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●原爆投下の謎に迫る
 ●原爆投下の謎に迫る
  『日本のいちばん醜い日』 ( 鬼塚英明 成甲書房 2007.8.5 )から
  
 ●醜の章の紹介を続けていきます。

 工藤美代子の『香淳皇后』の内容を補足する記事となっている。この後に驚くべきことが書かれている。東郷茂徳は原爆が投下された翌日に、赤十字の駐日代表に一千万スイスフランの寄付決定を伝達する。駐日代表は9日、受諾すると答えたが、通信事情が悪く、ジュネーブの赤十字本部に伝えたのは終戦直後の8月17日となった。その前日の16日、米英はスイス政府と合意し、スイス国内の日本資産を凍結していた。
 それでは、結果はどうなったのか。天皇の資産のほとんどは国際決済銀行の秘密口座を通じて運用された。その金は、いかなる政府の干渉も受けないという超法規条項を持っていた。それでほとんど無事であった。天皇はスイス国立銀行(ほとんどの役員が国際決済銀行の役員)に「特別勘定口座」(既述)をつくり、国際的な商取引をしていた。公的な二口座と天皇名と皇后名の二口座が確認されているが、他にもある可能性がある。
 
工藤美代子が指摘したように、天皇は終戦工作をしていた。ヨハンセン・グループから原爆投下の日を知らせてもらってからは、スイス、アルゼンチン、スウェーデンの各国の秘密口座にも資産を移した。それを「陰の政府」が支えたのである。スティムソン陸軍長官はグルー国務次官を通じてヨハンセン・グループに伝えた。そして言った。「グルー、彼らをたきつけ、持てる影響力を行使させよ」
 では、ヨハンセン・グループは天皇とその仲間たちに、どんな影響力を行使したのであろうか。私がまず第一に考えたのは、原爆投下によって数十万人が確実に死ぬが、これを国際的にも、国内においても報道するな、という脅迫をグルーから受けて約束したと思う。
 あれだけの大惨事を見て、米内海軍大臣は「天佑」と叫んだのである。天皇も「終戦の詔書」の中で一回触れたが、それからは一言も非難の声をあげなかった。あの時だけが例外ではない。死ぬまでだ。新聞もヨハンセン一味の脅しに屈したのか、ほとんど報じなかった。スティムソンの思惑どおりである。
 
 日本にとって、天皇にとって都合のよいことが原爆投下によってもたらされた。天皇はこの直後に、アメリカから「天皇制護持」の約束を与えられていることだ。そして、御前会議を開き、ポツダム宣言受諾を決定する。間違いなく、原爆投下と交換条件である。アメリカは、アメリカ国内よりも日本での非難を恐れていたと思う。どれだけの人々が、アメリカの蛮行に激怒するかを計りかねていたにちがいない。アメリカの利益、否、国際金融同盟の連中は、「さすが、スティムソン、よくやってくれた!」と快哉の声をあげたことであろう。「これで日本は、永遠に俺たちの奴隷の国になったぞ」と。
 もう一度、「ジュネーブ13日共同=藤井靖」に戻ろう。この記事の最後は次のようになっている。

 寄付の形で動かすことを阻もうとする米英と、寄付の正当性を主張するスイス政府、ICRCが対立した。
 この紛争は46年6月、極東委員会と連合国軍総司令部(GHQ)にゆだねられた。極東委員会は同年10月「ICRCの主張に根拠はない」として送金禁止を決定。しかしICRCは米国の弁護士を雇い、巻き返しに成功。米国務相は49年3月、スイス政府の裁量を認めて送金に同意。英国も49年5月「所有権の主張」を撤回した。
 送金は49年5月末。スイスが横浜正金の資金凍結を解除して実行された。ICRCは英国への配慮から一連のプロセスを「極秘」扱いとし、日本にも細かい経過を知らせなかった。
 
この文章に見えてくるのは、一千万スイスフランの数十倍か数百倍の金が天皇と皇后の秘密口座の中にあり、凍結されかかっているので赤十字国際委員会(ICRC)に依頼し、凍結を解除し、他の銀行の秘密口座に移そうとする天皇の壮絶なる闘いである。
 もう一度、工藤美代子の『香淳天皇』を引用する。

 ある時期、日本赤十字社の総裁の座は空席となっていた。43年間にわたって総裁を務めていた閉院宮載仁(ことひと)親王が、昭和20年5月20日に亡くなっていたのである。
 その後を承けて総裁になったのは、高松宮だった。第五代総裁に高松宮が就任するのを宮内省が許可したのは、7月1日だった。(『高松宮宣仁親王』)
 この日の高松宮の日記には何も記されていないが、7月4日には「速二戦争終末ノ仕事二準備ヲセネバ間二合ハヌ」といった記述が見える。
 高松宮も天皇と同じく、戦争を終わらせる方向を見据えていたのがわかる。

 さて、もう一度、トーマス・H・ハンディのカール・スパーツヘの命令文書を見てほしい。
 「一、・・最初の特殊爆弾を以下の内、いずれか一つの目標に投下せよ。広島・小倉・新潟・長崎・・・」
 この文書の日付は7月25日である。この手紙から見ると、[どれか一つ」で、まだ広島とはっきりと決定してはいなかった。これはどういうことを意味するのか。私はヨハンセン・グループが広島と決定し、グルーに報告したとみる。その日時も、8月6日午前8時ごろにしてほしい、と。「そんな馬鹿な!」と思う人も、どうか私の説を最後まで読んでほしい。
 林三郎の『太平洋戦争陸戦秘史』には次のような記述がある。

