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●原爆投下の謎に迫る
  ●原爆投下の謎に迫る
   
 ●醜の章の紹介を続けていきます。

 ●かくて、鶴の一声が発せられた
 
 そういえば、ここまで書いてきてふと思いついた。明治神宮があるのに、大正神宮はどうしてないのか、と。自分の祖父を祭るのならば、自分の父親も祭ればいいではないか。そうか、大正天皇に子種がなかったからか、と。
 
小森陽一は東京大学教授である。しかし、彼の論は普通の大学教授の論よりもはるかに鋭い。その鋭い文章を紹介する。

 昭和天皇ヒロヒトとその側近が「終戦」=ポツダム宣言受諾をめぐって、原爆投下を誘引してまでも引き延ばしをはかった「国体護持」の、その「国体」観念それ自体が、「満洲」をめぐる一連の大元帥・ヒロヒトの判断と結合しながら形成されていった事実を私たちはここで思い起こしておかねばならない。
 「原爆投下を誘引してまでも」に注目してほしい。天皇は国体護持を確実にするために、原爆を誘引したのである。

 私は女形の持つ恐怖を読者に訴えかけた。天皇ヒロヒトは、男でもなく、女でもなく、その恋は下から上への恋闕である。これ以上に恐ろしき恋情がこの世にあろうか。
 この女形の持つ恐怖ゆえに、日本人だけでなく、韓国の人々も、中国の人々も死んでいったのである。
小森陽一が書いているように「国体」観念それ自体、すなわち、神聖天皇の誕生は「満洲国」建設と大きく結びついている。
 私は、満洲国の建設は「満業」だと書いた。岸信介、松岡洋右、鮎川義介たちは田布施一族である。彼らが「満業」の創立者たちであると書いてきた。
 小森陽一の本を続けて読んでみよう。
 特別高等警察が自らを「天皇の警察」として自負し、過剰なまでに「非国民」と「国賊」の摘発に血道をあげたように、ポツダム宣言を受諾するか否かの最終局面で、ヒロヒトが自らの「万世一系」の「統治権」を証明する唯一 (唯三?)のものである、「三種の神器」を、どう守れるのか、ということだけしか考えることができなかった、という権力者自身が自らの生み出した神話的妄想にからめとられてしまう事態が生じていた。

 小森陽一の書いている「神話的妄想」が、私の言う女形の恐怖と繋がっている。ヒロヒトの妄想的なる世界の演出により、満洲国もできたし、ノモンハン事件も起こったのである。そして必然的敗戦の時を迎え、その妄想は神話と結ばれていくのである。

 戦争犯罪を問う面からヒロヒトを追及しても、ヒロヒトはするりと身をかわすのである。従って、ヒロヒトを追及するために、私は彼の出自を洗いなおし、それからその神話がもつ仮面を剥がす努力をしてきたのである。ヒロヒトが西園寺八郎の息子ではないのか、と執拗に追跡したのも、そのゆえなのである。
天皇ヒロヒトが誰の子であろうと、問題ないのかもしれない。ただ、連綿と皇統が続きさえすればいいのかもしれない。
 「皇室の一番大きな使命は、皇室そのものを存続させることである。その皇室の中核体をなしているのが天皇である」と大宅壮一は『実録・天皇紀』の中で書いている。続けばいいのか? 私は大森実の『戦後秘史』をたびたび紹介した。90頁に、大森実が阿南陸軍大臣夫人の阿南綾さんから8月11日の出来事を聞く場面について書いた。このとき阿南は天皇に個人拝謁する。天皇は阿南に、「阿南、心配せんでいいよ、確証を得ているんだ」と言っている。天皇は重臣たちの知らない(東郷外相と米内海相は知っていたかもしれない)情報を、アメリカ側からすでに与えられていたことを示している。あの9日~10日にかけての御前会議のときには、すでに天皇の身分は保証されていたことになる。ヨハンセン・グループとスティムソン陸軍長官のルートの中で、原爆投下と天皇制護持がセットになっていることが分かるのである。
 なにはともあれ、8月10日午前7時、鈴木貫太郎首相はポツダム宣言受諾の用意のあることを打電した。これが第一回目の「聖断」すなわち、鶴の一声である。
 そして8月13日、連合国からの正式回答が到着した。この中に、天皇と日本国政府は連合国司令官に「subject to」するという一句が入っていた。この英語の熟語をどう解釈するかでもめ出した。その間にもB29爆撃機は地方都市に爆弾を投下し続けるのだが、大臣、重臣たちは、天皇のことが心配でならなかったのである。彼らはそのほとんどが、天皇の身分も地位も完全に保証されているのを知らないために、この英熟語を「隷属する」と訳して、「終戦してはならぬ」と騒ぐのである。この一件は書くのにさえ疲れる。

