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 ●八月十五日、日本のいちばん醜い日
 ●原爆投下の謎に迫る
  『日本のいちばん醜い日』 ( 鬼塚英明 成甲書房 2007.8.5 )から
  
 <醜の章>を続けます。

 ●八月十五日、日本のいちばん醜い日

 (一)戦争の大義

 さきに米英二国に戦いを宣した理由もまた実に、わが国の自存とアジアの安定を心から願ったためであって、いやしくも他国の主権を押しのけたり、その領土を侵略するようなことはもちろん、わたしの志とは全く異なる。
 >>天皇ヒロヒトが戦争を開始した、と見事に宣言している文章である。誰が始めた戦争でもなかったのである。「アジアの安定」も偽りであることは、すでに書いた。朝鮮や中国の領土を侵略した。特に満州国の創立はアヘンによる「満業」であった。その満州国の維持費の半分以上はアヘン密売からの収入であった。

(二)原爆投下による終戦

 戦局は必ずしもわが方に有利に展開したとはいえず、世界の情勢もまたわれに不利である。そればかりでなく敵は新たに残虐な爆弾を広島、長崎に投下し、多くの罪なき人々を殺傷し、その惨害はとこまで広がるかはかり知れないものがある。このような状況下にあってもなお戦争を続けるなら、ついにわが日本民族の滅亡をきたすようなことにもなり、ひいては人類が築きあげた文明をもうちこわすことになるだろう。それではどうしてわが子どもにもひとしい国民大衆を保護し、歴代天皇のみたまにおわび出来ようか。これこそわたしがポツダム宣言を受諾するようにした理由である。

 >>私は大井篤の「手記」などを引用し、皇太后が6月中旬ごろに原爆投下を知っていたことを書いた。8月6日午前8時15分の広島の原爆投下についても具体的に論じた。この詔書の内容は欺隔以外のなにものでもない。

(三)人類永遠の真理と平和の実現

 ポツダム宣言の受諾にあたってわたくしは、わが国とともに終始アジアの解放に協力した友邦諸国に遺憾の意を表明しないわけにはいかない。また、わが国のうち戦死したり、職場に殉ずるなど不幸な運命に亡くなった人々や、その遺族に思いをはせると、まことに悲しみにたえない。かつ戦傷を負い、空襲などの災害をうけて家業をなくした人々の厚生を考えると、わたしの胸は傷む。思えば、今後わが国が受けるであろう苦難は、筆舌に尽くし難いものであろう。わたくしは国民の心中もよくわかるが、時世の移り変わりはやむを得ないことで、ただ、ただ堪え難いこともあえて堪え、忍び難いことも忍んで、人類永遠の真理である平和の実現をはかろうと思う。
 >>まことに勝手気ままな文章である。天皇ヒロヒトが、国家予算(平成の今日においても)を上回る秘密資金をスイスの秘密口座に残していることは外国人の多くの学者たちが書いている。日本人はこのことを知らされないようになっている。まことに「朕」ヒロヒトが語るように、「今後わが国が受けるであろう苦難は筆舌に尽くし難い」ものとなったのである。
 どうしてこんな天皇ヒロヒトが、「人類永遠の真理である平和の実現」をはかることができようか。結果は歴然たる事実である。日本は、アメリカと国際金融同盟の配下におかれたままである。

 (四)かくて私は国体を護持した

 わたくしはいまここに、国体を護持し得たとともに、国民のまことの心に信頼しながら、いつも国民といっしょにいる。もし感情の激するままに、みだりに問題を起こしたり、同胞がおたがいに相手をけなし、おとしいれたりして時局を混乱させ、そのために人間の行なうべき大道をあやまって、世界から信義を失うようなことがあってはならない。このような心がけを、全国民はあたかも一つの家族のように仲良く分かち合い、長く子孫に伝え、わが国の不滅であることを信じ、国家の再建と繁栄への任務は重く、そこへ到達する道の遠いことを心にきざみ、国民の持てる力のすべてをそのためにそそぎ込もう。そうした構えをいよいよ正しく専一にし、志を強固にして誓って世界にたぐいないわが国の美点を発揮して、世界の進歩に遅れないよう努力しなければならない。国民よ、わたしの意のあるところを十分くみ取って身につけてほしい。
 
>>この中の「国体を護持し得たとともに」に注目したい。この終戦の詔書は、敗北宣言ではなく、「国体護持宣言書」なのである。この詔書の中のどこにも、日本は敗北したとは書いていない。まことに調子のよい文章に出来上がっている。
 
