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●原爆投下の謎に迫る
  ●原爆投下の謎に迫る
  『日本のいちばん醜い日』 ( 鬼塚英明 成甲書房 2007.8.5 )から
  
 ●醜の章の紹介を続けていきます。

 ●かくて、鶴の一声が発せられた

 住井すゑ(作家)が書いた「愛する故に戦わず」を紹介したい。この随筆は、葦原邦子他の『女たちの八月十五日』の中に収載されている。
 
[明、十五日正午、重大放送がございます」
 1945年(昭和20)8月14日正午、ラジオはニュースの冒頭で右のように告げた。もしかしたら、重大放送の件は、朝のニュースで、既に知らされていたのかもしれぬ。けれど私の場合、朝のうちはラジオどころではなかった。3人の子供-19歳の長女は徴用工、16歳の次女と14歳の次男は学徒動員で-を、それぞれの軍需工場に送り出すのに忙しくて。
 ところで正午のニュースは、その終りでも繰り返した。
 「明、十五日正午、重大放送が・・・ 」
 心成しか、アナウンサーの声が強張っている。
 「どう?」と、私は今は亡き夫(犬田卯=いぬたしげる)の顔を見た。多少意地悪な勝利感を胸に秘めて。というのは、この日ーつまり無条件降伏を内容とする天皇のラジオ放送が行われる日の到来を、私は一年以上も前に予言していたからだ。ことの次第は次の通りである。[略]

住井すゑは「ことの次第」を書いているがここでは省略したい。確かに彼女はこの一年以上前に、夫や知人のN君にそのことを語っている。間違いのないところである。

 私が「鶴の一声、近くて遠し」の項で書いたのがまさしく、この玉音放送であった。
 戦争に突入した。敗北に次ぐ敗北だった。多くの史家はこの敗北の模様を書き連ねるが私は一行も書かない。知りたい人は別の本を読んでもらいたい。その敗北の続く日々の中で多くの戦死者が、外地のみならず日本国内でも毎日、毎日、続出したとのみ書く。
 「どうして鶴の一声が近くて遠かったのか」
  1944年6月26日、サイパン島攻防戦の最中に、東條内閣の外相重光葵と内大臣木戸幸一が会談する。このとき、木戸幸一は「戦争の見透しと外交をいかにするか」と、重光葵に問うている。「時機到来の際は、宮中は内府に於て、政府は外相に於て、天皇は全責任を負い、聖断へ鶴の一声により事を運ぶの外なき・・・」と重光葵は答えている。

 ちょうど住井すゑが夫やN君に語っていた頃である。

 日本は敗北し続けていた。鶴の一声を待つ気持ちを、全国民が心のどこかに持つようになっていた。しかし、それから一年間、戦争は続けられた。どうしてか? 私はその答えを書き続けてきた。ただ一つ、天皇制護持の確約がアメリカから送られてこなかったからである。

 国際決済銀行は、ちょうどこの6月ごろから、天皇の財宝をスイスの銀行に入れてやるべく協力をするのである。国内にある金・銀・ダイヤモンドまでもが潜水艦や赤十字の船に載せて運び出されるのである。天皇は鶴の一声を出すまでに、なんとしても大室寅之祐以来、蓄めて蓄めて蓄めこんだ資産を海外に運び出さなければ、と思ったのである。その大半が運び出されたのが1945年6月ごろであろう。どうしてか。天皇が終戦工作に入るからである。それが6月8日の最高戦争指導会議(御前会議)となるからである。
 この会議の後に、木戸幸一は天皇から「大綱」を見せられ、至急に「時局収拾の対策試案」を作成し、翌日天皇に奉上する。このことは『木戸幸一関係文書』の中に書かれている。私は彼の日記の一部を掲載した。

 6月初旬であろうと私は推測するのであるが、一部の問題(皇后のスイス国立銀行での件)を除き、ほぼ天皇の財産が海外に移されたのである。とほぼ同じ頃に、ヨハンセン・ルートで天皇に終戦工作に伴う覚え書きが届いたはずである。皇太后への説得や天皇の諸々の動きの中に、それが見え隠れするからである。皇太后が陸軍省に原爆に耐えられる防空壕を造れと難題をもちかけるのは6月中旬以降のことである。皇太后はそれが不可能だと知ると、軽井沢に疎開することを承知するからである。
 細川護貞『情報天皇に達せず』の8月1日の日記には次のように書かれている。細川護貞と高松宮の会話である。高松宮が細川護貞に語る場面のみ記す。
 
「軽井沢に大宮様を御出遊ばすについても、スイスの公使が、米国に軽井沢を爆撃しない様にたのんだと云ふことがわかったので、陸軍の者が三笠宮の所へ押しかけて、大宮様が爆撃を御逃げになる様では面白くないと云って来た由だ。実につまらぬことに気が廻るものだが、注意すべきことではある」と仰せられたり。

『大井篤手記』については触れた。貞明皇太后(大宮様)は原子爆弾の投下のニュースを知り、狼狽する。天皇は6月14日、そのニュースを知らない皇太后を説得しにいくのであるが拒否されて、皇居に帰ると寝込むのである。半藤一利や保坂正康は、天皇の苦悩の深さに思いをいたし、天皇の心労に同情するのである。
 
しかし、ちょっと待て! と叫びたい。天皇はスイスの公使を使って、軽井沢を爆撃しないよう工作をしていたのである。それを高松宮はちゃんと知っている。
 私はこの工作にもヨハンセン・グループが動いているとみている。当時スイス公使とあるのは藤村義明であろう。彼は戦略情報局(OSS)長官ドノヴァン配下のアレン・ダレスと和平工作をしていた。そのスイス公使に「皇太后を疎開させるから、軽井沢を爆撃してくれるな」と天皇が依頼し、アレン・ダレスが承諾し、OSSのドノヴァン長官に連絡する。それを陸軍長官が最終的に認め、爆撃中止を出す・・・。よって軽井沢に爆弾が落ちるのを防いだ。
 高松宮は「陸軍の者が三笠宮の所へ押しかけて、大宮様が爆撃を御逃げになる様では面白くないと云って来た由だ。実につまらぬことに気が廻るもの」だと言うのである。
 自分の母親がいとおしさに、天皇はスイス公使を動かして軽井沢工作をするのである。これが「実につまらぬことに気が廻る」ものなのか。
 
では最終的にはどうなったのか。貞明皇太后は静かに大宮御所で暮らすのである。そして戦争が絡わって8月20日、軽井沢に疎開(?)するのである。
 これはどういうことを意味しているのか。軽井沢への疎開が陸軍の連中にばれたので、天皇や高松宮が交渉し、東京に爆弾が落ちようと、大宮様の御殿には落とさないと交渉した結果であろう。また、東京には原爆が落ちないようになったことを、天皇か誰かが、懇々と説明申し上げたからであろう。従って大宮様は7月のあるとき以降、疎開の話も原爆の話もしなくなるのである。なんと優しい天皇ではないか。天皇のこの優しさを、半藤一利や保坂正康に説明してやりたくなってきた。
   (続く)
  

       
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