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『吾輩は天皇なり』
●昭和維新の「隠し玉」とは

 この藤田のもとに、川合貞吉はスパイとしてもぐりこんだ。
 当時、藤田は、大陸で活動している同志の宿泊所にするつもりで神田の旅館・今城館を買いとっており、部屋はいくらでも空いていた。どこでもいいから好きな部屋に入るようにといわれた川合は、これ幸いと今城館にころがりこんだ。昭和十年三月のことである。
 藤田には上野量平という六十過ぎの秘書がいた。徳富蘇峰の門下生で、かつては『国民新聞』で健筆をふるったこともあるという。その上野が、川合にこう言った。
 「五・一五事件ね、ありゃあ、維新でいえば蛤御門の変ですよ。こんどは君、いよいよ鳥羽伏見ですな。青年将校がいまに決起します。もう暫くの辛抱です。うちの先生も昭和維新の謀議に参画しているんです。君はまだ若いんだから、しっかり日本を勉強してください」
 昭和維新は当時の急進派軍人や右翼、浪人らの合言葉のようなもので、粛正の対象は常に腐敗政治家・財閥・天皇側近だった。昭和六、七年に勃発したクーデター未遂事件は、すべてこの層をターゲットにしている。
 上野はそれを「蛤御門の変」と呼び、近いうちには雌雄を決する「鳥羽伏見の戦」が起こると漏らしたのだが、鳥羽伏見に勝つためには、どうしてもおさえておかねばならないものがあった。自分たちが正義軍であることを保証してくれる天皇の身柄である。
 
 ただし、天皇の身柄確保は維新をなしとげるためには絶対に必要な条件ではあるが、それだけでは十分でない。首尾よく確保できたとしても、天皇がクーデターを認めてくれなければ、維新軍はたちまち国家転覆を謀る大逆の乱臣賊子と化すからだ。
 これまでの陸軍の行動に対する反応をみても、昭和天皇はクーデターを認めない可能性が高い(実際、後の二・二六事件では革新将校の決起に激怒し、自ら鎮圧にあたるとまで口にしている)。
 
 そこで藤田は、ひそかに“隠し玉”を用意した。
 それこそが“もうひとりの天皇”―熊沢天皇だったのである。

 この驚くべき計画を、昭和十年当時、川合は在京の同志にそっと漏らした。川合とその同志がかわしたという会話はこうだ。
 
 「・・すると、皇道派の革命に対して弾圧に出た場合には、皇道派の南朝の正統天子として熊沢天皇を擁立し、事を挙げようという訳なのかね」
 「そういうわけだ。彼ら[皇道派および藤田一派]の革命は逆賊の汚名を受けることになる。だから、どうしても皇国の正統なる支配権を主張し、彼らを正義の軍隊とするためには日本的な大義名分を樹てなければならない。そこで彼らは岐阜県の片田舎に潜んでいた熊沢天皇なるものを探し出して来たんだが、問題は神器だ。現在の天皇を否定する以上、宮中にある神器も偽物としなければならない。そこでまた、とうとう“本物”の神器を探してきた。福島県の石城郡にある旧家で、武内宿禰の末胤と称する人物が持っていたのを発見して、秘かに隠匿しているらしい」
 「まったくの神懸りの神話だね」
 「大体日本の建国精神てのが神懸りなのだから、軍人を主導力とする革命は当然神懸りになる。どうもやむをえなかろう」・・・

 まさに妄想の革命というしかない。
 けれども藤田らは、これを大まじめに信じていた。

 武内宿禰の末胤とは、超古代文献と称する『竹内文献』を創作した竹内巨麿のことだ。彼は明治四十三年に天津教を開き、神代以来の記録文書や南朝・後醍醐天皇の御宸筆、長慶天皇御宸筆、太古天皇の遺骨、預言者モーゼの十戒石、三種の神器など驚天動地の宝物を保持・奉斎していると吹聴して、有力者による絶大な支持を得た。
 この天津教の数々の神宝については、実は寛道が、次のような理由で所有権を主張していた。それに信太郎もからんでくるのである。
 
