カウンター 読書日記 ●『杉山茂丸伝』ー(2)
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●『杉山茂丸伝』ー(2)
★次は「おわりに」と題した興味深い文章です。

 違和感を感じる箇所(後ほど記す)もありますが、誠実さ(特に「附記」)は充分に伝わってきました。

 **************** 


おわりに

 この作品を書くのに、ほぼ全力投球で五年を費やしたが、そのことは杉山茂丸の評伝に苦戦したことをそのまま物語っている。そして執筆の終盤においてソウルを取材する気になったのは、茂丸の大きな目標であった日韓合邦(日韓併合)のその後を、自分の目で確かめたかったからだ。
 ソウルには福岡国際空港から三時間で到着できた(仁川国際空港までは僅か一時間半)。まず、そのことが外国ではないという親近感を与えた。それに街の風景が日本と似ていたことで益々それを感じた。目の前に高層アパートが建ち並び、渋滞する自動車の排気ガスで霞がかった人ロ1000万人を越えるソウルの街は、出発地の福岡がそうであったように、日本のどこにでもある地方都市がそのまま肥大化した風情があった。自動車が左ハンドルで看板類がハングル語という以外、街そのものの空気はどこか懐かしい日本的な匂い示して、私の身体を拒絶するものは無いに等しい。
 この街の発展は、ここ20年ほどのもので、具体的には1988(昭和63)年のソウルオリンピック以来のものといわれるが、街を歩いて感じるのは短期間で近代化がうまく進んでいるという印象である。わずかの期間で発展できたのは、大日本帝国が近代化の基礎を築いていたからであり、どこか懐かしいという印象も、たぶんその辺りに起因するものだろう。しかし、それ以上に感じるのは、大日本帝国が朝鮮に恋慕を抱いていたのではないかということである。

昭和九年に京城蓮建洞(よんこんどん)の興亜堂書店から『京城遷都論』なる本が日本人の豊川善嘩により発行された。京城(現在のソウル)を日本の首都にすべきと主張する書物が出版されたこと自体、この街で暮らす日本人の朝鮮に対する恋愛感情を示していた。日本政府が皇民化政策で打ち出した官製の「内鮮一体」以外に、民衆の内から芽生えた朝鮮への愛があっても不思議はないというのが、ソウルを歩いた実感である。

 例えばソウル駅に隣接する赤レンガ造りの旧ソウル駅舎を見たときがそうだ。東京駅に匹敵する外観の美しさに、植民地主義以外の別モノを感じた。しかし韓国側にも似た心情があったようで、駅舎前の説明板に、「日本が中国大陸侵略の足場として、ソウルと新義州を結ぶ京義線と、ソウルと元山を結ぶ京元線を利用するために、1922年6月に着工、1925年9月に竣工した」と悪口風に書きつつも、実際には「史跡第ニ八四号」に指定して大切に保存していたからだ。日本国内でもそうであったように鉄道は軍事目的で敷設されながら、やがて近代化に大きな貢献を果たした。総工費94万5000円という当時としては膨大な予算を組み、朝鮮総督府が3年以上の歳月を費やして建設した豪華な駅舎は、この土地を愛した日本人のエ不ルギーが完成させた建造物という気がしてならない。
 同じことはソウル市庁舎にもいえた。大日本帝国が造った京城府庁が、今なおソウル市庁舎として使われ、偉容を誇っていたからだ。この建物には首都にふさわしい威厳がある。階段や壁の大理石は朝鮮総督府の建材が流用されたというが、洗練された美しさが建物内部に保たれた理由も、入口の警備員の監視が一躍(?)かっているように見える。

 市庁舎前の大通りは景福宮につながる世宗路である。景福宮は朝鮮を代表する宮殿だけあってこの道も近代的首都にふさわしい直線美を保っていた。しかしこの通りも日韓併合を成就させた大日本帝国が、パリ市街他計画を踏襲した拡張工事で建設したものであった。今、通りの中央分離帯に豊臣秀吉の朝鮮出兵を迎え撃った朝鮮側の英雄・李舜臣の巨像が建っているのが面白いが、いずれにしても今なおソウルを代表する通りで、朝鮮人たちが誇りとする道なのだ。ついでにいえば日本の統治が始まると景福宮の前庭に朝鮮総督府が建てられ、光化門が崩されることになった。ところが朝鮮人の発行する『朝鮮日報』や『東亜日報』は当時、これといった反対運動をしておらず、門を壊すのに最も強く反対したのは日本人の柳宗悦であった。
 他にもまだある。市庁舎の南に位置する東京上野のアメ横に似た南大門市場も、杉山茂丸の親友だった末秉峻が大正10(1921)年に朝鮮農業株式会社を設立したことで開場した市場だった。更に、南大門市場に続くソウル一の繁華街となった明洞も、日帝時代の日本人商人たちが伝統的な鐘路(ちょんの)商圏に対抗して開拓した地域だった。
 平成七(1995)年に、日本からの解放50周年記念として朝鮮総督府の建物が解体されたニュースを聞いた私は、うかつにも日帝時代の遺物は全て無くなったものと思い込んでいたのである。しかしソウルを歩くと、街の骨組みそのものが大日本帝国によりデザインされていたことが改めて理解できる。そして日本人が朝鮮を愛していたことも、だ。
 私は日本人観先客がほとんど足を踏み入れないという開妃が暗殺された景福宮の一番奥に向かった。そこには焼却された閔妃の遺体が投げ込まれたという池が残っていた。案内してくれたのは国立民俗博物館のボランティアガイドを務める金激さんという老人だった。昭和8年にソウルで生まれた金さんは日帝時代の小学校で日本語を勉強したというだけあり流暢な日本語で説明したが、言葉の端々に当時を懐かしむ雰囲気さえ感じられた。ソウル出身者の多くがそうであったように、金さんの家も貴族階級の「両班」だったが、「李王朝を潰しだのは日本ではなく、両班の制度でした」と断言した。学問ばかりして実利的なことを何もしなかった朝鮮王朝は、その怠慢により滅びるべくして滅びたというのである。しかも、このような考え方は日帝時代を経験した朝鮮人に多かれ少なかれ共通していることも教えてくれた。それを今さら全て日本の責任として押し付けるのは筋違いといい、「韓国に近代化を教えてくれたのは日本です」、と閔妃の暗殺現場で語ったのである。
 日本側が一方的に強行したという理由から、日韓併合が無効であるという主張を韓国政府は展開しているが、ソウル市庁舎の西にあった徳寿宮を見学したことで、私はそのことにも疑問を感じた。徳寿宮内の中和殿は第二次日韓協約が結ばれた舞台だが、同時にそこは国王の高宗が隠れ潜んだ場所であった。そしてこの宮殿は地下道を通じて近くのロシア公使館までつながっていた。このことは、日韓併合直前の高宗がロシアの手の中で政治を行っていたことを示していた。このとき早くも朝鮮王朝は独立国家の体を捨て、自国の統治能力を失っていたのである。日韓併合はこのような状況下で日韓双方から進められた朝鮮近代化の一手段に過ぎず、韓国政府がいうような一方的な併合ではなかったことになる。

