カウンター 読書日記  ●原爆投下の謎に迫る   『日本のいちばん醜い日』
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 ●原爆投下の謎に迫る   『日本のいちばん醜い日』
  ●原爆投下の謎に迫る
  『日本のいちばん醜い日』 ( 鬼塚英明 成甲書房 2007.8.5 )から
  
 ●醜の章の紹介を続けていきます。
 
  ●広島にどうして原爆が落ちたのか

 ・・・
 私はこの文章を読んでいたときに、ハッと気づいたのである。「どうして広島に・・」と長いあいだ思い悩んでいた難問が「ついに解けたぞ」と、ひそかなる声を出したのである。
 それは一つの仮定ではある。しかし、事実だと確信する。有末精三の次の文章を引用してから謎解きに挑戦してみよう。
 
10日早朝、双葉山中腹の総司令官宿舎に畑元帥を訪ね挨拶に行った。ソ連参戦のため急ぎ東京へ帰るべく、原爆の調査研究の一切は仁科博士一行に委任する旨報告したところ、元帥は当然至急帰京をすすめられ、独語のように、
 「君!! なるようにしかならんねェ 」
と短かい言葉を洩らされた。元来、元帥は昔から頭が俊敏で、先きの見透しのよいことで有名であった。わたしも参謀本部の演習課で勤務の折、隣りの作戦課長だった元帥(畑大佐)の評判をよく聞いていた。「五千メートルしか届かない砲弾を、七千メートルも先きの目標に向って発射するような計画には絶対不賛成」といった性格の方であった。その元帥の独語を聞いて、わたしは心なしか和平への予感めいたものを感じたのであった。

 有末精三は「それぞれ頭や頚(くび)元や腕に包帯をしていた岡崎清三郎参謀長(中将、第26期)、真田穣一郎少将(参謀副長、第31期、前大本営陸軍部作戦部長)、井本熊男作戦主任参謀(大佐、第37期、後の陸将)、同参謀・橋本正勝中佐(第45期、後の陸将)などが草の上に胡座(あぐら)をかいたり横になったりして論議しているところへ挨拶否見舞に行った・・・」と書いている。生き残った第二総軍のトップクラスも全員負傷して、草の上で胡座をかいていたのである。
 この日、間違いなく、第二総軍の全員は、8時ごろに集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第二総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。
 ひとり、★畑元帥のみが理由はともあれ、この総司令部に行っていないのである。

 「山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥」と有末精二(三の誤植)は書いている。私は東郷茂徳外相の依頼か、他のヨハンセン・グループの依頼を受けた松本俊一次官が原爆投下前のある日、秘かに畑元帥と会談し、8月6日午前8時すぎごろ、広島に原爆を落とす計画を打ち明けたと思う。そのときに松本俊一外務次官は、この日の8時すぎに、第二総軍の全員が集合するようにして欲しいと依頼したとみる。この第二総軍を全滅状態におけば、陸軍の反乱の半分は防げるからである。
 
畑はヨハンセン・グループの依頼を受けた。「君、これは上の方も承知しているのか。そうか、君、なるようにしかならんねェ・・」と言ったにちがいない。この指令がヨハンセン・グループからグルーに報告された・・・。そして、8月6日午前8時すぎに、広島に原爆が落ちたのである。
 
大木操の『大木日記』の8月7日を見ることにしよう。大木操は当時、衆議院書記官長であった。

 8月7日(火) 晴
 10時半登院、間もなく警報、小型機空襲。
 議長、副議長と雑談。
 正午過、岡田厚相来訪。広島に原子爆弾を6日午前8時半頃投下。10数万の死傷の報、大塚地方総監、爆傷死、畑元帥健在、高野知事は出張中にて助かる。成層圏より落下傘にて投下、地上2、3百メートルにて爆裂、直径4キロ全壊全焼、エラいことなり。
 直ちに依光代議士は日政の幹部会にこれを伝える。一座愕然。

では、『広島県史(近代Ⅱ)』の「原爆と敗戦」を見ることにする。
 
広島地区司令部の強い要請により、中国地区司令部の強い要請により、中国地方総監および広島県知事は8月3日から連日義勇隊約3万人、学徒隊1万5千人の出動を命令した。

この二つの本を読んで、私は次のように推論する。

 八月初旬に広島県庁に入った畑元帥は、高野源進・広島県知事と中国地方総監を説得した。第二総軍を動員し、8月3日から連日、義勇隊3万人、学徒隊1万5千人を出動させよと命じた。畑はひそかに、高野知事に真相を打ち明けた。高野知事は広島を去った。こうした中で8月6日の朝8時15分を迎えた。第二総軍の軍人たち、義勇隊、学徒隊の多くが死んだのである。

 私の説を誤謬とする人は、これに反論する説を述べられよ。すべてが偶然と言いはるつもりなら、もう何も言うべき言葉はない。
 この軍隊を指揮した中国軍管区司令官の藤井洋治中将(広島第五十九軍司令官)も、夫人とともに被曝死している。

 一九九七年に国立国会図書館は「政治談話録音」なるものを一般公開した。木戸はその中で「原子爆弾も大変お投に立っているんですよ。ソ連の参戦もお投に立っているんです・・」と語っていた。 


 天皇は原子爆弾の悪口を一生語らず、生涯を終えた。1975年10月31日、日本記者クラブとの会見のとき、アメリカ軍の広島への原爆投下に関する質問が出た。
 
天皇:「エ・・この・・エ・・エ・・投下、された、ことに対しては、エ・・エ・・こういう戦争中で、あることですから、どうも、エー、広島・・・市民に対しては、気の毒で、あるが、★やむをえないことと私は思っています」

 もう1人の記者が戦争責任について質問した。

 「そういう★言葉のアヤについては、私はそういう★文学的方面をあまり研究していないので、よく分かりませんから、そのような問題について答えかねます」
 
 これについては批評の書きようもない。「日本のいちばん醜い言葉」の一つであるとのみ書いておく。   


  (続く) 
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