あの玉音放送は天皇ヒロヒトの発案である。小森陽一の『天皇の玉音放送』をもう一度引用する。
 
・・鈴木貫太郎は「宮内次官だった大金益次郎によると、玉音放送という考えは、そもそも宮内省の発議であった。終戦ということを国民全体に知らしめるために、陛下が直接お声で国民に語られるのがいいのではないか、と考え、内閣の方へ諮ったところ、内閣の方もそれを認めた。が詔書そのものを放送されるという考えは初めはなかったらしい。終戦の御前会議で、自らマイクの前に立ってもと仰せられたので、内閣の方も、ぜひ玉音放送ということになったのである」と語っている。
 「自らマイクの前に」立つということは、ヒロヒト自身の提案だったことがうかがえる。玉音放送は、ぎりぎりのところまで追いつめられたヒロヒトが、自らの延命と「国体護持」を実現するための必死の国家イヴェントであり、電波仕掛けのスペクタクルであったのだ。
 録音は、8月14日深夜2度にわたって行われた。陸軍の一部には「玉音放送」を阻止する動きもあったが、宮内省に保管されていた録音盤は無事であった。
 8月15日正午、「終戦の詔書」は「玉音放送」として大日本帝国臣民の耳にとどいた。しかし、その後全文が問題化されることはなく、「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」の部分だけが毎年反復されることになったのである。・・・

 かくて「鶴の一声」は全国津々浦々のみならず、海外にまで流れ、日本人は戦争の終わったことを知らされたのである。一般の人々の8月15日の記録はたくさんの本に書かれているから、ここでは触れないことにする。
 『目撃者が語る昭和史』(第八巻)の中に、迫水久常(元鈴木内閣書記官長)の「ポツダム宣言受諾の苦悶」が記載されている。この最後の文章は以下のごとくである。

 ・・・終戦の最終段階は、八月九日夜半と八月十四日午前の前後両度の御前会議である。陛下が白い手袋をはめた御手でしきりに両頬をおぬぐいになりながら、終戦も御決意をお示しになったお姿は今も、私の眼底にはっきりやきついている。今日の日本国民は、実際においてことごとく、その際における陛下の自らをお捨てになって、これ以上の国民の苦難を牧うとされた御仁徳によって生きているのである、と思うのである。(人物往来/S・31・2)

 「天皇が日本を救った」という神話が戦後になって登場する。その神話を実現するために『日本のいちばん長い日』も創作され、映画化された。この本の欺瞞性を私は徹底的にあばいた。半藤一利に個人的な恨みなど少しもない。そして、多くの神話が今日でも創作され続けている。私は「聖断」そのもの自体が虚構であると主張したい。天皇は国体護持にのみ拘わり続け、戦争を長びかせたのである。戦争を長びかせたもう一つの理由を、私は天皇の財宝のスイスヘの移しかえの中に見た。

 松浦総三の『天皇裕仁と地方都市空襲』を紹介したい。「詭弁・すり替えの『終戦の詔書』」の中の一文である。

 ・・・★「終戦の詔書」は全文が詐欺の文章である。筆者(松浦)は最近10回以上、この文章を読んだが、恐るべき文章である。「全文が詐欺の文章」と書いたが、けっしていい過ぎではない。それは、詭弁、すり替え、頬被りの連続で、国体・天皇制を「死守」するためのグロテスクな文章である。
 「終戦の詔書」はポツダム宣言受諾・無条件降伏の文書である。裕仁らが無条件降伏をなぜ「終戦」といい替えたのか。降伏や敗戦ならば、裕仁らは戦争責任や敗戦責任を負わねばならぬ。しかし「終戦」にするとその辺はアイマイになる。戦争責任をのがれるためである。
 裕仁はNHKの記者会見(1975年10月31日)で、「戦争責任は?」と質問されて「そういう文学方面はあまり研究していません」とにべもなく答えている。しかし「終戦」という言葉を発明して、戦争責任をのがれたあたりは相当の「文学方面」に詳しいといわざるをえないのだ。・・・

 この文中の1975年10月31日、日本記者クラブでの会見の模様は530頁にすでに書いた。このときに原爆投下の質問が出た。あの時の「エ・・」という文章は、松浦総三の『松浦総三の仕事』の中から引用した。
 私は「エ・・エ・・エ・・投下された、ことに対しては、エ・・エ・・」の中に、直感的に、天皇が8月6日午前8時15分の広島への原爆投下の件を知っていると思った。この考えに私は拘泥し続け、この考えの正しさを証明しようと追求し続けたのである。
 