『昭和天皇独白録』を見ることにしよう。

 8月10日の重臣会議
 10日には重臣を呼んで意見を聞いた、近衛、平沼、岡田、広田の4人は無条件降伏も亦已むを得ないという意見、東條、小磯の2人は已に聖断が下った以上已(む)を得ないが、この決定は良くないという事を暗々裡に表はしている戦争継続論であった。
 12日の皇族会議
 12日、皇族の参集を求め私の意見を述べて大体賛成を得たが、最も強硬論者である朝香宮が、講和は賛成だが、国体護持が出来なければ、戦争を継続するか(と)質問したから、私は勿論だと答えた。
 賀陽宮、東久邇宮、久邇宮は終始一貫、弱い意見であったが、賀陽宮は松平恒雄を排斥したり白鳥敏夫や徳富猪一郎〔蘇峰一引用者往〕を推薦したりする様な時には、本人自身の気持と違った事を□にした。
 秩父宮は日独同盟を主張したが、その後病気となったので意見は判らぬ。
 高松宮はいつでも当局者の意見には余り賛成せられず、周囲の同年輩の者や、出入の者の意見に左右され、日独同盟以来、戦争を謳歌し乍ら、東條内閣では戦争防止の意見となり、其の後は海軍の意見に従はれた、開戦後は悲観論で、陸軍に対する反感が強かった。
 東久邇宮と朝香宮は兄弟であり乍ら、終始反対の意見を持つていた。
 この集会はお茶の後散会した。

秩父宮は御殿場で静養中ということにし、出席するよう言われなかった。天皇は秩父宮を恐れていた。同じ兄弟でありながら、高松宮への批評は鋭い。天皇が高松宮と口論する場面はたくさんあるが、すべて省略した。敗戦が近づくにつれ、高松宮は天皇に終戦を迫ったのである。
 天皇は貯蓄した財産隠しを敗戦前の1944年から開始していたから、敗戦の準備どころではなかった。そのメドがたってから敗戦の準備工作に入るのである。それが敗戦前の6月初旬だった。このことはすでに書いた。この兄弟仲の悪さを見ても、天皇と秩父宮と高松宮の父親が異なっているのが見えてこよう。
 ここに三笠宮がいるのに、彼の評が一行もない。それはすでに書いたのだが、三笠宮が天皇から依頼を受けて、宮中での偽装クーデター工作に入っていたからである。兄弟の中で唯一の味方が三笠宮であったことの証が、ここにも見えてくるのである。
 
8月10日の重臣会議へと戻ろう。

 主戦派とか戦争継続派とかいわれるグループと、穏健派とか和平派とかいわれるグループがそれぞれ意見を述べあった。しかし、彼らは「国体護持」の点では完全に一致していた。要するに、天皇が無事でいてくれさえすれば・・・後は何も申すことかありません・・・というわけである。天皇はそれを確認すればよかったのである。
 すべては、女形の天皇に一任するというドラマが進行していったのである。天皇と木戸と宮中の人々は、重臣(かつての首相たちが主)たちに喋りたいだけ喋らせ、そこで、ご聖断を仰ぐしかないであろうというシナリオを作成していたのである。

12日の皇族会議も同じシナリオが出来ていたのである。こうして大臣や重臣たちは自分の意見を吐露した後で、自分か何らの力もなく、空しい存在であるかを知ったはずである。そして彼らは、天皇の身の安全のみを祈りつつ、己が身のよるべなさを知らされたのである。
 ここに、得体の知れぬ魔力を秘めた、いと怪しき女形の天皇がひらりと身をかわす時、すなわち、大元帥の軍服を脱ぎ捨て、背広に着替える時を迎えるのである。

 『昭和天皇独白録』を続ける。

 豊田軍令部総長、梅津参謀総長、阿南陸軍大臣の三人は、之では国体護持ができぬといひ、東郷外務大臣は出来ると云ふ。鈴木総理は平沼枢府議長と会った結果、之では国体護持は出来ぬのではないかと云ふ様な心境の変化を見せて来た、そこで私は東郷をして鈴木と話合ひをさせて、鈴木の気持を固めさした。
 事態斯くの如しで、閣議も、最高戦争指導会議も各々意見が分裂した、安倍内相、阿南陸相、松阪法相等6人は護持出来ぬと云ふ説だった。
 阿南は陸軍を代表して木戸と激論した。田中隆吉の記事に依ると、阿南は私の処に哀願に来たことはないと云ってゐるが、事実は間接に木戸の処に哀願に来て、議論の来、物別れとなったのである。
 東條も木戸の処に議論に来た、愈々となれば陸軍士官学校の生徒隊で、天皇をお守りすると云ふので、木戸はそれでは皆玉砕する結果となるのではないかと云ったそうだ。
 話は遡るが、9日の御前会議で、私が外務大臣の案に賛成して、受諾の決心を表明する前に木戸を通じて、平沼と近衛とに私の決心を打明けさして置いた。
 
