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『吾輩は天皇なり』
 ●政財界に食いこむ信太郎とその一族

 熊沢信太郎は、たしかに目端が判いた。
 南朝というもの、「熊沢天皇」というもののもつ「商品価値」を、よく理解していた。
 けれども寛道には、それを理解する頭はなかった。商売っ気がないという点では、たしかに一種超俗的な存在であった。
 寛道が欲していたのは、「わが熊沢家も万世一系の天皇の血を引いている」ということ、さらには「北朝系の今上天皇家よりも正統な“万世一系の本家”である」ということの証明であった。
 万世一系は、もともと支配のためにつくられた虚構の神話でしかない。寛道は、その虚構によって自分の正統性を実証しようとした。その意味では、彼は完全に天皇側の神話にとりこまれた人であり、最も忠実な“天皇の臣民”であった。
 この状態は、戦後も一貫して変わらずにつづく。ここに寛道の悲喜劇があった。
 寛道は、自身が否定している相手の神話によってしか、自己の正当性を主張できないという身動きのとれない蟻地獄に、一生、身を置きつづけたのである。
 
一方の信太郎はどうなったのだろう。

 歴史が示しているとおり、藤田らによる擁立は夢と消えた。
 上野老人のいう「鳥羽伏見の戦」は昭和十一年の二・二大事件となって勃発したが、そこに藤田らの名はなく、熊沢天皇の出番もなかった。
 信太郎は、その後も「熊沢天皇」というブランドをたくみに駆使して、軍部に食いこんでいったらしい。嘘かまことか、信太郎の秘書だった地田憲吉からじかに聞いたとして、作家の山地悠一郎が池田のこんな言葉を伝えている。
 「軍需省に東條英機大臣(首相兼任)をお訪ねした折り、副官の中佐が出てきて、『いま会議ですが』と言うと御前[信太郎]、怒りまして会議室のドアを開け『東條、何をしておるか』と一喝しましたよ、そこであの東條さんがモミ手をして出て来ましたのですよ」(『後南朝再発掘』)
 東条が首相に就いたのは昭和十六年だから、それ以降の話ということなのだろうが、まず事実ではあるまい。

とはいえ、こんなホラを信じさせるだけのブランドカが、「熊沢天皇」にはたしかにあった。
 信太郎には乃武夫と信彦の二子があったが、このうちの乃武夫は当時の軍需省次官・★椎名悦三郎を仲人として、昭和十六年に帝国ホテルで挙式したという。
 椎名は。妖怪・★岸信介(昭和十六年時点では商工大臣)の部下として岸を支え、「金の岸、燻し銀の椎名」と称されたやり手の官僚で、戦後は通産相や外相などを歴任している。
 
信太郎が、椎名のようなトップクラスの官僚と、どのような経緯で関係をとり結ぶことができたのかは不明だが、藤田勇と昵懇のの後藤新平が椎名の叔父にあたるので、あるいは藤田のラインからのつながりかもしれない。
 信太郎とその一族は、戦後も「熊沢天皇」ブランドを使って政財界に食いこみ、★次男の信彦は詐欺事件や巨額脱税事件を起こして逮捕されている。これについては第七章で書く。
 
一方、田夫野人の寛道は、名古屋で洋品雑貨商を営むかたわら、大然から受け継いだ信雅王顕彰運動を地道につづけていた。
 
信太郎サイドにいた軍の幹部たちも、熊沢天皇の本家は寛道だということを理解したらしく、寛道のもとに書状を寄せている。
 寛道はこう書いている。

 大東亜開戦頃まで文通したる軍人には中国より、畑悛六元帥、板垣征四郎、安藤利吉、多田駿(はやお)の諸大将及び朝鮮総督・南次郎大将、或は阿部信行、奈良武次、鈴木荘六、有馬良橘、林銑十郎、真崎甚三郎、荒木貞夫、宇垣一成、東條英機ら十四人の諸大将あり、更に秦真次、和田亀治、河村恭輔、荻洲立兵、石黒大介、菊池武夫、香月清司、林弥三吉らの諸中将がありました。
(『南朝と足利天皇血統秘史』)

かつて藤田勇に思わせぶりな葉書を出していた荒木は、昭和十三年の陸軍記念日に「恃有待」(待つ有るを恃む)と書いた葉書を寛道にも送っている(本章扉写真参照=略)。
 また昭和十七年には、名古屋の第三師団長の賀陽宮恒憲・敏子夫妻が時之島の信雅王陵を参拝し、寛道らとともに記念写真におさまっている。
 このように、寛道の周囲でも親子二代にわたる顕彰運動に応える動きがなかったわけではないが、泥沼化する戦争にかき消されるようにして、寛運の運動も逼塞していった。
 
闇にとざされたようなこの息苦しい状況に突如風穴があき、そこからぽっかりと青空がのぞいたように感じられたのは、泡を食ってかけつけた近所の人が、いつものように畑仕事をしていた寛道に「日本が敗けた」「裕仁天皇が無条件降伏の放送をした」と告げた、昭和二十年八月十五日のことであった。
 びっくりした寛道は、第一章で書いたとおり「こりゃ、愚図々してはおれん。直ちに大きな仕事にかからなけりゃいかん」と動きだし、マツカーサーヘの請願を皮切りに、驚天動地の活動を開始した。
 日本中が敗戦のショックに打ちひしがれるなか、寛道の頭のなかでは南朝の子孫たちを鼓舞する進軍ラッパが、はじめて高らかに鳴り響きはじめたのであった。
 

「・・・信太郎とその一族は、戦後も「熊沢天皇」ブランドを使って政財界に食いこみ、★次男の信彦は詐欺事件や巨額脱税事件を起こして逮捕されている。これについては第七章で書く。・・・」という興味深い記述がある。
     

 ★第七章 「天皇ごっこの行方」 を先ず紹介します。

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