 意外な印象を受けたことは他にもある。朝鮮人は日帝時代の「京城」の呼び方を嫌うと聞いていたが、茂丸が敷設に関わった京城と釜山を結ぶ京釜鉄道は、今なお「京釜線」と呼ばれ、人々に親しまれていた。同じく日帝時代の「朝鮮」の呼称を嫌悪しているにもかかわらず、抗日運動で部数を伸ばした『朝鮮日報』でさえ「朝鮮」を冠した漢字名を新聞上部に刻印し、駅の購買所で堂々と売られていた。
 歴史は後になって脚色され、その時々の政治体制に好都合な解釈をされるが、ソウルもまたそうだったのだろう。

 本書が茂丸と彼の生きた近代日本の全貌をとらえた作品であるとは思っていない。本書も多くの謎を残したままである。この謎は茂丸個人の謎というより、日本近代史の謎であり、更に広くアジア近代史の謎といえる。この疑問が解明されるには、なお多くの時間と研究が必要であり、読者の中から解明に挑む研究者が出てくるなら、私は本書における自らの責任を果たしたことになろう。
 
思い起こせば執筆に取りかかるのと時を同じくして、茂丸の生誕地である福岡市街をはじめ、筑豊炭鉱や門司港近辺を歩き回った。あるいは明治の元勲を生み出した山口県の各地や長崎、熊本、東京などを旅した。ずいぶん長い旅であったが、その途中で、茂丸の孫である三苫鉄児氏からお話を伺うことができたし、長年、茂丸の研究を続けてきた東筑紫短期太学副学長(当時)の室井廣一氏から研究紀要の全てと、茂丸の滞在先であるニューヨークでの取材結果を教えていただけた。夢野久作に詳しい西原和海氏からは、久作の父としての茂丸像を語ってもらい、茂丸の創刊した週刊誌『サンデー』や月刊誌『黒白』の実物を見せてもらった。最晩年の西尾陽太郎氏から日韓併合問題の核心を聞けたことも、今となっては貴重な収穫となった。他にも国立国会図書館や福岡県立図書館、山口県立図書館、宇部市立図書館、玄洋社記念館の職員の方々にお世話になったし、ソウルでも金氏をはじめとした親日派の方々のお世話になった。その人たち全てに、お礼を申し上げるのはいうまでもないが、何よりこの5年間、執筆に苦悩し、途中で何度も筆を折りかけた私を励まし続けてくれた小野静男編集長に感謝しなければならない。おそらく氏の励ましが無ければ、私は執筆を断念したことは間違いないからだ。最後になったが本書の出版を快く承諾して下さった三原浩良社長にも、心からのお礼を申し上げたい。

2005年晩夏、ソウルにて  堀 雅昭 



 〔付記-本書刊行までの経緯について〕

 本書は2005年11月末に刊行される予定だった。ところが印刷を終え、製本直前になって茂丸の曾孫にあたる杉山満丸氏より、いったんは出版社をまじえた協議の末に合意したはずの「杉山文庫」(福岡県立図書館に満丸氏が寄託)所収の諸資料・写真類の引用・使用をすべて許可しない旨の通告を受けた。
 理由は、本稿が杉山茂丸の清濁両面を描いたからだと思われる。満丸氏は「濁」の部分のみの削除を求めたが、著者は「濁の部分もあってはじめて茂丸の実像に迫ることが出来、本稿の存在意義もある」と主張して譲らなかったため、前記の不許可となった。
 氏が問題視したのは、条約改正をめぐる大隈重信への爆殺未遂事件及び金玉均、李鴻章、児玉源太郎、原敬、伊藤博文、大杉栄などの暗殺事件への茂丸の関与をうかがわせる“匂い”であった。
 そこでやむなく、すでに刷り上がっていたものを全面廃棄し、「杉山文庫」所収の諸資材を引用・使用した部分を削除するなど修正を施し、また杉山家所蔵の写真類は著者が独自に収集したものと差し替えたうえで刊行することにした。こうした一連の作業のため刊行が大幅に遅れたことを記し、読者の皆様に心よりお詫び申し上げる次第である。
                             著者識
 

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