「subject to」を外務省は「制限の下に置かる」と訳した。陸軍側は[隷属する」と訳した。これから問題が生じてこじれた。
 天皇および政府の国家統治権が連合国最高司令官の制限の下に置かれる、のか、連合国最高司令官に隷属する、のかという問題であった。そこで『昭和天皇独白録』を続ける。

 かように意見が分裂してゐる間に、米国は飛行機から宣伝ビラを撒き始めた。日本が[ポツダム」言言受諾の申し入れをなしつつあることを日本一般に知らせる「ビラ」である。
 このビラが軍隊一般の手に入ると「クーデタ」の起るのは必然である。
 そこで私は、何を置いても、廟儀の決定を少しでも早くしなければならぬと決心し、14日午前8時半頃鈴木総理を呼んで、速急(ママ)に会議を開くべきを命じた。陸軍は午后1時なら都合がいゝと云ふ、海軍は時刻は明瞭でなかった、遅れてはならぬのでこちらの方から時刻を指定して召集することとし午前10時としたが、色々な都合で11時ときめた。
 陸海軍では、会議開催に先だち、元帥に会って欲しいと云ふから、私は皇族を除く永野、杉山、畑の三元帥を呼んで意見を聞いた。三人とも色々な理由を付けて、戦争継続を主張した。
 
私が今若し受諾しなければ、日本は一旦受諾を申し入れて又之を否定する事になり、国際信義を失ふ事になるではないかと彼等を諭してゐる中に会議開催の時刻が迫つたのので、そのまゝ別れた。
 午前11時、最高戦争指導会議と閣議との合同御前会議が開かれ、私はこの席上、最后の引導を渡した訳である、この会議の事は迫水の手記に出てゐる。
 『鈴木貫太郎自伝』から引用する。迫水の手記もよく似ている。涙、涙の世界である。私がいう「女形天皇」の最後の場面である。

   
 ・・純白のお手袋にてお眼鏡をお拭き遊ばされていたが、陛下は一段と声を励まされ、
 「このような状態において戦争を終結することについては、さぞ、皇軍将兵、戦歿者、その遺家族、戦災者らの心中はいかがであろうと思えば胸奥の張り裂くる心地がする。しかも時運の赴くところいかんともなし難い。よって、われらは耐え難きを堪え忍び難きを忍び・・」
と仰せられたかと思うと、玉音は暫し途切れたのである。仰ぎ見れば、おお、おいたわしや、陛下はお泣き遊ばされているではないか・・
 列席者一同は今度の再度のご聖断を給わるについては非常に緊張し、いう者も聞く音も涙で終始したのであるが、この陛下の、
 「耐え難きを堪え・・」
の玉音を拝するや、たまり兼ねた一同は御前もはばからず、ドット泣き状したのである。なかには身もだえ号泣する者もあったのである・・。

私はこの場面と8月9日の場面を読み、ただ唖然とするのである。「あんたたちゃ、なぜ泣くのか」と叫びたくなるのである。終戦工作をどのようにするのか、軍人たちの今後をどのようにするのか、戦死者の扱いをどのようにすべきか、泣いている場合か、である。

 
 開高健の小説『日本三文オペラ』を読む。

 ・・さいごの決定的壊滅は昭和二十年八月十四日、終戦宣言発布の一日前、しかも白昼、すさまじい攻撃によって全滅した。公開された多くの記録によればポツダム宣言受諾はすでに一週間以前に決定されていたのだから、この三十五万坪の巨大な廃墟は軍閥政治家や天皇の、面子意識と優柔不断そのものをさらけだしているといえよう。七万人の労働部隊のうち、何人が助かったのかわからない。しかし、八月十四日の夕方に帰るべき人間が帰らなかった家は、大阪市内とその近郊に無数にあったはずだということは想像に苦しくない。無数の父と夫と兄と娘は
狂気の馬鹿の虚栄心のためにまったくむだに四散した。

 開高健が見事に描写しているごとく、「狂気の馬鹿の虚栄心」ゆえに、8月14日も多数の人々が、無数の父と夫と兄と娘が、死んだのである。

 
 ●かくて、鶴の一声が発せられた  <完> 
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ふじふじのフィルター 8月6日放送NHKスペシャル「封印された原爆報告書」を見て。かなり前の見方考え方やサボリ気味(苦笑)な内容とも関連した内容ですね。あと昨日の続きにも。多分戦前とは表面的な部分しか変わっていないのではないか?と最近強く思います・・・... みやびのブログ【2010/08/17 22:28】



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