を語った伊藤は、自分を殺しても世の中は良くならないから、お互い国のために尽くそうと諭した。茂丸は納得した。実にこれが伊藤との初対面だった。

 *林利助―俊助・・など当時の名前は多種にわたる。山県なども同様で名前はもちろん、系図など貧農・最下級武士の彼らにあるはずもないが、維新後冗談半分、勝手放題に作り変えた。
山口県図書館に問い合わせれば、資料を郵送してくれます。
 *過激派というよりは、テロリスト、殺し屋のほうが実情に近い。
  「自分の若いころに・・・」というのはそれの自認の言。

●士族たちの最後の戦い

 明治維新の後、新政府の中枢部に上り詰めた長州人たちは萩町内会的というべき身内優先の政治に始終したため、各方面から憎まれた。福岡出身の杉山茂丸がそのシンボル的存在だった伊藤博文の暗殺を考えるに至ったのも、そのためだ。『俗戦国策』で、「水戸も筑前も、薩長藩閥の鳶に、尊王攘夷と云ふ油揚げを浚はれたと同じ事である」と語るように、茂丸の家をはじめとした筑前士族(筑前勤王派)が明治維新に貢猷したにもかかわらず、功績を薩摩と長州人脈が独り占めした怒りがあった。それは茂丸一人の憤慨ではなく、旧黒田藩士族の子弟たちに共通する憤りである。後に彼らが自由民権結社「玄洋社」を結成し、政府と妥協したかに見える国権伸長論を掲げた後も、反政府的な態度を裏に秘めた理由が、そこにある。
 
 *写真:前原一誠らが処刑されたとされる新獄跡。頭山たちもここにいたようである(萩市恵美須町)

彼らが新政府の中枢から外されたのは、西郷隆盛の西南戦争に呼応して明治10(1877)年3月に福岡の変を決起したのが直接のきっかけだった。前年秋から熊本で神風連の変、福岡で秋月の変、年末には山口で萩の変が起きており、福岡の変もその延長線上の出来事だった。これらはいずれも廃刀令など旧士族の冷遇に不満を持った面々が一団となり、新政府に反旗を翻した事件だが、わずか14歳の茂丸もこのとき福岡の変に参加していた。しかし、「成年未満で無罪で返へされた」(『其日庵叢書第一篇』)のである。
  そして全ての叛乱が鎮圧されると、残党たちはことごとく新政府の弾圧を受けた。もちろん茂丸の家も例外ではなく、一家をあげて筑前・山家宿(現福岡県筑紫野市に転居し、旧宿場医の加島家での居候生活となる。この加島家は山家に現存し、昭和38年に地元有志者たちが建てた「東洋国士 杉山茂丸遺蹟」の石碑が庭に残り、茂丸たちが暮らした部屋がわかる旧加島家の見取図も保存されている。それによると玄関脇の六畳と八畳間を間借りして、生活のために鍬や鎌の柄を作ったり、米の買い出しをしていたようである。
 
一方、福岡の変の痕跡は、福岡市郊外の平尾霊園で見ることができ、一郭に首謀者だった★武部小四郎の辞世の刻まれた「魂の碑」が建っている。事件後に再決起を考えていた武部であるが、少年たちが次々弾圧されていく様子を見兼ねて自首し、処刑されたのだ。その直前に武部が、「行くぞオオーオオオー」と絶叫したのを健児16名が床にひれ伏して聞いていたと夢野久作は『近世快人伝』で書いている。実に、この絶叫こそが、後の玄洋社を生み、茂丸が伊藤暗殺のために上京する原動力となった。
 この時期、茂丸より9歳年上の頭山は、萩の変の首謀者である前原一誠と連絡をとっていたことで萩で拘禁されていた。頭山とともに後に玄洋社を興す★箱田六輔(第四代・玄洋社社長)や進藤喜平太(第二、五代玄洋社社長)も皆、萩の獄舎にいた。皮肉にも彼らは萩の変に連座したために一命をとりとめたのだ。 


 *・・一方、福岡の変の痕跡は、福岡市郊外の平尾霊園で見ることができ、一郭に首謀者だった★武部小四郎の辞世の刻まれた「魂の碑」が建っている。事件後に再決起を考えていた武部であるが、少年たちが次々弾圧されていく様子を見兼ねて自首し、処刑されたのだ。その直前に武部が、「行くぞオオーオオオー」と絶叫したのを健児16名が床にひれ伏して聞いていたと夢野久作は『近世快人伝』で書いている。実に、この絶叫こそが、後の玄洋社を生み、茂丸が伊藤暗殺のために上京する原動力となった。・・
 

 以下、参考までにこの『近世快人伝』の印象的な一文を引用・紹介します。
 「近世快人伝」 ★奈良原到  より。 


 (続く)
 

スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/403-37737757



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。