カウンター 読書日記 原爆投下の謎に迫る
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


原爆投下の謎に迫る
 ガー・アルペロビッツの『原爆投下決断の内幕』という本がある。彼は原爆直前のトルーマン大統領、バーンズ国務長官、スティムソン陸軍長官らの動きの中に、その秘密をさぐり出そうとする。この中に「ヘンリー・L・スティムソン陸軍長官、トルーマン大統領との会談についての日記の記述、1945年7月24日」が入っている。
 
 それから私は、日本人に対して彼らの王朝の継続を保証することの重要性について話した。そして、そのことを公式の警告文書に挿入することが重要で、そのことがまさに彼らの受諾を左右することになるだろうと感じていた。しかし、彼らはそれを挿入したくないとバーンズから聞かされた。また、蒋介石にメッセージを送ってしまったから、今さら変更はできないという。

 この解釈として考えられたのが、トルーマンとバーンズがうまく振る舞えば、原爆を投下せずに、降伏を引き出しえたとする説である。しかし、Fも指摘しているように、それでは、ソ連との関係上、日本を占領するアメリカの立場が不利となる。従って、対ソ政策上、日本に原爆を落としたという考えである。
 
 トルーマンはポツダムに行き、イギリス、中国とともにポツダム宣言を出す。この中に天皇制の保証を入れなかったから、日本は無条件降伏を選ばず戦争状態が続いた。だから、原爆が落ちた・・・と一般には考えられている。
 
 敗戦国ドイツのポツダムで1945年7月26日(日本時間翌27日午前4時20分)に米・英・中国(国民政府)を代表して(ソ連はこの宣言に加わらなかった)、日本に無条件降伏を求める「ポツダム宣言」が発表された。全文は13ヵ条からなる。最終の第13条を口語訳で記すことにする。
 
 われらは、日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつこの行動における同政府の誠意について適当かつ充分な保障を提供することを同政府に対し要求する。これ以外の日本国の選択には、迅速かつ完全な破滅があるだけである。

 このポツダム宣言の中に無条件降伏という言葉が出てくる。この中に、天皇制護持とか、国体を守るとか、天皇の地位を保障するとかの文字があれば、戦争は終了し、原爆が落ちることもなかった、と一般に考えられている。

 下村海南の『終戦秘史』には次のように書かれている。
 
 最後の第13項目に無条件降伏を宣言し、これに反すれば日本の全的破壊あるのみと結んである。東郷外相は閣議の席に於て、本件につき政府として何等意思表示をしないことを強調したが、軍の方では軍の士気に影響するというので、首相より進んできびしく反撃してほしいという要求が強く、首相としては一面外交の手を打ちつつあるさ中であるから、挑戦的態度はとるべきでなく、一応何等進んで意思表示をなさざることとし、新聞にはただニュースとしてのせるが、これを批判せず、黙殺することとした。・・〔略】・・

 午後の記者団との一問一答中には、首相はポツダム宣言にふれては、
・・・ 私はあの共同声明はカイロ会談の焼き直しであると考えている。政府としては何ら重大な価値ありとは考えない。ただ黙殺するだけである。我々は戦争完遂にあくまでも邁進するのみである。・・
という数語に止めた。
 
さて、仲晃の『黙殺』という本から引用する。本の題名にあるように、この「黙殺」について書いている。

ところで、鈴木首相のいわゆる「黙殺」発言は、海外にはどのようにして広がったのか。
当時、日本政府にごく近い通信社として、内外のニュースの取材と発信の本来業務に加え、海外諸国に日本の立場を広報・宣伝する役割を負い、非公式な日本のスポークスマンと見なされていた社団法人「同盟通信社」(通称「同盟」)が、鈴木首相の発言内容を英文で速報し、その中で「黙殺」(イグノア)と訳した。
 この同盟ニュースを傍受した国際通信社の代表格であるアメリカのAP通信社とイギリスのロイター通信社がイグノア=無視、をリジェクト=拒否と言い換えて表現し、これが米・英などの新聞に「日本、ポツダム宣言を拒否」といった見出しを付けて掲載された。
 