 8月7日、大本営は調査団を現地に派遣した。調査団は8日夕広島に到着し、調査の結果、一、特種(ママ)爆弾が使われたこと、二、身体を被覆していれば火傷は防ぎうる等の、内容を持つ報告を9日に大本営あてに打電した。
 続いて第二総軍は、一、白色の着物をきていたものは火傷の程度が好かったこと、二、防空壕に入っていたものも火傷の程度が好かったこと、三、火災の多かったのは朝食準備の最中が狙われたからであること等を報告した。
 米戦略空軍は8月9日、第二の原子爆弾を長崎に投下した。
 陸軍統師部は8月10日ごろ、全軍に対し状況を通報すると共に「この種爆弾は恐るべきものでなく、我が方に対策がある」ことを明らかにした。

次に藤田尚徳の『侍従長の回想』を引用する。蓮沼侍従武官長の奏上を聞く場面である。

 陛下には蓮沼侍従武官長から奏上したが、〔略〕 新型爆弾については、特別な御たずねはなかった様子だったが、広島市全滅の報に、陛下は深い憂愁の色をうかべておられた。〔略〕 8日朝、東郷外相が決意の色を浮かべて参内してきた。そして御文庫地下壕の御座所に進んだ外相は、原子爆弾に関する米英の放送を詳細に言上すると、陛下は原子爆弾の惨害をよく知っておられ、次のように、一刻も速やかに和平を実現することが先決問題である点をお示しになった。

 天皇は原爆についての知識、投下の日、その場所を前もって知っていたはずである。ヨハンセン・グループはスティムソン陸軍長官の極秘情報をグルーを通じて入手し、そのつど天皇に報告していたからである。
 ★では、どうして8月6日なのか。それは、この日までに、スイスの赤十字経由で天皇の貯蓄が無事処理をつけられる見通しがたったからである。
東郷茂徳も天皇から。急げ″と告げられ、赤十宇との交渉を急いだ。グルーはヨハンセン経由で天皇に8月6日の原爆投下の予定を告げていた。東郷茂徳は8日、天皇に会い最初に「無事にスイスの件はうまく処理できました。当分資産は凍結されますが、遅くと3~5年後には凍結を解除してくれるとスティムソンが申しています・・」と言ったはずである。それから天皇と原爆を「天佑」として終戦工作に入るべく相談したにちがいない。

 ★では、どうして広島だったのか。七月二十五日の時点で、スティムソン陸軍長官、マーシャル参謀長たちは爆撃予定地を新潟、広島、小倉、長崎と決めていた。この件について、日本側に最終目的地を決定せよと通知があったと思われる。新潟は長岡市に軍需工場があった。小倉(八幡)は鉄工業の町だった。長崎は国際金融資本家たち(特にユダヤ人たち)がもっとも嫌うカトリックの、日本の総本山であった。
(海軍造船基地でも) 

 では、どうして広島か?
 有末精三の『終戦秘史 有末機関長の手記』の中に、その謎を解く鍵が見えてくる。有末精三は原爆投下のあった翌日、参謀本部第二部長として、部下十名、理化学研究所の仁科芳雄博士たちと広島に視察に行っている。広島には第二総軍司令部があった。
 
わたしは直ぐに降り立ったが、誰ひとり出迎えてもいない。飛行場の短かく伸びた芝生は、一斉に一定方向、たぶん東へ向ってなびいており、しかも一様に赤く、真赤ではなく焦茶色といった方が当っているように焼けていたのに驚いたのであった。ものの2、3分たったころ、飛行場の片隅の防空壕から這い上がってきたのは飛行場長と思われる一中佐、左半面顔中火ぶくれに赤く焼けていた。〔略〕
 司令部は幸に建物は残っていたが、窓ガラスはメチャメチャに壊れていた。その司令部の前庭に運び出された六尺机の前に立ったわたしは、船舶参謀長官・馬場英夫少将の詳細にわたる報告を受けた。〔略〕
 飛行場での印象と生々しい火傷の飛行場長の数言、それに馬場少将の報告で二十数万の広島市が、一言で尽せば全滅といった驚くべき特種爆弾の威力に驚いた。・・

 この広島の原爆で、第二総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。8月6日朝8時ごろに、多数の第二総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。

有末清三は★畑俊六元帥のことを書いている。
 
 山の中腹、松本俊一(外務次官)氏の父君の別荘におられる畑元帥(俊六、第12期、元侍従武官長、支那派遣軍総司令官)に敬意を表し、今夕、仁科博士等の到着を待って調査に着手する旨申告した。将軍は被爆当時日課としての朝のお祈りで、神棚に向っておられたため、幸に被害はなかったとのことであった。

 私はこの文章を読んでいたときに、ハッと気づいたのである。「どうして広島に・・」と長いあいだ思い悩んでいた難問が「ついに解けたぞ」と、ひそかなる声を出したのである。

       (続く)
 

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