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 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―3
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―3
 
 ●大正天皇も憂えた上原の急病と浅山丸の神効
 


 ところが上原は車中で熱病を発し、下関を過ぎるころ益々甚だしく、尋常一様の感冒ではあるまいと途中下車して広島か姫路の陸軍病院に入ろうかと迷うも、強いて名古屋に向かおうとした。しかし発熱が猛烈なため大阪で途中下車し、旅館で陸軍病院長の来診を受け、翌朝大阪赤十字病院に入院した。京都帝大の中西亀太郎博士が来院して診察したが病名すら分からず、疲労と腸の不調と判断し、強壮剤を与えただけであった。折しも千葉の陸軍歩兵学校に行幸された大正天皇から、侍従武官長に「上原の病状はどうか」とのご下問があった。前年、戸山学校から歩兵学校を分離して千葉に移転し歩兵学校とした、その実行者が上原陸相だったから、天皇は行幸先で上原を想起されて、その病気に思いを致されたのである。

 武官長が病状を奏上すると、「有栖川宮の病状を診察するため、青山胤通博士が須磨の別荘に行くから、上原の病状も診察させよ」との御言葉があった。青山胤通は3月29日、大阪赤十字病院で上原を診察し、肺壊疸と診断し、「3年ほどは劇職は無理」と楠瀬陸相に告げた。青山の診断を聞いた上原は、当分軍務を断念して第三師団長の辞表を提出、6月9日付で待命となった。この間、見舞いに西下した槙子夫人にすぐに帰京を命じた、との逸話に添え、「彼の武士的責任感の鋭敏なることに就いては、元帥(上原)と乃木大将と共通の点があった」など、些細なことでも上原を褒めそやす伝記ではあるが、興味深い記述もある。
それは、「また高島鞆之助は、東京より西下して病院に来たり、元帥(上原)を見舞ふたが、玉木看護婦に対し『浅山丸を呑んでゐるか』と問い、玉木が『一日十五粒である』と答ふるや、『それでは足らぬ。一回に三十粒やれ』と命じたので、玉木は其の通り、一回三十粒を与えた。然るに、脈は善く、浣腸注射もやめる位になったが、翌朝に至り、元帥(上原)の眼球に斑点が生じたので、再び減量したと云ふ珍談もあった」との記事で、浅山丸の神効を語って余りある。

 大阪日赤病院に飄然と現れた高島鞆之助は、当時枢密顧問官で、陸相を引退して15年経った当時も、決して世人に忘れられた存在ではなかった。陸相上原勇作の単独辞表提出を軍部の横暴と見た世論の憤激は、西園寺の後継首相に就いた桂太郎に向けられ、憲政擁護・閥族打破を主張する在野政党と、これに同調した院外団、言論界、一般民衆の、桂首相に対する攻撃はまことに凄まじいもので、第三次桂内閣は大正2年2月11日、わずか53日で倒壊し、戦前における民衆運動による倒閣の不完全ながら唯一の例となった。
桂内閣崩壊の後、組閣の大命を受けた山本権兵衛は、多数党の政友会の支持を条件にしたが、政党内閣実現の要求に湧く党員たちとの間で政策協定が結べず、政友会内部にも亀裂が生じたため、多数の確保が困難になる。世上では、護憲運動の先頭に立つ国民党の犬養毅を入閣させて、山本内閣を一気に成立させようとの動きがあり、また「山本が閥族で駄目というなら高島鞆之助でゆこう」と尾崎行雄が言いだした。高島も薩閥の一員には違いないが、政友会に入党して党員になるなら良いではないか、という理論で、高島人気がまだ裏えていなかった証拠である。
 
