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●原爆投下の謎に迫る
 ●原爆投下の謎に迫る
  『日本のいちばん醜い日』 ( 鬼塚英明 成甲書房 2007.8.5 )から
  
 ●醜の章の紹介を続けていきます。

  ●広島にどうして原爆が落ちたのか

 もう一度、米内海相の直話を記す。天皇も木戸も、この米内の話に賛意を示したのである。

 私は言葉は不適当と思うが、原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくて済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなくて収拾出来ると云うのが寧ろ幸である。(「米内海相直話」昭和20年8月12日)
 まさに、米内海相が語るがごとく、数十万人の死者を出した原爆より、ソ連参戦で満州で数十万人の軍人や民間人が死んだことより、国内情勢の憂慮すべき事態が重要であると、天皇や米内たちは考えたのである。その一つが広島にある第二総軍であったというわけである。
 その第二総軍は壊滅した。西日本の軍の反乱はこれによって鎮圧された。残るは関東一円となった。その中心の皇居を舞台に、偽装クーデターを起こした、というわけである。
 
そこまでして守らなければならない「国体護持」とは何なのか? 読者はこの点を深く考えなければならない。

 原爆投下と深く結びついたヨハンセン・グループのすべては、戦後、一人として戦犯とならなかった。アメリカ、そして何よりもこの世界を支配する「陰の政府」、それはユダヤを中心とする国際金融同盟のために働いたがゆえに、彼らヨハンセン・グループの人々は、戦後になると地位と名誉と金を手にするのである。ほとんど例外はない。国を売って得たダーティな報酬だった。
 東郷茂徳は太平洋戦争そのものに反対した。しかし、敗戦処理内閣の外相になったがために戦犯となった。20年の禁固刑。獄中死した。どうしてか。
 1948年11月12日、東京裁判の判決が出た。その判決の一部を記す。

 被告・東郷は、1941年10月から東条内閣の外務大臣として、太平洋戦争の勃発まで、かれはその戦争の計画と準備に参加した。かれは閣議や会議に出席し、採用された一切の決定に同意した。〔略〕 1945年春、かれが再び外務大臣になったときは、抗議が山積していたが、かれはそれを関係当局に回付した。本裁判所の意見では、戦争犯罪に関して、東郷が義務を怠ったということについて、充分な証拠はない。本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一および第三十二について、東郷を有罪と判定する。

これが禁固20年の判決理由である。


 ここで明確にしよう。国際検察局に密告し続けた二つの秘密ルートがあった。一つは天皇ルートであり、もう一つはYルートであった。ヨハンセン・グループは吉田反戦ブループである。戦後首相となった吉田茂は多くの人々をこの検察局に売った。
 東郷は原爆投下の秘密と、天皇の財宝の処理について知りすぎていた。それゆえに消されたのである。  
 
 第二総軍司令官・畑悛六はどうなったか。
 彼も戦犯となり、終身刑の判決を受けた。
 彼は広島に原爆を投下させた功労者ではあった。しかし、ヨハンセン・グループと結びついていなかった。戦後、ヨハンセン・グループを脅していたら、あるいは戦犯にならずに済んだのかもしれない。
 
天皇は、もう一人の知りすぎた男、有末清三を検察局に売ろうとしていたことが後に判明する。「有末精三はどうして戦犯にならんのか」と側近に語っているのである。

 朝日新聞東京裁判記者団著の『東京裁判』の中に、「馬上の半生、長夜の夢」のタイトルで、畑悛六陸軍元帥についてのエピソードが書かれている。
 陸軍元帥・畑悛六。沈痛な、渋い表情のこの人の横顔からは、およそ喜怒哀楽の情をよむことは至難であった。終始寡黙。そして、なにかきびしいものに身を包んでいる様子は、その意志的な頬の線によっても知れるが、しいて取りすましているというのでもない。

