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『吾輩は天皇なり』
 ★先ず、第三章 熊沢天皇擁立記 から紹介していきます。

 ************* 

 ●驚愕のクーデター計画

 昭和十六年、寛道は天然のときからの分も入れると通算七度目の上奏をおこなった。
 この上奏には三十余名の賛同者が連署したというが、顔ぶれがすごい。以下におもだった者を列挙する。
 まず政治家では、以下のような顔ぶれが並んでいる。

・松平頼寿(よりなが)(伯爵、第六代貴族院議長)
・小山松寿(第三十二代衆議院議長)
・徳川圀順(くにゆき)(水戸徳川家第十三代当主、公爵、第七代貴族院議長)
・菅原通敬(みちよし)(大蔵省次官、貴族院議員、東洋拓殖総裁)
・三室戸敬光(みむろど・たかみつ)(貴族院議員、子爵)
・中野正剛(衆議院議員)

軍人も多い。しかも軍閥のトップクラスが顔をそろえている。

・林銑十郎(陸軍大将、第三十三代内閣総理大臣)
・真崎甚三郎(陸軍大将、教育総監)
・宇垣一成(陸軍大将、朝鮮総督)
・有馬良橘(海軍大将、明治神宮初代宮司、国民精神総動員中央連盟会長)
・秦真次(陸軍中将)
・山本英輔(海軍大将)

ほかにも、時代をリードする多彩な顔ぶれが並んでいる。
・椎尾弁匡(浄土宗の巨頭、大正大学学長、大本山増上寺八十二世)
・頭山満(右翼界最大の巨頭、大アジア主義にもとづく国家主義運動家)
・橋本欣五郎(二度にわたりクーデターを企図した陸軍大佐、翼賛政治総務)
・徳富蘇峰(国家主義者、ジャーナリスト、大日本言論報国会会長)

 メンバーを見渡すと、南朝イデオロギーの信奉者が目につく。
 たとえば三室戸は、商工大臣の中島久万吉が昭和九年に雑誌『現代』に寄稿した「足利尊氏」は乱臣賊子の尊氏を礼讃するものだとして、同僚議員の菊池武夫(南朝遺臣の子孫)らとともに中島を弾劾し、辞職に追いこんでいる。
 
徳川圀順は、水戸光圀が編纂を開始した南朝イデオロギーにもとづく『大日本史』を完成させた功により(明治三十九年)、侯爵から公爵へと陞爵したし、ファシズムとヒトラーの礼讃者として知られた中野正剛は、東條英機首相と対立して割腹自殺する際、ヒトラーと一緒に撮った記念写真を外して、楠木正成像を机に置いたと伝えられている。
 
南朝イデオロギーはこの時代の支配イデオロギーだから、国家主義に与する者が奉じたのは当然だが、それにしてもよくこれだけの顔ぶれの署名を集めたものだと驚かざるをえない。それが「南朝皇胤」という言葉やイメージのもつ一種の魔力なのだろうが、軍人の場合には、またちがった動機・思惑が働いていた可能性が高い。

 それはなにかというと、“万一の場合”に、「熊沢天皇」を正統な皇嗣としてかつぎだそうという動機・思惑なのである。
 そんなばかな、と思われる読者もいるだろう。
 しかし、これはけっして荒唐無稽な話ではない。実際、熊沢天皇を擁立してのクーデター計画が、昭和十年時点で存在していたからである。
 ただし、このときの熊沢天皇は、寛道ではない。前章でみてきた熊沢信太郎が、その「天皇」なのである。

●クーデターの黒幕・藤田勇

 この秘話は、これまでも多少は紹介されているが、背後関係や細部に関しては、ほとんど語られていない。なかには、このときの熊沢天皇を寛道としているものまである。
 こうした誤解をただしつつ、事件の概要を記していきたい。
 このクーデター計画について書き残しているのは、戦前からのコミュニストとして日中間を行き来し、スパイとして右翼陣営にも食いこんでいた川合貞吉だ。初出は雑誌『世界評論』昭和二十五年五月号の「熊沢天皇擁立秘話」だが、より詳細な経緯が三年後の昭和二十八年に出版された『或る革命家の回想』という自伝で語られている。
 昭和十年三月、それまで中国で工作活動を行っていた川合は、東京で活動中の尾崎秀実やリヒャルト・ゾルゲの要請を受けて帰国し、政商として日本・中国・満州を股にかけ暗躍中の藤田勇の家にころがりこんだ。
 この藤田が熊沢天皇擁立を画策するのだが、その話をするまえに、まず藤田がどんな男なのかをみておくことにしよう。

