カウンター 読書日記 東大全共闘1968ー1969
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東大全共闘1968ー1969
●渡辺眸さんは、東大闘争ののち、インドそしてネパールに赴き、長期にわたって現地の人たちと共に生活し、アジアの情景を被写体とした写真を撮り続け、『天竺』や『積年紀』といったユニークで興味深い写真集を出している。じつは、今から20年ほど前、1980年代の中頃に、インドで撮った写真の個展を日本橋で開いていた眸さんに会いにいったことがある。『天竺』を出版したときのことであった。というのも、その頃、ヴェトナム反戦闘争以来、東大闘争をとおしての仲間である故・鈴木優一君や元日大全共闘の諸君とともに「68・69を記録する会」を作って、東大闘争と日大闘争の記録を残す仕事を始めたからである。
 1969年当時、私はすでに逮捕状が出ていて闘争の現場から引き離されていたのでよく知らなかったのだが、東大では東大闘争関係の映像がいくつか作られていて、そのフィルムを鈴木君が保管していた。日大では芸術学部闘争委員会が作成した『日大闘争』『続日大闘争』のほかに厖大な未編集のフィルムが残されているということで、それらをなんとか残したいというところからこの「記録する会」の運動は始まった。
 そういう議論は、実は私がちょっとしたことで入院している間に進められていたことで、退院してから聞かされた私は、日大闘争のフィルムはぜひ残すべきだと思い、一緒にやることにした。しかし東大闘争に関してはたいしたフィルムもないだろうし、むしろ映像資料としては渡辺眸さんの写真しかないのではないかと思って、彼女を訪ねたのだった。しかし、その後、さまざまな事情でその話はそのままになっていた。彼女はくも膜下出血を患い、頭部の大手術であやうく一命を取りとめたというようなことも聞いている。
 
 私自身は、東大闘争にかんしては、むしろ当時学内のさまざまな団体や集団、はては個人によって作られ配布された夥しいビラやパンフレットの類をなんとか遺したいと思っていた。というのも、「東大全共闘」といっても「東大闘争全学共闘会議」という正式名称が表すように、当時私たちが掲げた「七項目要求」の貫徹にむけて、共に闘い安田講堂にあった大学本部の封鎖と講堂の解放を支持するかぎりですべての集団や個人の共闘組織であり、全共闘の公式的で公約数的な見解だけを記してもその全体像は提えられないと思われるからである。東大全共闘なるものの主張や思想と言うべきものがあるとすれば、東大全共闘に結集する各学部や研究所の学生や大学院生や助手・職員よりなる闘争委員会や小集団さらには個人の、ときに奔放でときに過激で、そしてつねにひたむきで真摯な発言の総体こそがそれであろう。誰もが自由にビラを作り、懸命にタテカンを書いたのである。それゆえにこそ、その発信の媒体であり場であったビラやタテカンは、記録され記憶されるべきものである。歴史的事実としての東大闘争の全容を恣意的な歪曲や隠蔽を許すことなくその細部にいたるまでもっとも正確に遺すためには、当時のビラ類を一次資料として保存するアーカイブを作ることから始めなければならない。そういう思いで私は、当時のビラ類を集めて遺す仕事を立ち上げた。

 その作業については、正直言うと、当初は少し甘く見ていたのだが、やり始めると大変な仕事だということをつくづく思い知らされた。連絡のつくかぎり片端から手紙を出して当時のビラ類を所有しておられるなら譲り受けるか借り出したいとお願いして、取りにきてくださいという所には、遠近を問わず足を運んだ。しかしその多くは69年以降のもので、肝心の68年のものは少なかった。そもそも68年当時の闘争の主だった担い手には、私もふくめて、日々のビラを収集し保存するという余裕もなく、そんな意識も希薄であった。教養学部の折原浩氏の研究室に70年代になって集めて整理したビラ類があると聞いていたので、お借りすることにしたが、中心となるべき68年のものはダンボールー箱分、完全に紛失していた。おそらくは誰かが借り出して無責任に返却しなかったからであろう。持っていたのだけれども、この前の引越しのさいに思いきって捨ててしまったというような返事も多くいただいた。残っているビラの多くも、もともと質の悪いザラ紙にガリ版刷りされているもので、黄ばんで脆くなっていた。ということは、ほっとけばやがて消滅するものとしてビラ類はあるということで、なおさら回収して残すことの重要性と緊急性を意識することになった。始めるのがもう5年遅ければ、駄目だったかもしれない。

 こうして集めた厖大な紙の集合から、重複しているものは印刷と保存状態のもっともよいものを選んで、約五千点をほぼ一万枚のゼロックス・コピーに落とし、パソコンのデータ・ベースをもちいて完全に整理し、総目録をつけて、ハード・カヴァー製本全23巻とマイクロ・フィルム3本の『東大闘争資料集』として国立国会図書館と大原社会問題研究所に納めることができた。完成は1992年8月、国会図書館に納めたのは93年で、ほぼ6年かかったことになる。この間、私は体の調子があまりよくない時期であったが、この仕事にほとんど没頭していた。

 なお、その後の急速な技術的進歩を踏まえ、このマイクロ・フィルムの内容をCDに落とす作業を現在進めている。ちなみに映像資料のほうは、日大全共闘の諸君の努力で、最終的に業務用のベータカムのテープ26巻に収録することに成功した。

●五千点、一万枚というのは厖大な数である。コピーを積み上げて1メートル50センチ近くになる。もちろん、クラス決議や小さな集団で作ったビラのようなもので入手できなかったものもかなりあると思われるが、それでも67年と68年の医学部闘争については9割以上、そして68年6月以降にかんしては、実際に東大全学で作成されたもののうちおそらくは7ないし8割がたは回収できたと思う。そのひとつひとつはほとんどがガリ版刷りのビラや冊子であり、それをそのままゼロックス・コピーしたものであるから、完全な一次資料である。
 
 ちなみに、私はこの資料集の作成にあたって、大学当局のものであれ、私たち東大全共闘に敵対した党派や集団のものであれ、回収しえたものはすべて収録することにした。自分にとって都合の悪いものは隠蔽するとか、敵対する党派のものは排除するというような、権力的な操作やセクト的な対応は一切とらなかった。むしろ私は、大学当局がどれほど無責任で破廉恥なことを言っていたのか、共産党系の諸君の主張がどれほどご都合主義的でいい加減であったかは、正確に記録されるべきだと思っている。
   (続)
 

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