 
●三種の神器をめぐるミステリー

 熊沢家による後南朝ストーリーによれば、南朝正統の信雅楽王とその志臣たちは、足利方の追及をさけるために奥州に逃げ、磐城国標葉郡(福島県双葉郡)を拠点とする標葉清隆(しねはきよたか)に迎えられた。
 しばらくはこの地に駐座していたが、標葉清隆が隣郡の相馬盛胤に攻められたため、ふたたび奥地に逃れ、最終的には尾張国丹羽郡瀬部村(現二宮市時之島)の時之島城に入った。この時点で名を熊沢広次と改め、以後の子孫は熊沢姓を名のることとなった。

 このあわただしい動座の際、信雅王は「千数百点の南朝御物」をみずから創建した磐城国葛尾村の観福寺に匿し、家臣三十六名に護衛を命じた。
 家臣はその地に住みつき、“御物”は明治にいたるまで観福寺に秘蔵されていた。
 ところが明治三十六、七年ごろ、無住になっていた観福寺に住みこんだ斎藤慈教という名の虚無僧が、その一切を盗み出して姿を消した。

 斎藤には、東京・麻布で骨董商をいとなんでいる義弟がいた。吉田長蔵らは、斎藤慈教がこの義弟を介して南朝御物を売り払い、竹内巨麿がそれらを買って天津教を開いたものと見当をつけ、さまざまな調査をおこなっている。
 また、直接、巨麿のもとを訪れて話を聞いているが、このとき吉田と同行して談判におよんだのが、ほかならぬ信太郎なのである(ほかに平島達夫も同行)。
 なお、訪問の年を吉田は昭和十年ごろとし、福島県双葉郡(旧標葉郡)の史蹟を調査した帰途と書いているが、昭和十年の調査は寛道が直接出向いており、信太郎はメンバーに入っていない。吉田、信太郎、平島の三人が一緒に調査した最後は昭和九年なので、これは昭和九年のことだろう。

 このとき三人は、竹内家伝来という宝物はどういった由来のもので、今後どうするつもりなのかと、巨麿にたずねている。

 巨麿の返事はこうだった。
 
「この宝物はもともと皇室の御物である。竹内家はこれを御預りして、代々死を以て御守護申上げて来たもので、先祖の御遺言には、時の天皇に差出せとあるから、現皇室に差上げる心算である」
 これを聞いて憤然色をなしたのは、信太郎だった。信太郎は巨麿に向かい、「この御物は内容から推しても南朝の御物ではないか、それを現皇室に差出すとは何事か」と「叱り飛ばした」というのである。
 吉田が竹内文献と宝物にこだわったのは、それらが「世界的宝物や尊い史料、得がたき古文書」で、もとをただせば信雅王の所有していた南朝御物だと信じていたからだが、信太郎の場合はわからない。竹内家の宝物の利用価値を知ったうえで、あわよくば入手をと考えたのかもしれない。
 
 というのも、“信太郎天皇”の擁立を考えていた藤田が、『富士宮下文書』の熱心な信奉者であると同時に、『竹内文献』およびその神宝の信奉者でもあったからである。
 そのことは、川合貞吉が書いている。
 昭和十年秋、川合は藤田に呼ばれ、彼の部屋でこんな会話をかわしたという。
 「宮中の三種の神器はまが物に過ぎん。今福島県の某所に武内宿禰の子孫がその神器を持っている。今詳しくは語るを避けねばならぬが、大事には大事をもって処せねばならぬ」
 「かねがねうわさは耳にしていましたが、矢張りそうでしたか」
 「そうだ、成就の暁には熊沢天皇こそ、これを奉戴し、継承すべき御方であろう。(中略)モーゼも日本人だというが、十訓[十戒]は日本の神代時代のものだとある。キリストも日本人だ」
 「そうですか、いよいよもって、それじゃ世界歴史は根本から書き改めなければなりませんね」・・・
 

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