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 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―4
 ●「(ギンヅルが)来タル目的ハ 高島サンニ・・」
 

 もう一つは『周蔵手記』の「別紙記載」で、「九月ニナルトハヤク婆サンガ上京出テ来タル」で始まる「京都探訪記」で、ここにも高島が出てくる。大正6年9月初頭から10月下旬にかけて、ギンヅルに同行して京都に行った周蔵が、祖父・提哲長の愛人だった渡辺ウメノを訪ね、その孫で外科医の渡辺政雄を東京に引き取った一件の記録に、高島の名が二箇所出てくる。まず冒頭部分に「(ギンヅルが上京し)来タル目的ハ 高島サンニ関フル事モアルヤフダシ、閣下二用モアルノデアラフガ、例ノ如クアノ人物ト同伴デアルニ 何カタクラム事デモ アルノデアラフ。閣下モ又マメニ ヨク手紙ヲ出スヤフデアルシ 婆サントニ人 薩摩ノ田舎ニオヒテ コノ國ノ情勢ヲ コマンカ事(細かなこと)マデ 手二取ッテヲラル・・・」とある。「アノ人物」とは日高尚剛で、日高を同伴してギンヅルが上京してきたことから、周蔵は、二人の用件が前年1月11日に死去した高島鞆之助の後始末、及び上原勇作との用件と察し、「上原閣下もまめに報告を欠かさないから、この二人は薩摩の田舎にいながら、この国の情勢を細かい事まで把握している」と記したのである。上原から中央の動向を報告させている事を以て、二人の行状の一端を想像すべきであろう。

 同じ文のなかで「トコロデ 三居(ギンヅルのこと)ハ、哲長トハ最後マデ 妾トハ云へ 暮ラシテ来テヲリ、自分ガコノ頃 閣下ヤ高島サンカラ聞クニハ・・・」とある。ギンヅルの過去のことを、この頃になって上原と高島から聞いたというわけだ。この高島が鞆之助か養子高島友武か未詳だが、前者は前年1月11日に死去していた。後者は吉井友実の次男で鞆之助の女婿だが、当時は陸軍少将で第十九旅団長であった。十九旅団は京都十六師団麾下で、本部が伏見区藤森にあり、今はその後に京都教育大学が置かれている。周蔵は10月に京都へ行くが、その折高島友武を訪ね、そこでギンヅルの噂を聞いたというのだろうか。そこまでは分からぬが、何しろ高島鞆之助は戊辰戦争以来のギンヅルの辱知、しかもビジネス・パートナーの仲であった。大正2年春、大阪日赤病院で初めて会った周蔵だが、ギンヅルの孫として粗略にしなかったのは当然で、その関係が養嗣子の友武にも引き継がれていたものと観てよい。

 余談ながら、明治から大正にかけて、東京新宿の淀橋に淀橋医院と称する個人医院があった。吉薗周蔵が大正六年以来、本願寺から預かっていた佐伯祐三の診療を頼んだ医院である。院長は日向・飫肥(おび)藩主・伊東家の血筋の人で、薬局部には遠藤与作という薬剤師がいた。伝承では、淀橋医院は高島鞆之助と川上操六が作ったもので、上原勇作が継承したという。特色はどうやら薬局部にあり、そこで阿片その他の薬学的研究を秘かに行っていたようである。

 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)    <了>

 ************* 

 *以下、参考までに、
 天才佐伯祐三の真相 vol.4 より。 
 (★左下のリンク「佐伯祐三調査報告」からどうぞ)
  http://www.rogho.com/saeki/vol-4.html

  第三章  武生市発表「小林頼子報告書」なるもの
  第二節 小林報告書の要点と誤り  から
  
 ★B.周蔵と医学 を紹介しておきます。
    

 **************
 B.周蔵と医学

 吉薗資料の内容

1.熊本高等工業を二年で中退し、山本権兵衛の紹介で帝国医専に裏口入学。「これを数ヶ月で中退して、ケルン大学へ留学」(小林氏の解釈)。      
2.帰国後、中野に救命院を開設する傍ら、淀橋の牧野天心堂で手伝う。
3.牧野は佐伯の結核の主治医であったが、不在の折りは、中村彝の主治医であった遠藤が佐伯を診ていた。
4.周蔵は医師免許を取るため、額田の研究室に通って、医学の研究を続けた。額田たちは大正十四年(小林氏の解釈・本当は大正六年)の段階で、周蔵が血液型を分離する作業をみて驚嘆した。

