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●原爆投下の謎に迫る
 ●原爆投下の謎に迫る
  『日本のいちばん醜い日』 ( 鬼塚英明 成甲書房 2007.8.5 )から
  
 ●醜の章の紹介を続けていきます。

 ●かくて、鶴の一声が発せられた

 この『情報天皇に達せず』の8月8日に原爆の記事が出ている。一般の国民は全く知らされていないときに、皇室の人々は全貌を知っていたのである。それはそうであろう。文中、「公」とは近衛文麿である。
 
 然もその時、西部軍司令部は殆ど全滅したらしいとのことで、公と二人、是こそポツダム宣言に、独乙以上に徹底且完全に日本を破壊すると彼らが称した根拠であったらうと語り、或は、此の為戦争は早期に終結するかも知れぬと語り合った。5時人生田出発、7時東京、直に木戸内府を訪問せらる。内府も、一日も速かに終結すべきを述べ、御上も御決心なる由を伝ふと。又内府の話によれば、広島は人口47万中12~3万が死傷、大塚総監一家死亡、西部軍司令部は、畑元帥を除き全滅、午前8時B29一機にて一個を投下せりと。敵側ではトルーマンが新爆弾につき演説し、
 「対独戦の際英国にて発明、1940年、チャーチル、ルーズヴェルトの話にて、予算29億ドル、12万人の労働者を使用して、メキシコ近くに製作に着手、現在6万人を使用せり」と。

天皇は木戸に全貌を知らせる。近衛は木戸からそれを聞き取っている。ほぼ正確である。見事と言うべきか、「西部軍司令部は、畑元帥を除き全滅」となった。
 近衛は細川に、「(陸軍を抑えるには)天佑であるかも知れん」(8月9日の日記)と語っている。この「天佑」という言葉は、原爆投下作戦の「暗号」であった可能性がある。
 8月9日に御前会議が開かれた。
 8月9日の木戸幸一の『日記』の最後の部分を引用する。
 
鈴木首相拝謁、御前会議開催並に右会議に平沼枢相と参列を御許し願ふ。
 11時25分より11時37分迄、拝謁。
 11時50分より翌2時20分迄、御文庫附属室にて御前会議開催せられ、聖断により外務大臣案たる皇室、天皇統治大権の確認のみを条件とし、ポツダム宣言受諾の旨決定す。

 この会議はポツダム宣言を受諾するために開かれた。午前10時半に重臣たちを集めた最高戦争会議では意見が分かれた。それで平沼騏一郎枢密院議長を加えることになった。受諾賛成沢は、米内海軍大臣と東郷外相。反対派は阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田軍軍令部総長。2対3なので平沼枢府議長を賛成派に入れて3対3にして、天皇の御聖断を仰ごうとするのである。
 鶴の一声はここでやっと聴くことができるのである。
 この日、長崎にも原爆が落ちている。長崎市の被害は死者10万人、負傷者7万5000、被災者13万8930人、焼失家屋1万8620戸、焼失率40%。その他の地方都市もB29の爆撃にあって毎日のように死者が出ている。
 この長崎原爆の投下による被害を知りながら、天皇も大臣たちも一言の発言もない。全く国民は馬鹿にされ尽くされている。
 天皇がこの御前会議で語った模様を下村海南の『終戦秘史』から引用する。

 大東亜戦は予定と実際とその間に大きな相違がある。
 本土決戦といっても防備の見るべきものがない。
 このままでは日本民族も日本も亡びてしまう。国民を思い、軍隊を思い、戦死者や遺族をしのべば断腸の思いである。
 しかし忍びがたきを忍び、万世のため平和の道を開きたい。
 自分一身のことや皇室のことなど心配しなくともよい。
 以上はただその要旨をあげただけであるが、大東亜戦は予定と実際との間に相違があるといかれし内容には、
 九十九里浜の防備について、参謀総長の話したところと侍従武官の視察せるところと、非常な差があり、予定の10分1もできていない。また決戦師団の装備についても、装備は本年の6月に完成するという報告をうけていたが、侍従武官査閲の結果では、今日に至るも装備はまったくできていない。かくのごとき状況にて本土決戦とならば、日本国民の多くは死ななければならない。いかにして日本国を後世に伝えうるのか、という、今までにまったくためしのない隠忍沈黙の型を破った陛下自らの思いのままを 直言されたのであった。満場ただ嗚咽の声のみである。首相は立った、会議は終りました。
 ただ、今の思召を拝し、会議の結論といたしますといった。聖断とはいわない、思召を拝して会議の決議とし、第二回の会議は閉じられたのである。首相の車は官邸へ急いだ。時計の針は、はや8月10日午前三時を指している。

これが世に言う「御聖断」である。私が言う「鶴の一声」である。『大漢和辞典』によれば、中国末代の張端義撰の『貴耳巣』にも見える、有難きお言葉である。
 
天皇はどうして広島・長崎の被害について語らず、どうでもよいような(私にはそう思える)九十九里浜の防備について語るのか、まったく理解に苦しむのである。
 「自分一身のことや皇室のことなど心配しなくてもよい」は、真っ赤な嘘である。このポツダム宣言受諾の条件が「国体護持」であることを見ても理解できる。
 「満場ただ嗚咽の声のみである」も私の理解をはるかに超える。どうして、大臣たちは拉いていたのであろうか。彼ら大臣や重臣たちは、これ以降の御前会議で天皇の御言葉を聞くと泣き出すのである。

 さて、この同じ場面を、鈴木貫太郎首相の書記官長として出席した迫水久常の『終戦の真相』から見てみよう。

 陛下は先づ「それならば自分の意見を言おう」と仰せられて「自分の意見は外務大臣の意見に同意である」と仰せられました。
 その一瞬を皆様、御想像下さいませ。場所は地下10メートルの地下室、しかも陛下の御前。
 静寂と申してこれ以上の静寂な所はございません。
 陛下のお言葉の終った瞬間、私は胸がつまって涙がはらはらと前に置いてあった書類にしたたり落ちました。私の隣は梅津大将でありましたが、これまた書類の上に涙がにじみました。私は一瞬各人の涙が書類の上に落ちる音が聞こえたような気がしました。
 次の瞬間はすすり泣きであります。そして次の瞬間は号泣であります。
 涙の中に陛下を拝しますと始めは白い手袋をはめられたまま親指を以ってしきりに眼鏡をぬぐって居られましたが、ついに両方の頬をしきりにお手を以ってお拭いになりました。陛下もお泣きになったのであります。
 建国二千六百年日本の始めて敗れた日であります。日本の天皇陛下が始めてお泣きになった日であります。
   (続く)
 


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