さて、続きを読んでみよう。
 
そしてつぎに、15年戦争をはじめたのは「帝国臣民の康寧を図り万邦共栄の楽をともにする」ことであり「帝国の自存と東亜の安定とを庶幾する」ための防衛戦争だというのだ。なんと図々しい言葉であろうか。
 この部分の「裕仁理論」の最大の弱点は、日本人ならば『朝日新聞』とNHKの応援でゴマ化すことはできても、中国や朝鮮やフィリピン、マレーシア、インドネシアなど軍靴でふみにじられたアジア諸国にとって、裕仁が始めた15年戦争が「侵略戦争でない」などということはとんでもないことであろう。
 裕仁を東京裁判の法廷へ引きずり出せなかった東京裁判の裁判長ウェツブでさえつぎのように言っている。
 「・・天皇をも裁かないようなら戦争犯罪人はだれも死刑にすべきではなかったというのが著者バーガミニの意見であるが、私もまた同感である」(バーガミニ『天皇の隠謀』)・・・

 松浦総三は1914年生まれである。この本は1995年に出版された。彼は80歳を超えて、この本を書き上げたのである。
 「裕仁理論」を見事に打破している。続けてこの人の文章を読んでみよう。これほど読みごたえのある文章に、そうはお目にかかれないものだ。

 
裕仁理論=「終戦の詔書」によれば、アジア諸国に対する「侵略」も「防衛戦争」の一環となる。裕仁らはこの「理論」を盾にとって、南京大虐殺、シンガポール虐殺、重慶大爆撃、朝鮮人強制連行、慰安婦問題などを黙殺しようとするのだ。
 そのような「防衛戦争」つまり。正義の戦争も「敵は新に残虐なる爆弾を使用して頻に無事を殺傷す・・・」というわけで原子爆弾によって「終戦」にせざるをえなくなる。この部分は、裕仁の『昭和天皇独白録』で「ソビエトはすでに満州で火蓋を切った。これではどうしてもポツダム宣言を受諾せねばならぬ」と本音を言っていることと完全に矛盾する。
 
歴史的事実としては裕仁がポツダム宣言を受諾したのはソ連参戦によって、ソ連の発言権が強まれば国体・天皇制が危うくなるからである。原子爆弾を投下された8月6日や8月9日には、裕仁は「なるべく早く講和を」といっている。それが「ソ連参戦」で即時御前会議が開かれるのだ。
 というわけで、「正義の戦争」は終戦となる。では戦死者、戦災者、その遺族はどうなるのか。それを思うと朕は「五内為に裂く」とオーバーなことをいう。が、「時運のおもむくところ」「堪え難きを堪え忍び難きを忍び」というのだ。「五内為に裂く」といっているが、その内容は、被爆者援護法や空襲の補償はしないぞ、ということであろう。

米内海軍大臣が言っている[原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ」の意味をもう一度考えなおしてみないといけないかもしれない。
 ★ヤルタ会談の秘密条項の中に、ドイツ敗北の3ヵ月後にソヴィエトは日本に参戦するというのがあった。ちょうどその予定日が8月9日であった。天皇と側近たちはスティムソン陸軍長官から、この8月9日のソヴィエト進攻の日を教えられていたのかもしれない。それは極秘情報とされ、近衛文麿にも重光葵や広田弘毅にも知らされていなかった。彼らは天皇の命を受けソヴィエトヘの和平工作を持ちかけているからである。

 松浦総三の鋭い直感力が私の鈍い頭脳に強力に働きかけてくる。
 あの極秘情報を当時知っていたのは、ルーズヴェルト大統領、ハリマン駐ソ大使、スティムソン陸軍長官ぐらいで、ステテニアス国務長官(ハル国務長官の後任)も知らなかったのである。原爆とソ連の対日戦参入はたぶん、ワンセットだったにちがいない。原爆投下だけでは日本が戦争をあきらめないと知っていたスティムソン陸軍長官は、長崎の原爆投下とソヴィエトの参戦を同時にセットしたのであろう。そうすれば、確実に日本は戦争をやめると計算したのである。

 ヨハンセン・グループの極秘ルートで、天皇はその日、8月9日の出来事をスティムソン陸軍長官から知らされていたにちがいない。だから、8月9日に御前会議を開いて、「鶴の一声」を初めて発したのであろう。天皇とごく少数の側近がソヴィエトの参戦と長崎への原爆投下の8月9日の同時性を知っていたと見る。だから天皇はあまりの恐ろしさに声をふるわし、頬に涙を伝わらせて終戦の決意を語ったのであろう。

 80歳をすぎてなお、瑞々しき若さをもつ松浦総三の本を読み続けようではないか。
    (続く) 
 

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