●小林報告
1.周蔵は東亜鉄道学校(熊本)に大正元年十月一日から三年九月二十五日で在学していた。上京したというのは疑わしい。     
2.帝国医学専門学校の存在は確認できない。
3.牧野の遺族は周蔵や佐伯の名前を知らなかった。
4.遠藤医師が、中村彝の主治医だった遠藤繁清のことだとすると、中村と知り合ったのは大正十年四月以後だから、大正六年十一月あたりに出てくる「救命院日誌」は怪しい。
5.淀橋病院は昭和七年の設立なのに、「救命院日誌」の大正六年十一月以降の条に出てくるのは、怪しい。
6.「救命院日誌」一九一六(本当は一九二六年)年四月三日の項に「額田兄弟の母(これは小林解釈)を大森に訪ねた」とあるが、額田医師の母上は前年九月十一日にすでに死亡しており、住居も大森ではなかった。
7.日本の血液型の研究は大正五年頃より、広範な分布調査がなされているのに、その九年も後で、額田が驚嘆したり、また「救命院日誌」一九二六年の条に「先月ノケルン大学カラノ雑誌デ、AB型ノ親カラO型ノ子供ハ生マレナイト知ッタ」とあるのは荒唐無稽である。ケルン大学へ問い合わせたが、当時雑誌を発行していた事実はない。

●落合報告
1.周蔵は飛び級で小学校を一年短縮し、都城中学に入るが、数日で退学し、その後、山本権兵衛の口利きで、熊本高等工業を裏口受験させて貰うが、試験をさぼった。その後、上京したが、大正元年八月、前陸軍大臣上原勇作中将の命令で、東亜鉄道学校へ入ったものである。
2.周蔵は、呉秀三医博の勧めで、大正九年十月から、帝国針灸漢方医学校へ通った。もとより実在の私塾で、校長は周居応という中国人であった。
3.牧野の娘は、周蔵の長男緑との恋に破れて、他家へ嫁いだとのことであるから、思い出したくないのではないか。
4.牧野の代診をしていた遠藤与作は、遠藤繁清の縁者で、当時もとより実在した淀橋医院の薬剤師であった。
5.牧野は確かに以前は中村画伯の主治医で、事情があって遠藤繁清に代わった。従来の中村の評伝は、これに関しては不正確なようである。
6.額田の兄の妾のいた大森の置屋の女将(養母かも知れぬ)のことを「額田ノ母サン」と「救命院日誌」に記したのを、小林頼子が誤解したものである。
7.額田らを驚嘆させたのは、周蔵がウイーンから帰国した直後の、大正六年秋のことである。小林頼子は吉薗資料に「帰国シタバカリ」とあるのを、強引に大正十四年のことにしている。
8.ケルン大学云々と「救命院日誌」にあるのは事実であるが、これを理解するには「救命院日誌」の本質を知らねばならない。「救命院日誌」は、裏で本願寺の諜者をしている佐伯祐三のアリバイ(バックグラウンド)作り目的の日誌であった。その内容は、佐伯が、事実に基づいて創作したものである。ケルン大学の雑誌の条は、佐伯の作文性が行き過ぎた例である。  


 ブロガー補記:2010.12.28 誤字・脱字訂正しました。  

 

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Re: 東亜鉄道学校について
>  東亜鉄道学校は東京にもあった。東亜高等鉄道学校ともいうが、台湾・朝鮮の鉄道開設のために設立されたものと思う。孫安石の文章に清朝の留学生が留学しているという文章があります。

★ご教示ありがとうございます。

 孫安石教授の著書名はお分かりでしょうか?
【2010/12/28 15:13】 URL | ひろもと #- [ 編集]

東亜鉄道学校について
 東亜鉄道学校は東京にもあった。東亜高等鉄道学校ともいうが、台湾・朝鮮の鉄道開設のために設立されたものと思う。孫安石の文章に清朝の留学生が留学しているという文章があります。
【2010/12/28 02:03】 URL | 菅野 #- [ 編集]


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