 これを見た米英の国民世論が激高し、これをうけてトルーマン米大統領が原爆投下を決断する。8月6日に広島、ついで9日には長崎に、史上初の原爆が投下された。また、ソ連もこれを絶好の口実に8日、日本に宣戦を布告し、9日午前零時に、当時日本の支配下にあった満州(現在の中国の東北)などにソ連の大軍がなだれを打って攻め込んだ。これが鈴木首相の「黙殺」言明が招いた悲惨な結果であったとされている。
 
 しかし、★仲晃はこの「黙殺」が、トルーマンの原爆投下には影響を与えていない、と書いている。正解である。『トルーマン回顧録』を読んでも、彼の日記を読んでも「黙殺」の言葉すら出てこない。しかし、東郷茂徳が巣鴨拘置所の中で書いた『時代の一面』を読むと、この鈴木の「黙殺」発言に対する怒りがはっきりと書かれている。
「・・米国新聞紙等は日本は同宣言を拒否したと報じ、トルーマン大統領の参戦声明中にも之を理由とすることになったのは誠に不幸且つ不利なことであったと謂はざるを得ない・・」と書いている。

 私は敗戦にいたる過程を書いた本をたくさん読んできた。東郷茂徳の『時代の一面』を主体として原爆投下を考える本を読んでいるうちに、これらの本の作者たちが、アメリカ側(世界覇権とか、闇の支配者たちとかは別として)から原爆投下を見ていないのに驚いた。彼らは日本の立場から、太平洋戦争の原因を見、敗北も終戦も見ているのである。私はアメリカ、イギリス、ドイツ、ソ連・・の状況の中に日本史を追求している。立場がまるっきり違うのである。
                                     
 私はFと同じように、もっと大きなスケールでこの原爆投下を見たいと思う。「陰の政府」がこの原爆投下の主役と見るのである。少しだけ書いたが、ロスチャイルド財閥とそれを取り巻く国際金融財閥が中心となり、この原爆投下も演出したと見るのである。それを、戦後世界の原子爆弾、そして水素爆弾の巨大な軍需産業を支えた「陰の政府」の動きの中に見るのである。日本は現在、電力の大部分を原子力発電でまかなっているが、ここにも、その原料の大半をユダヤ財閥のルートで入れていることと大いに関係がある。
  しかし、トルーマンの弁明も聞いてみよう。トルーマンは仲晃とはちがい、「黙殺」を別の形で引用している。ガー・アルペロビッツの『原爆投下決断の内幕』からの引用である。

 ケイト〔ジェームズ・L・ケイト・シカゴ大学教授一引用者註〕がトルーマンに手紙を書いたのは、なによりも情報の矛盾に困惑したからだ。大統領は、原爆に関する最初の声明では「7月26日の最後通牒がポツダムで発せられたのは日本国民を徹底的な破壊から救うためだった。彼らの指導者は最後の通牒を言下に拒否した」と述べている。
また、公刊された1947年2月のカール・T・コンプトン宛ての手紙でも「日本にきちんとした警告を与えた」と書いている。
 この二つの発言を読んだかぎりでは、トルーマンは鈴木首相がポツダム宣言を「拒絶した」あとではじめて原子爆弾使用を決断したように思える。だが、ケイト教授、あるいは注意深い編集者が、実際の日本への原爆投下命令は7月25日に出されていることに気づいた。ポツダム宣言の発表は7月26日である。したがって、「原爆の使用が決定されたのは少なくともポツダム宣言の発表の一日前、また鈴木首相が東京時間7月28日に拒絶した2日前ではないか?」という疑問が生じる。
 
 このような解釈は、日本が最後通牒を拒絶したあとではじめて最終決断が下されたという公表されている説明とは正反対です。

 ケイト教授はヘンリー・フハップ・アーノルド将軍の回顧録から、7月25日の命令は直接大統領が承認していないように思われることを指摘している。

他でのアーノルド将軍の発言「H・H・アーノルド著『グローバル・ミッション』(ニューヨーク、1949年、589ページ)によれば、この命令は7月22日に将軍とスティムソン長官とマーシャル元帥の間で行われた会議の後で特使がワシントンに届けたメモに基づいていました。

ケイト教授は手紙を次のように締めくくっている。

 閣下が歴史に興味をおもちであることは、たいへん有名です。それに刺激されて、私も歴史家として元の情報に当たりました。問題を正確に記述したいと願うあまり長い手紙になってしまいました。閣下の多忙なスケジュールのお邪魔をしたことをお許しください。
 