 同被告の弁護人・神崎正義氏は、畑氏が被告控室でしたためた一枚の色紙を持っていた。それには
 「 馬上之半生 長夜之夢、俊六 」 とあった。〔略〕
 三日間の審理で召喚された証人は、宇垣一成元陸軍大将、米内光政元海軍大将、米内内閣の外相・有田八郎、元参謀次長・沢田茂元陸軍中将、元帥軍兵務局長・田中隆吉らの諸氏。
 米内光政の口述書は米内内閣の崩壊の際の畑の行動を弁護したものであるが、米内証人に対し、サットン検事が反対尋問に立ち、
 「畑は米内内閣が辞職することに賛成したか」
 ときき、これに対し米内証人、
「初めは賛成していなかった」
 と答えたのに引きつづき、的外れの返事が多く、ついには裁判長たまりかねて、
「かつて首相であった人で、この法廷に出た者の中で一番愚昧だ」
 と、前例のない言葉を口走った。・・
 
私は、米内光政が畑悛六・元帥(第二総軍司令官)を説得し、広島に原爆を投下させた可能性大と思っている。米内が首相になったとき、畑は陸軍大臣となっている。それで米内は証人として出席した。しかし、心にやましいことがあるゆえに、しどろもどろの答えを繰り返し、ウエップ裁判長はついに「一番愚昧だ!」と口走ったのであろう。

 こんな愚昧な男が終戦工作の主役の1人となり、天皇のイエスマンとしての行動を取り続けたのである。

 畑悛六元帥の判法文を記す。
 
かれの指揮下の軍隊によって、残虐行為が大規模に、しかも長期間にわたって行なわれた。畑は、これらのことを知っていながら、その発生を防止するために、なんらの措置もとらなかったが、なんらの方法も講じなかったかである。〔以下略〕

 私たち日本人は、この米内光政という一番愚昧な海軍大臣(元首相)に一杯喰わされたのだ。天皇という存在はそれほどまでに大きな犠牲を要求して、平成の今日まで生き続けているのである。
 この項の最後に、「八月3日から連日義勇隊約3万人、学徒隊1万5千人の出動を命令された」ことに関し、原爆遺跡保存運動懇談会編の『広島爆心地中島』から引用する。
 当時の県視察官、後に広島一中・学校長として動員学徒に深い関係のあった数田猛雄氏は、「動員学徒誌」の「動員学徒をしのぶ座談会」の内で次のように軍部のことを述べている。
 

 私たち教育関係者としては、教育防衛(*次代を担う若者たちの教育=人材育成を天皇制軍隊の横暴から防衛する)の立場から僅かの時間でも教養を高め、学問の道の指導訓育に心をくだいたものであります。
 この間の学徒は国家の危急存亡にあたり、ひたすら勝利を希って栄養失調に陥入りながら昼夜を分かたず自己を拠ってよく精進努力してくれました。
 青雲の志をもちながら入学以来明けても暮れても戦力の増強に死力を尽し、学業を省みる暇もなかったのでこの姿では勝っても負けても将来どうなるかと心配でならなかったものです。
 そこで教育防衛のため、無理難題を言う軍部としばしば衝突したことも今に至って感慨無量のものがあります。
 原爆のため6千余人の犠牲者が出たので、その善後策は大変なものでした。・・・
   
 
 学徒を殺し、一般市民を殺し、第二総軍の軍人を殺し、木戸幸一は大井篤の尋問に答えている。

 ・・陛下や私があの原子爆弾によって得た感じは、待ちに待った終戦断行の好機を茲に与へられたと云ふのであった。特に皇室や上流階級にも身命の危険が及んで来たからではない。・・・

 私は多くの非難を覚悟の上で、この「涙の項」を書いている。『広島爆心地中島』の本の最後は以下の文章である。

 ・・当時の国家総動員体制下にあって、子どもの健康、安全を第一に考えて、敢て反対の意見を述べ、また自分の責任で行動する教師のあったことは驚きであり、また救いであった。一方強引におしつけた軍部の横暴は許し難い。
 しかも原爆投下は、命じたものも、命じられたものも、そしてすべての命を奪い去った。
 さらに許し難い。・・

 私たちは、この事実から何を学ぶべきか、改めて考えさせられることが多い。

 ************

 冒頭に紹介した章末まで何とか辿り着きました。

 ・・ 私はここで私なりの結論を書くことにする。・・・へ。

 ●広島にどうして原爆が落ちたのか  <完>
  

  ●かくて「鶴の一声」が発せられた へ 続きます。


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