 単独辞職後の上原の病気は、伝記の詳しく記す所であるが、その裏側の真相を記した資料が別に見つかった。

 まず『周蔵手記・本紀』昭和十二年条で、「昨年十一月、牧野サンカラ女中ガ使ヒニ来ラルル」で始まる箇所を要約すると・・・昭和11年11月、淀橋の天真堂医院(牧野院長)に宇垣一成から連絡があり、伊豆長岡の自宅に来て貰いたいと周蔵に伝えよと言われたと、牧野の女中が連絡に来た。宇垣は、8月5日に朝鮮総督を辞めたばかりで狩野川の辺で静養していた。訪ねた周蔵に、宇垣は悠々自適をしきりに強調しながら、「君とは四度目だな」と切り出した。二回しか党えていない周蔵の怪訝な顔を察して、「大正二年、上原閣下が大阪の病院に入院していた時、あの折の病院の廊下で会った」と言いだす。それに驚いた周蔵が、当時を思い出すままに書き留めた。「・・・あの折は上原閣下から東京に呼ばれて、陸軍指定の旅館で待っていたが、連絡がなかなか来ず隠れて同行してくれた父・林次郎と大叔父・木場周助が随分心配した。結局、大阪赤十字病院に来いとの指令が届き、一行は大阪に移動した。閣下の病気は、ギンヅルから貰っていたケシ粉(阿片末)によって回復したが、閣下がそのような麻薬を用いていることにも、当時は驚いた」と記している。
 


 ●「先ノコト 閣下二任セテ心配ナヒヨ」
 

 いま一つ、『周蔵手記』別紙記載の中の「1945年(昭和20年)9月末ピ 敗戦カラノ記」と題する文中、周蔵が上原に「草」として仕え始めた大正元年から2年の頃を回想した箇所があり、そこに高島が出てくる。

 要約すると、大正元年8月2日、上原陸相の使いという前田治兵衛が周蔵宅に来て、千葉・一宮の上原別荘に会いに来い、との指令を伝えてきた。お目見えにも一人でゆく度胸のない周蔵は、前田治兵衛と大叔父の木場周助についてきて貰う。お目見えに合格して、その場で「草」を命じられた周蔵は、一旦帰郷して決心を固めるが、大正3年春、熊本に居た上原から、「前年からの事と今年からの将来の事を決めるために上京せよ」との指令を受ける。上原自身は広島に寄ってから上京するとの事であった。この時も、一人で行けない周蔵は、林次郎と周助に伴われて東京へ出て、指定の旅館で待っていたが、なかなか連絡が来ない。そのうち連絡があり、「閣下は病気になり、大阪で入院しておるので、大阪に移動せよ」との指令であった。「その時にそれ(ギンヅルの薬)を届けるように」と、親爺殿が持ってきてくれたのである。大阪に移動し、病院に軍人が屯しているなかを取り次いでもらうと、本人から頼まれたと称する高島なる人物が現れ、「薬を先に渡せ」と言った。閣下はその薬を待っていたようで、婆さんは二種類の薬を呉れたが、一つは一粒金丹と同種の丸薬で、もう一つは黒砂糖で固めた丸薬であった。後者を多く持参したことを告げると、高島さんは「さすがヲギンさんだ」と言われた。その折、高島さんから「先ノコト 閣下二任セテ心配ナヒヨ」とはっきり言われて自信が沸いた周蔵は、以後は父や大叔父に頼らなくなった。この薬は都城・島津藩の貴重薬で、ギンヅルが作り、藩主に届ける傍ら上原にも送っていたという。

 以上が「敗戦カラノ記」の該当部分の要約である。ギンヅルの二種類の薬のうち、高島が欲していたのはむろん後者、すなわち伝記にも出てくる浅山丸である。ところが、その薬が大阪赤十字病院の上原に届いた経路が、傍線部で分かるようにニュアンスが異なり、はっきりしないが、強いて追究すべき問題でもあるまい。むしろ、高島と周蔵の初会見が大正2年春の大阪日赤病院だったこと、その際、高島が上原の親代わりのように振る舞っていたことが見えて面白い。それを周蔵が戦後まで覚えていたことで、周蔵の高島に対する感情と、高島との親密な関係がしのばれる。
 

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