カウンター 読書日記 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―1
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―1
 『私は、こう考えるのだが』(鈴木孝夫)の前に、毎月末のとおり、

 落合論文を紹介しておきます。

 ***************

  ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―1

 ★知られざる大物『上原勇作伝』と『周蔵手記』に見る高島鞆之助
                                ◆落合莞爾
  ニューリーダー誌 2008.1月号

 ●杉山茂丸の一端を明らかにした『アジア連邦の夢』

 (*『ドグラマグラ』の夢野久作=杉山直樹・泰道の父親)

 前月号で、高島鞆之助・樺山資紀と児玉源太郎、後藤新平の関係を述べつつ、「ここまで書いて折よく、この見解を裏付ける資料に際会した」と書いた。その資料とは、平成18年に発行された堀雅昭著『杉山茂丸伝〔アジア連邦の夢〕』である。内容は後稿で紹介するが、玄洋社総帥の頭山満の指南役だった杉山茂丸が、伊藤博文・山県有朋・桂太郎など長州派首脳や後藤新平を操縦していく経緯を、原資料に当たりながら解説したもので、御用史家や売文史家が従来全く気づかなかった杉山の本質を明らかにしている。この著の価値は長州派首脳に取り入った杉山が、独自の政治的価値観を以て国策を進めたことを立証した点にあるが、その一方、一介の浪人・杉山がそのような地歩に立ち得た理由については考察及ばず、また杉山が近侍した謎の貴公子・堀川辰吉郎に全く触れていないのも遺憾がある。
 
 尤も、かかる杉山の深奥部に関しては、そもそも直接資料なぞあるべくもなく、考察対象を原資料に限定する限り、已むを得ないものと思う。ともかく私としては、本誌の新連載で探究・推理を始めた日本近代史の核心部分、すなわち吉井友実・松方正義・高島ら薩摩ワンワールドと、その後継者たる上原勇作と上原に続く荒木貞夫につき「杉山茂丸という一本の補助線により極めて明瞭に裏付けられた」との実感がある。

 これ幾何学の根本定理発見にも比すべき近来の快事と自画自賛し、すぐにも論考を開始したいが、実はその前に、高島鞆之助について一通り概観せねばならない。今日は勿論、明治・大正の昔でさえ一般世間は高島の実状を全く知らなかった。私も例外ではなかったが、たまたま『周蔵手記』にチラリと出てきた高島鞆之助を調べることで、薩摩ワンワールドの存在に気付き、彼らと長州派首脳を仲介した政治的触媒が必ず存在したことを確信した。杉山茂丸こそ其の人なるべし、との推測に至るまでは早かったが、杉山が漂う政治的空間が広過ぎて、全容が掴めなかった。霧が晴れるように、しだいに山容が見えてきたのは、堀川辰吉郎に関する情報が少づつ集まってきたからで、その堀川について、堀雅昭氏が黙しているのは、多分原資料がないからと推察するが、まあ現時点では堀川辰吉郎まで分析する必要はないかもしれない。薩摩ワンワールドの真相を、私は高島鞆之助の側から見たが、堀氏は杉山茂丸側から見たと言ってもよい。高島と杉山は、言わば相手側の隠された真実を互いに証明し合う関係にある。堀氏前掲著の出現は真に時宜を得たものと思わざるを得ない。

 私が高島鞆之助の存在を知ったのは平成8年で、吉薗家から見せられた『周蔵手記』のなかの「別紙記載」にその名を見て、初めてその存在を意識した。記憶する限り、高島鞆之助なる軍人政治家の名は、それまで読んだ史書の何れにも特筆されておらず、史家から全く無視された存在であった。
 
 まず、『周蔵手記』における高島鞆之助の登場ぶりを見てみよう。陸相・石本新六が急死し、その後釜に第十四師団長・上原勇作が就いたのは明治45年4月2日のことであった。陸相の座は、高島鞆之助が31年1月桂太郎に追われて以来、桂太郎・児玉源太郎・寺内正毅と3代13年に亘り長州が独占してきたのだが、寺内が朝鮮総督専任となるに及んで、後任が兵庫出身の石本新六(士官一期)と上原(同二期)に絞られた。
 
 結局、9年に亘り次官として寺内陸相に仕えたことが決め手となり、石本が44年8月寺内の後を襲い、陸相の座に就くが、僅か8か月で過労のために急死したとき、後任候補にはもはや上原しかいなかった。折から前年の辛亥革命で、東アジア情勢が一変し、これに備えるため数個師団の増設を欲する陸軍は、期待を上原一身に繋いだので、45年4月2日実に14年ぶりに薩派の陸相が生まれた。時に首相は西園寺公望であった。7月30日明治天皇の崩御により大正と改元、その2日後の大正元年8月2日、上総一宮の上原勇作別邸のお目見えから『周蔵手記』は始まる。

  続く。
 

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