この中に書かれている「7月25日」に注目してほしい。★トルーマン大統領に相談することなく、原爆投下の指令書が出ていたのである。その★主役はスティムソン陸軍長官。彼は実質的な国防長官であった。
 スティムソンはフーヴァー大統領時代は国務長官をしていた。彼の経歴を見ることにしよう。
 
スティムソンはエール大学でスカル・アンド・ボーンズの秘密結社に入会した。卒業後、ウォール街の著名な弁護士となった。彼は弁護士の時代にユダヤ王ロスチャイルドの「ザ(ジ)・オーダー」の中枢部に入った。このことは、アンソニー・サットンの『スカル・アンド・ボーンズ』(未邦訳)の中に詳細に書かれている。「隠れた(陰の)政府」のアメリカ代表であった。
 その隠れた政府から見ると、ルーズヴェルト大統領もトルーマン大統領も格下となるのである。真珠湾攻撃を日本にさせたのも、その最高責任者はルーズヴェルト大統領でなく、スティムソン陸軍長官であった。先にスティムソンの「日記」を紹介した。スティムソンの「日記」は歴史の捏造そのものである。
 
さて、話を原爆に戻す。アーノルド将軍もマーシャル元帥(当時参謀総長)もスティムソンの配下である。このケイトのトルーマン元大統領宛ての手紙には続きがある。
 
ケイトはトルーマンヘの手紙にワシントンの陸軍省発の7月25日付の命令の写しを同封した(ポツダムにいるマーシャルの代わりにトーマス・H・ハンディが署名)。この命令には大統領の直接関与を示すものは何も書かれていない。
 1945年7月25日
 アメリカ合衆国戦略空軍司令官
 カール・スパーツ将軍殿
1、第20航空軍第509航空隊は有視爆撃が可能な天候になり次第、最初の特殊爆弾を以下の内いずれか一つの目標に投下せよ。広島、小倉、新潟、長崎・・・。
2、追加の爆弾はプロジェクト担当者による準備が整い次第、上記の目標に投下せよ・・・。
3、日本に対する兵器の使用に関するすべての情報は陸軍長官と大統領に限定する・・・。
4、上述の命令は陸軍長官と合衆国参謀総長の指示と承認によるものである。参考のためマッカーサー将軍とニミッツ元帥に貴殿自身でこの命令の写しを一部ずつ届けることを希望する。
  参謀総長代理
  参謀幕僚部隊将軍
  トーマス・H・ハンディ
 
この令令書が「隠れた政府」からスティムソン陸軍大臣に渡ったがゆえに、トルーマン大統領は何一つ文句を言えなかったのである。そして、準備が整っていく。バーンズ国務長官しかりである。
 このガー・アルペロビッツの『原爆投下決断の内幕』は、8月6日についても触れている。文中、フリードとはフレット・フリードで、NBCテレビのアンカーである。1964年のテレビ番組で、かつての国務長官はフリードのインタヴューに応じている。
フリードは投下時期について明らかにしようと試みた。
 
いえ、私は時間が非常に短いことを言おうとしただけです。・・ポツダム宣言から最初の原爆が投下されるまで、一週間少々しかなかったわけですね。
〈これに対するバーンズの答え〉
そうだ。だがそれは本当に・・偶然の一致以上のものがあったのか私はわからない。われわれはできるだけ早期に原爆が使用できるように励んでおり、それはまったくの新世界への挑戦だった。その日時は不確定であり、一方で宣言に関しては完全な合意に達していた。ただの偶然だった。

 バーンズは「偶然の一致以上のものがあったのか私は知らない」と語っている。そして、その考えを否定し、「ただの偶然だった」と言いのがれをしている。私は、「偶然の一致以上のものがあった」と思うのである。トルーマンもバーンズも関与できない何かがあり、8月6日に広島に原爆が落とされた、と思うのである。
 
その8月6日必然説を追ってみよう。これはあくまで私の仮説である。確たる証拠はない。しかし、追求してみるだけの価値があるものは追求すべきであろう。

 こうけつ厚の『日本海軍の終戦工作』からその糸口をさぐっていこうと思う。

  続く。
 

スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/387-b3b7bf28



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。