カウンター 読書日記 『吾輩は天皇なり』
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


『吾輩は天皇なり』
 第七章 天皇ごっこの行方

 ●自称天皇たちの争い

 熊沢寛道には、何人ものライバルがいた。

 なかでも厄介なライバルとなったのが、義父・大然の実弟の与十三郎の曾孫にあたる熊沢照元である。
 正統な熊沢宗家を名のる照元が、「自称法皇・熊沢寛道氏の軽挙妄動を排す!」などの弾劾文を撒いて派手にマスコミに登場したのは、昭和三十二年のことだ。
 取材に訪れた『週刊新潮』の記者に、照元(当時二十五歳)はこんな抱負を語っている。
 「ここに南朝の子孫が残っていることを確認してもらいたい。うずもれた南朝の御陵、御社を、国家的に祭祀してもらいたい。(中略)ハッキリと今の皇室と祖先は同じであることを明らかにしてもらい、今の皇太子とも隔意なく話せるようになりたい。南北朝の握手を、今、実現できたら、それこそ、すばらしいではないでしょうか」
 皇太子とも話し合いたいと語る照元と母の静江を、マスコミは「新天皇」「前女帝」と呼び、すでに飽きられていた熊沢天皇ネタの新展開として、派手にとりあげた。
天皇家を名のった熊沢家は、寛道だけではない。

 一宮・時之島の熊沢本家のほか、同族で途中から枝分かれしたと伝える元尾張藩士の瀬部熊沢家(信雅王ではなく護良親王の子の治広王を初代とする)、名古屋市昭和区池端に居住して「池端天皇」を自称した熊沢家、「大工の伝蔵」から発したとされる偽・熊沢天皇家、長崎県の自称熊沢宗家などがそれだ。

 これらのうちの本流は時之島の熊沢本家で、大然のあとは、すでに見てきたとおり、養子の寛道が受け継いだ。
 ところがこれに対する異議が、大然の弟の与十三郎側から出てきた。
 その言い分によると、大然の熊沢本家は実弟・与十三郎が継承した。以後、長男の太郎、太郎の長女の静江と受け継がれ、現在の当主は照元であり、寛道は「先考熊沢大然氏が生命を賭して調査した一切の史料を、その没後(中略)恣にしこれを壟断し、終戦後のドサクサにまぎれて濫りに悪用した」“騙り者”にすぎないと否定したのである。
 照元と寛道の宗家争いは、照元のほうからの一方的な仕掛けで起こった。

 自分の主張の正しさを証明するために、照元は「南朝熊沢史料調査会」をたちあげ、同志を募って研究を始めるとともに、活動の成果をPRすべく、機関紙『南朝熊沢史料』(昭和三十二年十一月創刊、のちに『南朝及後南朝史料』と改題)を発刊した。
 その第一方で、照元はこう書いている。

 私があの[寛道糾弾の]声明書を公にした動機は、熊沢同族の宗家として、寛道氏のあの狂人じみた言動を黙視するに忍びず、良識ある世人の顰蹙の渦中にあって熊沢一門の眷属(ママ)が如何に肩身の狭い思いをした事でしょう。それは到底筆舌に尽くし難いものであります。熊沢同族の神聖なる名誉を保持する上にも、寛道氏のあの時代錯誤も甚しい怪行動を阻止しなければならなかったのです。


 ●『皇室典範』をもちだして争う


 照元側からの激しい攻撃に対し、寛道は、大然から熊沢家を継いだのは掛け値なしの事実であって、照元側の主張のほうがウソだと否定した。

また、照元は寛道を「養子だから」と否定しているが、照元のほうこそ太郎の娘の静江の入り婿・塚原両性の息子、すなわち養子の子ではないかとも反論した。
 寛道は、こうも語っている。
 「シズエのところに塚原両作という男が入夫した。(中略)この両作が名前を靖元とあらためて、いまの石原町の熊沢の当主になったのです。この当主・両作こと靖元とシズエの子供が、照元ですよ。私は昭和三十年ごろだったか、この照元のところへ行って面会した。オフセット[の印刷機」を五台も持ってるから、印刷してもらおうとおもって[『南朝と足利天

皇血統秘史』の元]原稿と写真を持って行った。その原稿を見て気がかわったのですな。私が目の上のタンコブになってしもうて、放逐しようとかかりました」
 照元の家業は印刷所だった。そこで寛道は、こつこつと書き溜めてきた原稿を手に、出版の相談にいった。ところがその原稿を読んだ照元側が、横取りの挙に出たというのだが、もちろん照元サイドは主張を一蹴しており、真相は藪の中だ。
 熊沢宗家の“皇位継承権”を争そうに際して、寛道と照元は『皇室典範』までもちだしている。
 寛道は、入り婿・両作の子である照元には、“皇位継承権”はないと主張しているが、かりに熊沢家が現実の天皇家なら、この主張は法にかなっている。照元は「女帝」静江の子、すなわち「女系の子」ということになるが、『皇室典範』は女系の子の皇位継承は認めていないからである。
 一方の照元は、寛道が大然から熊沢宗家を継承したということ自体がありえないと主張した。
 『皇室典範』は、天皇の実子や孫など直系の「皇子孫」がいない場合は、「皇兄弟及びその子孫」が皇位を継承すると定めている。つまり、養子である寛道には、もともと熊沢“天皇”家を継ぐ資格がない。そこで大然は、「皇兄弟」にあたる与十三郎に本家を譲ったのだと照元はいい、「これから推しても熊沢寛道氏が天皇呼ばわりは片腹痛い」と断じたのである。
 
こうして寛道による宗家の継承を否定した照元は、次に自分が唯一正統な熊沢宗家だという理由を、こう説明した。
 
『皇室典範』は、たしかに皇位継承権を「男子」としている。しかし、日本の歴史には、過去に八人もの女帝が即位しているのだから、「私の母が父亡き後、女帝として皇位継いでも一向差支えない」。そしてその女帝のあとを正嫡である自分か継ぐことにも、なんら問題はないー。
照元は、自分が「女系の子」であることを理解しておらず、皇位継承権が「男系の子」にのみ認められているということも、わかっていなかった。
 一方の寛道は、そもそも天皇家には養子は認められておらず、熊沢“天皇”家の皇位継承を『皇室典範』に準拠しておこなうというのなら、寛道にはもとから継承権はないのだということを知らなかった。
 たがいに中途半端な知識をふりかざして争ったわけだが、もとより一民間人にすぎない熊沢が『皇室典範』をもちだして論争すること自体、なんの意味もない。
 両者の争いは、照元側の執拗な攻撃を寛道が黙殺するというかたちで推移しー「よそさんから、親戚同士で血で血を洗うと言われるから、私は無言の行です」と、寛道は語っている-寛道の死去以前に、いつの間にか立ち消えとなった。
 寛道がとりあわず、マスコミも相手にしなくなったというのが理由のひとつだろうが、ほかに、照元側が南朝ゴロの食い物にされたようだと語っている者もいる。それが事実なら、不毛な史実発掘運動に嫌気がさした可能性もある。

スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/379-06151f46



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。