 明治二十年、福岡県行橋市で生まれた藤田は、早稲田専門学校を卒業後、『報知新聞』の記者となった。当時の同僚に、作家の野村胡堂や本山荻舟らがいる。
 その後、めきめきと頭角をあらわしたらしく、二十七歳で『東京毎日新聞』の再建をまかされて社長に就き、政界との大いパイプを結んでいった(『東京毎日新聞』は『横浜毎日新聞』を前身とする明治三年創刊の老舗の新聞で、今日の『毎日新聞』とは別ものである。『毎日新聞』は、明治十五年創刊の『大阪毎日新聞』が明治四十四年に『東京日日新聞』を発行していた日報社を合併してできたもので、紙名を『毎日新聞』に統一したのはずっとのちの、昭和十八年のことである)。
 
藤田が政界の裏面で暗躍するフィクサー的存在となりえたのは、貴族院における最大会派の貴族院研究会(研究会)で「黒幕的事務局長」のポジションをつかんでいたからである。
 研究会は陸軍と政界を牛耳る巨魁・山県有朋と、その子分格とみなされていた清浦奎吾を中軸に運営され、衆議院の政党政治と激しく対立した。この巨大会派をたくみに分断させるとともに、とりこみをはかったのが政友会総裁で大正七年から内閣を組織した原敬で、その原敬と激しく対立したのが、研究会事務局長の藤田なのである。
 大正十年十一月四日、原首相は国鉄職員の中岡艮一(こんいち)のテロにあい、東京駅で刺殺された。右翼勢力との閣係もとりざたされたが、中岡の背後関係はいまもって謎のままだ。ただし、この原首相刺殺事件に関連し、警視庁は藤田を「教唆犯」として逮捕している。結局、釈放になったが、藤田には教唆を疑わしめるだけのなにかがあったということだ。
 藤田の名は、その後も政界や軍部関連の裏面史に、たびたび登場してくる。その最大のものは、昭和六年の満州事変と、それにつづく十月事件だろう。
 
 満州事変は、柳条湖の南満州鉄道をみずから爆破した関東軍が、中国軍閥による犯行として満州の軍事占領を断行した謀略事件で、翌年には傀儡国家の満州国が建国されている。この謀略の実施にあたり、日本国内で資金調達をおこなったのがロシア班長の橋本欣五郎中佐、支那課長の重藤千秋大佐らであり、資金を提供したのが藤田勇なのである。
その間の事情を、橋本中佐の手記をもとに再現するとこうなる。
 
満州事変に要する五万円の資金を得るために、橋本は各方面に援助を打診したが、応じてくれる者はなかった。そんななか、重藤千秋が同郷の藤田に事情を漏らしたところ、藤田はただちに提供を応諾し、その証しとして、もっていた千円をポンと重藤に渡した。
 そこで橋本らは金策がついたことを関東軍に知らせるべく、石原莞爾とともに謀略を主導していた奉天の板垣征四郎のもとに、和知鷹二少佐を派遣した。
 ついで藤田邸を訪れて計画を詳しく説明したところ、藤田は喜び、「なるべく早く五万円を調達してお渡しする」と約束した。約束は忠実に履行され、大川周明の子分らを介して、板垣のもとに渡った。

その後、満州事変の数日前になって、関東軍の計画が露見した。
 藤田は橋本を新橋の料亭にひそかに招き、「事が暴露したが、残る今後の金はどうするか」とたずねてきた。橋本が「このまま強行する考えだ」と答えると、藤田もそれに賛同し、残りの一、二万円を橋本に渡した-。
 つまり藤田は、満州事変の謀略工作を裏で支えた黒幕なのである。
 

  ●アヘン密輸で巨利を得る へ続く。


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